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勉強嫌いは欠点にあらず

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自己の性格の欠点修正を試みた時期があった。小中生時期の子どもだったからか、他人のこと、他人の迷惑などあまり考えなかったし、鼻持ちならないところもあった。それらに気づいたのは社会人になって十年後くらいたった頃だろうか。もう少し謙虚になる必要を痛感した。いざ自己変革を目指すと、自身もいびつになったり、我慢したりで苦労も多かった。

他人を気遣うのはいいが、ともすれば気遣い過ぎる。ある先輩が言った。「なんでそんなに自分を殺すんだ?気を遣いすぎだよ。もっと普通に接していいんじゃないか?別にぶつかってもいいじゃないか?平和主義なんか姑息だろう?」そんなようなことだったが、自分を見透かされたようで驚いた。自己変革を強いるあまり他人に不自然に映ったのだろう。

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いつなんどきにおいても、自分は自分を見ていない。自分の目にはいつも他人が映っているし、他人の目には自分が映っている。だからか自分のことは他人がよくわかっている。自分が他人にどの様に映っているかを意識するのは悪いことではないが、その事ばかりに気をくばせていたら自分を見失うだろう。自分を隠したり偽るより、自分を出す方が楽である。

あからさまに自分を出すのが苦手という人間もいるが、ぶっちゃけ出すほうが全然楽だが、これも人による。素直に自分を晒せば人様はそれぞれに判断をするだろう。「あなたって分かりやすい人ね」と言われたりが多かったが、それは長所だと思っている。陰湿で、陰険な人間はどうも苦手だし、何を考えているやらつかみどころがない。ああはなりたくない。

好かれるも嫌われるも他人の判断。全ての人間に好かれるわけでなし、全ての人に嫌われるわけでもない。そう悟れば自然体でいれるし、それでいいのではないか。人に好かれたいから○○する、嫌われたくないから○○するというのは、自然な行為ではないといういう考えを理解した日から、他人の目を気にしなくなった。人はみな欠点もある。良い所もある。

欠点を直せば、良いところばかりになるではないか。だから、欠点を意識するのは止めにした。「自分は欠点だらけの人間です」などという人間は、謙ったようで案外と傲慢だったりする。おそらく、「欠点はたくさんあるよ」と前もっていって置く事で、身勝手に振舞うことを了承させてるのかも知れない。先にいっておけば罪が許されるとでも思ってるのだろう。

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だから、そういう言い方をする奴はズルさ丸出しよ。相手の術中に嵌まらないために、「オレは欠点だらけの人間だから…」と言う奴には、「だったら直せよ。人も迷惑するんじゃないのか?」などとイジワルいっておく。女にも多い。「わたしはワガママなんです」と前もっていう奴。これも免罪符にしようという魂胆見え見えだし、こちらも同じようにいっておく。

「分かってるなら直せよ」。相手が開き直ってるからこのようにいうだけで、欠点なんてそう簡単に直せるものでもない。とはいいつつ、欠点はそんなに悪いものだろうか?指摘されたりもあったり、いろいろ試行錯誤して行き着いたのは、欠点を直すと長所さえも失ってしまうことになる。欠点は恥ずかしい、隠したいというのが一般的だが、案ずることなかれ。

欠点があることが、誰かに役に立つチャンスを与えている、という考え方もできるのだ。自分がバカであるからこそ、相手が賢さを披露できるように、欠点はその人の愛らしさを作るものであり、人に助けさせてあげられる要素にもなる。足りた人間、足りすぎる人間より、足りない部分があるからいいのだ。完璧な項羽よりズボラな劉邦の方が周囲に愛された。

欠点を気にするあまり、人に迷惑をかけてはいけないと自己嫌悪になった経験からいうならば、自己の欠点を気にすると、相手の欠点も気にしてしまう。自己の欠点を直す努力をするなら、相手にもそれを求めてしまう。自分の欠点を嫌い、隠している分だけ、人の欠点が許せなくなる。「欠点を直す」というと聞こえはいいが、実は欠点修正はよくないことだらけ。

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だから、欠点は直す必要もなければ、隠す必要もなく、ただ…、受け入れてオープンにすることでいいのだろう。開き直った言い方でなく、自分が知る自分の欠点は、隠すことなくオープンにして相手に知らせた方がいいのかも知れない。どうしても直した部分は、人知れず地道な努力で直す方向でいいが、一番イイのは、欠点をざっくばらんに笑いにできることかと。

勉強が苦手というのが欠点と思うなら、「成績悪かった」でもいい、「勉強が嫌いだった」でもいい、「頭悪いよ」でもいい、「自分はバカだと思う」などなど、いろいろな言い方があり、ある場面で相応しい言い方があろう。相手も「勉強が全てじゃないよ」と言うかも知れないし、「そうなんだ、バカだったんだ。はははっ」と冗談交じりに言うかも知れない。

「親もたいして賢くないし、『蛙の子は蛙だよ』」と言ってみるのもあっけらかんでいい。学業以外の分野で名を成した人はたくさんいる。親と言う障害が無かったと考えていいし、うるさい親をを跳ね返す意志、精神を持ったかも知れない。勉強なんかできなくてもゴルフができる、野球ができる、将棋が、体操が、スキーが…など、勉強以外にさまざまある。

石川遼の父はゴルフに精通、遼を指導した。羽生名人の親は将棋を知らなかったが、「自分が将棋に邁進できたのは、親が将棋を知らなかったことが良かったから…」という言葉を残している。これが名言であったかどうかより、そういう環境がプラスになったのは事実である。何かに秀でた人間は、子ども時代に親のやることに興味をもったいう話が多い。

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世の中は人の数ほど正解がある。また、世の中は人の数ほど正解はない。何が正しく、何が間違いと言うのは結果において判断される。「終りよければすべて良し」という慣用句がそのことを現している。実に不思議である。本に「正しい」と書いてある事が正しくなかったり、何もしないで放っておいたことが結果的に良かったというケースは各方面にある。

柳沢慎吾がデビュー間もない頃に、彼の母親がこのように言っていた。「何もいわずに放っておいたらあんな子になったんです」。いじらず、さわらず、何もせずの結果、柳沢慎吾は誕生したのだ。じればいい、口出しするのがいいということでもない。放任したあげく不良化し、犯罪に手を染めた子どもも多い。不思議だ、じつに不思議という他ない。

「親がなくとも子は育つ」。「親があっても子は育つ」。親は子どもに手をかければかけるほど、子どもの可能性を摘んでいるという事実を親は知らない。親が子どもに何の手立てもせずに放っていることで、子どもの可能性を摘んでいるともいえる。何をすべきか、何を成さずべきか。子育てはなんとも理不尽なものである。その理不尽さにどう対処すべきなのか。

日本の子育てというのは、子の製造者たる親の価値観によって多くが決まることが多いが、「子どもは神からの授かりもの」という宗教観に根ざした西洋の考えでは、子どもは子どもの価値観を持つように仕向け、親は強引な強制をしない。子どもがどう生きようと、それが子どもの人生である。こういう子どもの主体性に委ねた親の考えに傾倒させられる。

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昨今、問題の「格差社会」は日本の貧困化の元凶として小泉元首相の名があがる。「格差社会のどこが悪い」と小泉はいい、経済効率を達成するには有能で頑張る人が経済的に大きく報われる制度をよしとし、そうでない人は有能で頑張る人を怨んではならないと主張した。この考えは基本的に間違ってないが、資本家階級にとってはありがたい言葉であった。

これは経営者側の意向に添う発言と思われる。もし、小泉元首相の発言が正当なものなら、頑張った人は、「それぞれの階層に関わらず」報われる社会になったはずだ。ところが、経営者(資本家)ばかりが優遇され、労働者全体が低く抑えられたこんにちの現状は、彼の主張した正当性と矛盾する。非正規雇用が全雇用の1/3以上を占めた時期もあった。

努力が報われているのはほんの一部のエリートばかり、いくら努力しても収入が減る一方の労働者…、我々は彼の詭弁にまんまとやられてしまったのだ。いつごろから格差社会は始まったのか?については、それは90年代から準備され、小泉政権下で決定的になったと言われている昨今だ。エリートを重視する教育格差もそうだが、教育格差の解消は難しい。


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