土師政雄、小田実、吉川勇一の3人はべ平連の同士でありながら、代々木ゼミナールの講師であった。ヴァン・ヘイレンは知るが、べ平連とは何?という世代も増えた昨今だ。べ平連とは、「ベトナムに平和を!市民連合」の略で、日本のベトナム戦争反戦平和運動団体だった。べ平連はともかく、土師、小田、吉川の3人は代々木ゼミナールの顔であった。
代々木ゼミナール、河合塾、駿台予備学校を三大予備校といい、設立順に河合塾(1955年)、駿台予備学校(1956年)、代々木ゼミナール(1957年)となる。共通一次が始まった1979年から80年代は予備校全盛時代。特に三大予備校は、競って全国に校舎を建設し全国制覇へ向けしのぎを削っていた。これを、3校のイニシャルをとってSKY(スカイ)戦争と呼んだ。
当時の予備校には名物講師がいて、駿台には、元東大全共闘議長で物理科講師の山本義隆、同じく元東大全共闘で生物科で後に医系小論文科講師の最首悟、また関西の駿台には、元大阪市立大全共闘議長で英語科の表三郎がいた。名古屋が本拠地の河合塾には名古屋大全共闘で国語科の牧野剛。そして代ゼミには上記の3人が群を抜いて人気を分け合っていた。
小田の英語の授業は、その時々の英字新聞ニュースを題材にした英訳や、その問題の本質を解説するなど、それを聴くために他の予備校生らがもぐって来るほどの人気だったし、吉川はベーシック英語、土師はベーシック数学を担当、その教科の不得意な生徒を集めた授業だが、その解りやすさには定評があった。代ゼミは彼らを使い、他の予備校にはない試みを展開した。
こうした代ゼミの文化戦略的な動きは、高校生たちの間でも話題を集めるなど、生徒集客に大きな役割を果たしていた。そんなこともあってか、予備校の授業は大学よりおもしろいとさえ言われ、予備校の人気講師の授業は大教室が超満員で、いつも生徒が溢れていた。小田らは著名な文化人を招き入れ、その時々の問題になっているテーマで講演させるなどした。
また、音楽コンサートや映画上映などのイベントも行ったりと、若者たちに受験勉強という枠に捉われない政治、経済、文化芸術などの知識・教養を与えていた。この時期の予備校は高校や大学にはない独自の文化空間を創っていた。しかしここ数年の18歳人口の減少と大学全入時代を迎えて浪人生も激減、業界トップの代々木ゼミナールは縮小・撤退を余儀なくされた。
2014年8月20日、代ゼミは一挙に20校を閉鎖して、7校のみを存続させる決断をしたのだ。代ゼミショックとでも言っていい、問題の本質は何か。さらに、この撤退戦が、予備校をはじめとする教育受験産業の未来をどのように物語るのか。我々には見えない。元予備校講師(河合塾)で、現在は教育ジャーナリストである後藤健夫氏の分析を軸にいろいろ考えてみる。
代ゼミの校舎撤退は2007年3月の千駄ヶ谷校から始まり、2008年には横浜校が3つの校舎を1つに集約、余った校舎は近隣のビル立て直しの一時避難場所として使われた。京都校の隣にあった別館は、10年10月に1泊3万円もする「ホテル カンラ京都」になっている。校舎がホテルになったのを観た大学関係者は、「ああ、ほんまにホテルになったんや」と驚いた。
というのも、代ゼミが駅前の一等地を手に入れ、校舎を建てていったのは、創業者である高宮行男氏が、将来はホテルに転用したり、商業ビルにすればいいと考えていたからだと言われている。これは業界では有名な話で、佐野眞一著『昭和虚人伝』(文藝春秋)にも掲載されて話題となった。代ゼミはつまり、7年間かけて少しずつ「校舎撤退」を進めてきたのである。
ある雑誌の編集長は、「代ゼミといえば大きな教室がいっぱいになるイメージだったのに校舎閉鎖ですか」と驚きを隠せないようだが、無理もない。今の40代から50代前半の多くは予備校世代であり、講師も生徒も共に予備校文化を形成してきた。そんな予備校隆盛期のイメージは抜けない。が、時代は少子化、AOや推薦といった非学力型選抜試験で大学入学を果たす層も多い。
大学全入時代といわれる昨今、あくせくと勉強をして大学に入るような層は、少数派である。特に私大文系は、格段に入りやすくなり、難関私大を狙う一部を除けば、現役時代にわざわざ予備校に通わなくても済む。それが今回の校舎撤退に結びついたと後藤氏は言う。つまり、これから先は模擬試験を展開しても事業としてうまくいかないと判断したのも一因でもある。
代ゼミの見極めの速さは、創業者高宮行男氏のルーツの影響か?後藤氏は言う。「私の大学受験は共通1次とともに始まった。現役では志望校に入れず、地元名古屋の河合塾で浪人生活を送った。ちょうどその年に、代ゼミが名古屋にきた。「有名講師が新幹線でやってくる」がウリ文句。小田実ら有名講師陣が、東京から新幹線で名古屋駅裏の校舎に授業をしに来る。
校舎も河合塾に比べれば綺麗。もちろん新築で、1階にはエスカレーターがあり、女性職員がきれいな立ち姿で浪人生を迎える。これは思春期の男子生徒を刺激した。代ゼミの名古屋進出は、河合塾が駒場に校舎を作り東京進出を果たした返礼であった。SKY戦争と呼ばれた大手予備校3社の開戦の発端であり、その後、各地で局地戦が展開されていった。
関係者に送付された代ゼミのリストラ通知の文面には、「少子化に伴う受験人口の減少と現役志向の高まり」の中で、「これまでのサービスを維持することが困難となり、全国一律の校舎運営、事業展開を根本から見直さざるを得ない状況」に立ち至ったと書かれているが、後藤氏は、「代ゼミショックの本質は、"私大文系からの撤退"を宣言している」と読んでいる。
理系の駿台、国公立の河合塾、私大文系の代ゼミといわれているが、今や私大文系は、AO入試や推薦での入学者が多く、一部の難関大学を目指さないのであれば、わざに予備校に行ってまで勉強をすることもない。また、今後は「正解のない問題」をいかに解決するかが求められ、「唯一の正解」を問うことはいかがなものか、と価値観が劇的に変わっていく流れにある。
後藤氏の考えに即せば、「教え込み」の代ゼミと言われたスタイルも時代にそぐわないものとなる。1984年から92年のピークに向けて、予備校業界では「ゴールデンセブン」(現実にはエイト)と言われた18歳人口の大幅増加期があった。共通1次試験の実施で模擬試験の需要が増したことで、予備校は全国規模での校舎展開を始めた。そんな予備校も「盛者必衰」か。
受験産業に限らず、ヤマハや河合という二大ピアノメーカーも少子化で売れ行きが激減している。他にも子どもを当て込んだ筆記具、文房具なども衰退産業となった。12月初めに発表された硬筆色鉛筆製造中止には、アニメーターから不満の声が続出した。三菱鉛筆、トンボ鉛筆、倒産したコーリン鉛筆なども、ヤマハと河合の販売合戦も競ったことで伸びていった。
予備校もデータ収集や解析だけでなく、どこの予備校の玄関先の掲示板にも、国公立大の共通一次の問題文コピーの横に、赤い紙片が何枚も添えられ、「的中」の二文字が躍っている。この予備校が行った模擬試験と同じ問題が今度の共通一次にでたという。このように生徒集めに凌ぎを削る予備校にとって、「問題当て」は、何よりのセールスポイントに他ならない。
これが学力かと訝るが、問題が多く解ければ学力なのだ。まあ、ある予備校では問題を的中させた教員にはご褒美があるというが、経営者としては出したくもなるだろう。一題につき10万円の金一封を出すというところもあるほどだ。さながら教育に名を借りた地名当てゲームならぬ問題当てゲーム。理科や社会は出題範囲が限られ的中し易く、国語や英語は当たらない。
現代文を当てるのは至難と思うが、それでも「当たった」という予備校もある。これは学力とは言えず、入試センター側は対策を講じている。ある年の共通一次で、国語に使用された政治学者の文章が、過去に私大入試やいくつかの予備校の模擬試験にそっくり出題されたことの反省から、国公立大四年生大学ほぼ全校から主要教科の入試問題をデータベース化している。
「夏目漱石」と引くと、何年にどこの大学が漱石のどの作品を使ったかが分かる。センター内部には受験産業の模試をデータベース化の意見もあったが、大学だけでも500校近いし手が回らないと判断された早々ニアミスが起きた。もはや類似出題に目くじらを立てる方がどうかという事にもなるが、公平を期する側からすればショックは隠せない。