誰でもいい。身近なものに、「学力って何?」問うてみる。すると、「よく勉強できる事」、「学問レベルが高い」、「学問する力」などの答えが返ってくる。「学力」とは何かをwikipediaでは、「人間の基礎的な能力の1つである。人間は、「学力」を駆使することによって、さまざまなことを経験し、その経験から新しいことを学ぶことができる」と記されている。
学問や勉学の文字はない。学力の「学」とは、「学ぶ力」のようだ。学力を狭義に捉えれば、学校教育(就学前教育・初等教育・中等教育・高等教育)によって修得した能力ともいえるし、学校教育によって得ていなくても、学校教育で得られる能力と同質のものも学力とされる。したがって、「学力検査」、「学力テスト」などは便宜的な言い方であろう。
「学力とは、人間の基礎的な能力の1つ」との言い方は「なるほど」かと。様々な経験を積み重ね、その経験からさらに新しいことを学ぶ。そんな力である、と。そのように捉えれば、学力なんてのは誰にも備わった人間の基礎能力と言えそうだ。では、総本山文部科学省でいう学力とは何なのか、その定義については以下のような説明がある。
文科省の捉える学力とは、思考力・判断力・表現力・問題解決能力・学ぶ意欲・知識技能・学び方・課題発見能力の8つの資質や能力をもつことだとされている。これらの資質や能力は、社会を生きる子どもたちにとって必須のものという文科省の考えのようだが、「学力」という言葉の持つ意味が、かなりの広範囲であることがわかる。
我々は日常、「学力」の狭義の意味のみを取り出し、学力が向上した、低下したなどと言っている。学校でいうところの学力、塾でいうところの学力は似て非なりであろう。学校でいうところの総合学力とは、学力向上が仕事の塾とは違っている。塾でいう学力は勉強、学校でいう学力が勉強であっても、勉強できればよいだけの人間を学校は求めてはならない。
それではこういう問いはどうか?「勉強ができれば、学力が上がるのか?」。答えは「イエス」であり、「ノー」でもある。狭義の「学力」だけで言うならイエスだが、広義の「学力」で考えた場合は必ずしもそうとはいえない。与えられた問題を解答する力に優れていても、自ら問題や課題を発見する力が備わるかと言われればそうではないだろう。
「問題解決能力」と、「問題発見能力」は別である。解決能力と発見能力の違いについては、コンピュータを例に考えると分かりやすい。コンピュータは瞬時に問題を解くが、この世の問題を何一つ発見する能力はない。だから人に利用されても、問題意識を自ら掲げ、人の上に立つことなどあり得ない。いかに優れた機械といえども、人間にとってはただの道具。
さらには「問題解決能力」といえども、教科書にある問題と、生きていくうえで生じるさまざま問題はまるで違う。前者は答えのある問題、後者は答えのない問題で、後者は自分で解答を出していかねばならないゆえに、学力というより、頭の良さ、賢さというべきである。したがって、「学力」と頭の良さは別であろう。コンピュータも答えのない問題に解答は出せない。
「学力」を狭義の意味だけにとらわれつづけると、いくら勉強したところで自分の将来や人生において何の役にも立たないのではないか?学校教育の教科の壁を越えて、すべてを体系的に理解できるだけの力があれば、もちろん勉強もできるようになるはずだ。しかし、そのその学力が、「何かを学ぶ」というだけの側面であったらどうであろうか。
学ぶ対象というのは、学校教育の教科だけにとどまらない。興味をもったものに対して好奇心や学ぶ力が発揮されるなら、その子は大いに学んでいることになる。ただし、勉強ができないという烙印を押されてしまう。その子に「烙印」を跳ね返す力があればいいが、強い心を持った子どもばかりではない。その子は世間的に「学力が低い」となる。
学力は人間が本来的にもっている能力である。それを数値化したのが狭義の学力といわれ、偏差値などで現される。人間の一切を数値化できるはずはないが、数値化して区別するのが手っ取り早い。「勉強がよくできる」という狭義の学力は素晴らしいが、勉強できなくとも素晴らしい人間はいる。彼らは地道であったり、ひたむきであったり…
人間のそういう部分に目をくばせないなら、単に「バカ」としか映らないが、勉強が出来なくとも素晴らしい人間はたくさんいるのが現実。優秀なスポーツ選手が学業の成績が悪くても誰も問題にしないように…。メッシが、ジョコビッチが、田中将大が、松山英樹が、中島みゆきが、レディー・ガガが、勉強できたかなど誰も問わないし、関心もない。
スポーツや芸能、芸術の才ばき人間に、高い学力を望むのはなぜか親心であろう。学問が出来れば幸せな人生が送れるという判断は、正しくもあり間違いでもある。理由は、先のことは分らないからだが、分らないなら勉強はできた方がいいという考えになる。世間では勉強が出来なくても幸せな人はたくさんいるのに、そこには目をやらない。
勉強には向き、不向きがあるし、親はそこを判断しようとはせず、ヤブから棒に、キュウカンチョウやオウムのように馬鹿の一つ覚えか「勉強しなさい」ばかりをいう母親。勉強が好きでない子どもと判断したら、勉強出来なくても幸せな人がいるという現実を見据え、そちらの方にシフトしてやれば、子どももストレスを増大させないで済む。
勉強絶対主義というのは、世間への視点が偏っているということだ。勉強が出来ないでどれだけ多くの人が幸せに生きているだろう。まあ、母親のガミガミは同じ世間に生きるものとして分からなくもない。が、テストの点がよければ満足というのはあまりに短絡的だ。その子が何を学びたいか、何を学ぼうとしているのか、問題の基本になる。
「そんな事は、高校や大学にはいってからの事」とばかりに、テストでいい点を取れとばかりに躍起になる。自分の考えが正しいなどと思ってはないが、そんな自分からみると滑稽な光景である。可笑しいと思うのは、子どもの学力が低いと親が憂鬱になるところ…。あなたの子どもだろ?と、つい思ってしまう。だから、ガミガミいうのだろうが。
いつも自分は「勉強なんか出来なくてもいい」と言ってるように受け捉われがちだが、向き不向きを根底にいってるだけだ。「長所を伸ばせ、短所は咎めるな」。これが子どもの潜在的能力を伸ばす方法で、これを実践したのがボクシングの名トレーナーといわれるエディ・タウンゼントであった。彼の略歴はwikiにもあるので省略する。
エディはガッツ石松、井岡弘樹ら6人の世界チャンピオンと、赤井英和、カシアス内藤らを育てた。エディは88年に他界したが、最後の弟子の井岡弘樹は14歳から育て上げた。彼が始めて日本のジムに来たとき、竹刀で叩かれる選手を見て、「リングの上で叩かれて、ジムに帰ってまた叩かれるのですか?ワタシはハートのラブで選手を育てるネ」と言った。
あるテレビ番組が過去エディに師事した弟子たちに、「エディに最も愛されたボクサーは誰か?」と質問をしたところ、皆が迷うことなく「自分が最も愛されたボクサーだ」と答えたエピソードが紹介された。エディはこんな言葉も残している。「僕ね、ボクシング以外何もできないけど1つだけ得意なことあるよ。それは、しおれた花をしゃんとさせること。」
「長所を伸ばし、短所は改めない」の極意は、長所はどんどん伸ばせるけれど、短所はせいぜい改めるが精一杯で、決して長所にまではならない」ということ。短所をいじくるより、短所は捨てると解釈した方がいい。それが人を伸ばすもっとも近道であろう。こういう事例がある。以下のようなことを面と向かっていわれたら、どういう気持ちになるだろう。
「私はまだまだ自分が到らない人間であることを充分に知っています。自分にはいくつかの欠点があるのではないかと思います。でも残念ながら私は自分の改めるべき点に気付いていません。変えるべき欠点があればどんなことでもお教え下さい。
ご指摘された問題点を必ず改めたいと思います。」
と…、私はその時まで、人は誰でも改めるべき欠点を持っていて、それを改めたときに人は悟るのだと考えていました。しかし、返ってきた答えはこうでした。
「あなたに改めるべき点など何もありません。
人に欠点というものは存在しません。
人にはそれぞれ異なった特質が備わっており、
その特質を役立てたとき人々はそれを長所と言い、
特質を活かしきれなかったときその現れ方を欠点と言います。
人に欠点というものは存在しません。
人にはそれぞれ異なった特質が備わっており、
その特質を役立てたとき人々はそれを長所と言い、
特質を活かしきれなかったときその現れ方を欠点と言います。
長所、短所は一つの特質の裏表です。
ですからあなたに改めるべき点など何もありません。
一つだけいうとするならば、あなたのその
『改めなければならない点があるという考え方』
だけです。」
一つだけいうとするならば、あなたのその
『改めなければならない点があるという考え方』
だけです。」
これは誰かの問いに、誰かが発したもの。誰かの特定は無用。「誰がいったか」ではなく、「何をいったか」が重要と、言葉の整合性を思考した。確かに短所は欠点であるというよりも、一つの特質である。その特質がある人にとっては欠点とみなされ、直に指摘されたり、修正するように言われたりする。しかし、その欠点とやらは別の人には長所と受け取られる。