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温故知新・「共通一次」 ③

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イメージ 1加藤氏はいう。「私の前の東北大学長の本川弘一さんが、国立大学協会の入試改善調査委員会メンバーだった関係で、後任の私が後を引き継いだんですが、よく議論しましたよ。国大協があれだけまとまって取り組んだのは、入試改革が初めてではないか。共通一次実施の前に試行テストが二回。全国を行脚して趣旨を説明したし、国会にも参考人で呼ばれました。」

定員がある以上、選抜試験はやむを得ない。共通一次がスタートした当時の国公立大学の入学定員は、全国で約11万人で、全大学の定員の4分の1弱であった。共通一次の受験者は、定員の約3.5倍であったから、受験者の3分の2以上が志望の大学に入れないことになる。このため、共通一次受験者の約四割は前年の再出願組、つまり浪人で占められてきた。

私立を含めた全大学の受験者総数約80万人のうち、23万人が浪人で占められた。この数字は、希望する国公立大学にストレート(現役入学)で入ることが、いかに容易でないか、狭き門であるかが理解できるだろう。この弊害を緩和するために生まれたのが、「分離・分割方式」である。国立大学は1987年以降、A・Bグループに分かれ、別の期日に試験を行ってきた。

しかし89年、共通一次最後の年に関西の一部の大学が入学定員を前期・後期の2つに分け、Aグループと同日程で行う前期の試験の合格者には、発表時に入学手続きをとらせる方式を取り入れた。これが分離・分割方式と呼ばれるものである。97年度から全ての大学が同方式に統一された。制度が複雑になるにつれ、受験生の不満も「分かりにくい」などと増大した。

大学と言うところも所詮は弱肉強食であり、成績優秀な人間が合格する。これは一見当たり前のように見えるが、成績優秀者が、真に学びたい者かといえばそれは違うだろう。心からその大学で学びたいと、そういう人が排除されるシステムは決して良くはない。そうした中での分離・分割方式は、チャンスが増えるという期待より、制度の複雑化への反発が強かった。

制度が分かりにくいとの批判も多かったが、二次試験の分離・分割方式は、受験機会の増加に繋がる点で評価できる。受験生は有利な方法を選べばよいのだが当時の新聞社説には、共通一次のほころびを繕うため毎年のようにコロコロ変わる、"猫の目入試"と揶揄された。土師政雄という名を知る人もいるだろう。彼は、政治運動家、予備校講師という肩書きを持つ。

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小田実らと「ベ平連」で活動もした土師は98年に他界。代ゼミ、河合塾、駿台の教壇に立ち、受験指導もした。元通信添削Z会の数学主任や、旺文社の、「大学受験ラジオ講座」の講師も務めた彼は、現代の学校教育に疑問を呈し、若者が受験戦争を勝ち抜くために良い点数を取る方法のみを求め、学ぶこと、知識を得ることの本質を見失っていると嘆いていた。

世田谷の自宅離れを若者たちに開放し、「微積分の会」、「脱・学校の会」などを主催。権威と無縁の気さくで優しい人柄で慕われ、沢山の若者達が集った。若者達が集まっていると静かに現れ、椅子に座り、年齢差に関係なく誰とでも親しく話した。悩んでいる若者や居場所が無い若者の相談にものった。彼を慕い、土師宅の傍にアパートを借りて足繁く通う者も居た。

そんな土師は共通一次の終焉には溜まりかねた批判を述べていた。「共通一次は、大学の自治の破壊であった。どんな学生を入学させるかは大学にとって重大な問題で、入試方法は教授会の議を経て学長が決めることに法律(学校教育法)はなっている。なのに、何の権限もない任意団体(国立大学協議会)の決定に従って、共通一次試験の実施が行われたのだから…」

共通一次の実施案が出たとき、彼は様々な弊害を指摘し、反対を唱えた。その彼が、「予測通り、いや、予想以上に事態は悪くなっていた。問題の一つは、入試センターが得点を本人に教えず、どんな得点の人がどの大学を志望しているかのデータを全く公表しないこと」。土師のいうように、国はその役割を受験雑誌出版社や、大手予備校などの受験産業に委ねた。

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共通一次は全国規模で行われ、その膨大なデータは指標としての信頼性を高める。どれだけ多くの受験生を模擬試験会場に集め、適切な進路判定資料を提供することが、予備校のステータスシンボルになった。予備校の講師でありながら、共通一次による大手予備校の中央集権化、系列化の加速を問題提起するところが、表裏のない土師らしいところ。

共通一次以前は、地方の予備校や高校も地元大学の豊富なデータ資料を持っていた。我々の時代には日本を各ブロックに分けた一斉テストがあった。中国地方の自分は、中ブロ(中国ブロックテスト)と言ったが、共通一次によってすべての国公立が「全国区」になり、これでは地方のデータは役立たずで、大手予備校の系列に入って情報をもらうしかなくなった。

この結果、中小予備校は大手に吸収されたり廃業となった。さらに大手予備校は全国の進学校の全てをデータに取り込み、データ提供することによって、壮大な受験ネットワークを完成させた。受験生と大学を偏差値によって細かく格付けし、分配するシステムがこうして生まれた。莫大な収益を誇る情報産業が、共通一次という悪害によって生まれたことになる。

土師は、「漁夫の利」を得て巨大化した受験産業だけを批判したのではない。「偏差値による序列化をすべて受験産業のせいにするのはお門違いです。もともと全国の受験生に同一テストを課する共通一次こそが、序列化を志向するものだった。大学入試センターはその非難を避けるため、データ提供を受験産業に任せた。データが無くて一番困るのは受験生ですから。」

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共通一次前の予備校と、後の予備校は大きく変わってしまった。かつての予備校というのはいい意味での市場原理が働いていて、公教育では得れない、ある種のゲリラ的な優れた教育もできた。元来、私塾というのはそういうモノだったはず。ところが、共通一次のデータ提供で一躍、"花形産業"にのし上がったあげく、子どもを管理・分配する受験ブローカーとなる。

予備校講師時代の土師は自らを本格派と自負していた。「私は生徒に、"解法のたたき込み"をしないし、しようと思ったこともありません。それならとっくにこの仕事から足を洗ったでしょう」。数日前に野坂昭如が世を去った。野坂も土師も映画監督の大島渚も小田実も、いわゆる焼け跡派と呼ばれる世代だが、彼らには「義」のなんたるかが明確に存在した。

土師は別として、小田や大島より野坂が好きだった。彼らはみな物怖じしない人たちだが、なぜに野坂が好きであったか、自分でもよく分からないでいたが、田原総一郎が上手く代弁してくれた。「空気を読まなければ生きていけない日本社会にあって、野坂さんはあえて『俺は空気が読めないんだ』と言い切り、何にも縛られない自由な生き方をした人」と、哀悼の意を表した。

なるほど、確かにこれかと。「場」がどこであれ、「相手」が誰であれ、腹に一物隠しだてせず率直にやりあう。大島の記念パーティーの壇上で彼にパンチを食らわせたのも野坂である。彼らに共通の怖いものナシ的性向だが、野坂は小田や大島のように言葉を荒げることなく、朴訥とした中に雄弁さを秘めている。質素な話ぶりながら説得力ある言葉を披露して見せてくれた。


印象にのこる彼の発言は、89年7月放送の『朝まで生テレビ』、「人権と部落差別」と題した多くの部落関係者との議論の中での言葉。「僕は差別というのは永遠になくならないと思っている。なぜなら、人間は差別されるのは嫌だけれども、差別するのは大好きですからね」。世の中は「差別はよくない」、「差別をなくそう」一色で、番組もそういう趣旨であった。

にも関わらず、「差別なんかなくならない」と平然と言い切った野坂の説得力は、まさに図星であった。場は一瞬静寂となり、誰も野坂に反論しない。まともな頭脳を持つものなら、斯くも歴然とした事実になど反論できるはずがない。正義漢ぶった無用な虚言を弄すものなど、あの場にいなかった。野坂は自分が一体どこまでやれるかを、常に試していた人に違いない。

「俺にできないことなど何もない」、結果はともかく行為においては率直で自信に満ち、虚勢を張るような小物ではなかった。彼を生き方の指針とする部分は自分にある。土師(1925年9月27日 - 1998年6月9日)が逝き、小田(1932年6月2日 - 2007年7月30日)が逝き、大島(1932年3月31日 - 2013年1月15日)が逝き、終に野坂(1930年10月10日 - 2015年12月9日)も逝った。


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