土師はいう。「受験生の学力が落ちているというのは、予備校のほとんどの先生の一致した意見です。学力と言うと、そもそも学力とは何ぞやと反論されそうだが、ここで言ってるのは単なる点取り能力。つまり、点を取る力がない。世間では知育偏重というが、知育さえない」。マークシート方式の共通一次試験は、"点取りゲーム"に強い子どもを量産したといわれるが…
土師の言葉は予備校講師として現場で生徒に携わる者の感想である。点取りゲームに強い子が点を取れない状況は、年々低下の一途を辿っているとまで土師はいうが、なぜそんなことになったのかについて、土師はこう分析する。「共通一次は偏差値、即ちテストの成績を絶対化した。競争に勝ち残るために、子どもは小さい頃から塾や学校で点取り練習に明け暮れる。
だがそれは、問題を解く方法の暗記に過ぎない。私の専門の数学の場合はそれが特に顕著です。中学くらいまでは暗記だけで何とかなるが、高校以上になると問題が複雑になり、暗記だけでは手に負えなくなります。なぜそうなるのか、を考える暇もなく解法を覚え、問題に素早く反応し、答えを出す訓練だけを施された子どもは、ここで壁にぶつかるんですね。
これは数学以外の科目に関しても似たような問題は起きています。今も、非常によくできる子はいますが、ごく少数です。逆にできない子の層が広がって、得点力もどんどん落ちています。」解法の理由を考えることなく丸暗記に精出す子どもたち。土師はそこに今の日本の管理教育の断面をみる。だから彼は解放をたたき込むことはしない。してそれを本格的な講師という。
小中学校のツケが高校に来て壁にぶつかるというなら、小中学校から先を見据えて指導しなければならないことになる。昨今、人気の予備校講師は、「今でしょ!」という言葉を流行らせた。が、土師の言葉を借りれば、「今でしょ!」ではダメで、「先でしょ!」になる。教育は常に先を見据えて行うもので、だから「かわいい」、「かわいい」を抑止できる。
可愛い時期にこそ厳しくしなければ時期を逸することになる。根拠も告げずに校則を押し付ける学校も、教える内容についても、「意味など考えなくていい。つべこべいわずに覚えりゃいいんだ」の押し付けも、何ら変わりない。土師は自分の知るある東大生について、「彼はどんな数学の難問もたちどころに解いてみせます。いや、それは私がみても怖ろしいくらいに…
けれども、『なぜそうやるのか』と聞いても、『そうやればいいんじゃないですか』しか答えない。答えられないのです。無数の解法が頭にインプットされただけのコンピュータのようなものです。解法の意味はインプットした人間に聞いてくれといってるんでしょう」。土師の懸念は想像し得るが、残念ながらその東大生は、彼の今の現状で生きて行く以外の道はない。
つまり、今さら善悪など言ったところでどうにもならないのだ。怖ろしいかなこれが教育だ。決して後戻りはできない…。土師は東大卒だが、付け焼刃東大生を嫌った。土師の予備校での授業も彼の理念に沿ったもので、受験生の中には、「土師先生の授業で初めて教科の面白さに目が開かれた」という生徒も少なくない。子どもにも分かりように言えばこういうこと。
π(円周率)は3.14と誰でも暗記している。が、円周率とは何?率とはどういう意味で、3.14とするのはなぜか?との問いに答えられる子どもはいない。大人に数人聞いたが誰も答えられなかった。つまり、大きな木を切らずに直径を知るとき、円周径を測って3.14で割ると直径が出る。言い換えれば、円の周囲は直径の約3.14倍。3.14とはそういう意味である。
この意味を知らなくとも何ら差し障りないが、知ると面白い。それが学問であろう。土師は予備校文化をこう回想する。「昭和40年代から50年代の初頭まで、私のいた代々木ゼミナールは、高度の教育機関でしたよ。そこには予備校文化というものが花開いていました」。それを破壊したのが共通一次で、原理・原則から教える土師に活発に反応する生徒は激減した。
ゆとりもない、余裕もない、そんなせちがらい受験生は即効性のハウツーばかりを知りたがる。ある時生徒に、「先生、原理はいいからやり方(解法)だけ教えて下さい」と言われて腹が立ったのか、「原理がわかりゃ、やり方なんかナンボでも出てくるんだけどね~」といったのだが、そんな土師のとろい授業に予備校側も解法の叩き込みを指示してきたという。
それで土師は21年間勤めた古巣を去る。受験戦争は厳しさを増すばかりだが、彼は受験生にこう呼びかけた。「大学に入るために自分を壊すのは愚かなこと」。点取り虫に果たしてこの言葉が通じたかはさて、土師の理念は、時代の求めないものであったのは事実。昨今の人気講師は、「今でしょ!」に代表される、今が大事、今が良ければすべて良しのようだ。
受験生の変質に対応して、予備校の教え方も変わってきた。「以前は、私と同じような理念を持った講師も多かったんですけどね」というが、手っ取り早い言い方をするなら、時代の求めるニーズに合わない講師はクビになるだろう。「学問とは何か?」というこってり料理より、お茶漬けさらさらと立ち食いするのも、お腹がイッパイになるのは同じという考えである。
「信念で時代を生きるか、時代に順応するか」。よくある命題だが、正しい答えは自分の中にしかない。信念とは流行り、廃りのものではないし、他人に否定されても動かざるものであるから、それでクビになっても文句は言うべきでない。どうしても食い扶持が大事なら、たとえ白いものを赤だといわれても藩主(経営者)に従うしかない。それが答えだと思っている。
さまざまな場面、局面で、どちらがいいかという相談も受けるが、他人に言う正しい答えと言うのは実は難しい。自分なら即断できるほどに簡単な問題でも、他人は自分ではないし、その後のフォローなど一切合切含めて、「こうしたらいい」というのはよろしくない。正しいことであっても、よろしくない。全ては自分が決断するのが、「正しい」という答えになる。
土師の理念も思いもよくわかるし、彼の考えは正しいと自分は考えるが、彼が時代のニーズに合わせた片手間な講師になりたくないのは彼の思いで、それを正しいと認めさせるには、経営者、保護者、生徒の考えを転覆させなければならない。歴史を見れば多くの人が信念を理解されずに去っていった。子どもの頃、ガリレオは信念を曲げる卑怯でズルイ男と思った。
今はどうか?ガリレオは卑怯でもなく、ズルくもない。馬に念仏を唱えるようなバカげたことをしない賢者であったと思っている。他方、ソクラテスは死して名を挙げたが、彼をバカという者、信念の人と思う者、さまざまであろうが、自分が思うに、彼の死は彼自身の納得行く死である。他人が何を言ったところで彼が決めたことであり、彼にとっての善は周囲には関係ない。