共通一次の功罪の「功」は受験産業を肥大させたこと。「罪」は受験産業を肥大させたこと。長所は短所、短所は長所みたいな言い方だが、受験産業側にとっては笑いの止まらぬ「大功績」だ。共通一次の功罪は数多見聞きもしたが、誰にとっての功罪なのかは学生主体であるべきで、その辺りも含めた共通一次11年間の検証は、あまりにも不徹底であった。
初代センター長加藤陸奥雄氏のいう、「共通一次は受験生の学力到達度を判定し、各大学学部が個別に行う二次試験と組み合わせて、丁寧な合否選抜を行うのが狙い」だった。ところが、各大学の二次試験改革は一向に進まず、受験生も学力偏差値と違って、合否決定の基準が明確でない大学は敬遠するしかないのは、受験生の立場からすれば理解できる。
多くの学部で二次試験に面接や小論文など、新しい形式を取り入れたものの、全体的には有力大学を中心に、学力重視の試験が主流であった。共通一次の五教科七科目は、二次試験とともに受験生には過大な負担であったが、受験が国公立大一校に限定されたこともあって、受験生の国公立離れが進んだ。これは制度導入の際に予想されたことであったろう。
共通一次を受験生の「功」に絞れば、大量の受験生に対する一斉テストという形は、大衆化した大学と高校を繫ぐ「学力の標準」を示す役割は果たしたろう。それと、試験は落すためのモノという観点から、しばしばみられた難問・奇問を少なくすることに多いに貢献したのも事実。何事も「功」あれば「罪」だが、共通一次にはあまりにマイナスが多すぎた。
前記事にも書いたが、大学間の序列が顕在化したことや、学生が均質化して活気が失せたことは、「共通テスト」という性格上やむを得ない副作用である。学力偏差値だけで受験校を選択するなら、全国の国公立大学について、共通一次の成績による序列ができるのも当然で、こんなことは入試制度改革の議論の中で、誰にでも予測できたことである。
問題は、当然に起こることが、「功」か「罪」かであって、様々な意見があったろうが、審議会のメンバーは元東北大学長加藤陸奥雄が座長であったとして、東大、京大、阪大、などの帝大系のメンバーは、大学の序列化の可能性を知りつつも押し黙る可能性もある。おそらくだが、二流、三流といわれる大学関係者は、審議会メンバーにはいなかったろう。
仮にいたとしてもオブザーバーのようなもので、帝大系や有名私学の発言力は当然にして大きい。まあ、このようなことを今、推察しても仕方が無い。全ては終わったことだが、「故きを温ね」という事で、歴史の検証のようなものだ。大学の序列というが、序列を作っているのが「偏差値」であるなら、その序列を支えているのが、巨大な受験産業である。
受験産業が肥大化した原因はいくつかある。例えば、共通一次では配点の基準は全てが公表されるわけでなく、ゆえに正確な自己採点はできない。さらに、自己採点と合否の関係は、受験産業の手を借りなければ受験生には到底判断できない。しかも、その分析は全国に渡らざるを得ないとなれば、必然的に全国的な規模の受験産業が求められることになる。
受験生は受験産業に依存せざるを得ない。受験生のみならず高校も、大学も、受験産業に依存している。なぜなら、大学は少しでも質のいい(受験学力の高い)学生を獲得するため、高校は自校の生徒を少しでも序列の高い大学に合格させたいわけだから、受験生、高校、大学と受験産業の共依存関係が出来上がる。今年に判明した大阪桐蔭の問題がいい例だ。
大阪桐蔭が裏金をプールして塾関係者を接待していた。優秀生徒獲得が目的であろうが、こうなると依存を超えた不正であり、犯罪である。また、私学には「塾枠」というものがあるのでは、と前々から言われているが、私学は一斉に否定する。当たり前だ、そんなもん否定しないでどうする。コネとか枠とかは古来からの日本的な情緒で、ない方がオカシイ。
いつの時代も人は、欲と見栄と金で動いている。欲があるところに見栄がはびこり、見栄を張るには金がいる。天網恢恢、たまにはバレて赤っ恥をかけばいいのよ。「教育」などと言葉の響きはいいが、ウンザリ、真っ黒けの世界である。自然こそ教育としたが、近年は何事も「人為」の世界である。「教育には金がかかる」というが、そんなこともない。
「教育に金はかけられる」である。お金がある人はどんどんかければいい。無い人は汗と労力をかけばいい。受験産業がデータやノウハウを持つ以上、いかなる入試改革も受験産業の存在を無視しては実効性ナシという皮肉な状況を、共通一次が作り出した。落ち度なのか、すっとぼけか…、共通一次導入に当たり、斯くの副作用を避ける対策が講じられなかった。
共通一次が解決できなかったもう一つの問題に科目間格差がある。これが「カサ上げ」問題である。ある年の理科の科目間格差が大きく、二次出願の直前に生物と物理の得点を大幅にカサ上げて受験生に混乱を与えた。この問題に対して文部省は、「今後は科目間格差が何点以上になれば、得点カサ上げを行うかなど「修整マニュアル」を作成、公表する」とした。
カサ上げを行えば生物の選択者同士でも、修正点数の伸びと総得点の差によっては、総合得点が逆転することが起こり得る。例えば、Aは修正前で生物80点、総得点は710点、Bは生物45点、総得点700点で、Aが10点上回っていた。ところが、生物の得点を修正すると、Aの得点が89点止まりに対して、Bの方は26点アップの71点。総得点でBはAを7点上回る。
なぜこのような現象が出現したかといえば、用いた修正式では、生物や物理の得点が低いほど修正得点の伸びが大きく、逆に得点が高いと伸び率が鈍るためだが、これなら0点でも生物、物理はいずれも修正式で45点以上加点され、100点だとまったく加算されないことになる。この事実を知った高得点者はショックであろう。なんのために生物を頑張ったか…。
「得点カサ上げ」問題は、これまでにも理科、社会の中での科目による平均点の違いが問題にされてきたが、「許容範囲内」ということで特別な修正措置はとられなかった。が、ついに文部省は、このままでは共通テストの不信感を拭えないとして、得点修正基準を明確にすると発表した。「その都度知恵を絞り、その都度合理的と思える方法でやるしかない」
と加藤氏がいうように、完璧な入試制度はあり得ないが、不公平の是正に目をつぶっているのは断じて許されない。いろいろな歌手に歌われる、『死んだ男の残したものは』という曲がある。谷川俊太郎の詩に武満徹が曲をつけたものだが、ベトナム戦争のさなかの1965年、「ベトナムの平和を願う市民の集会」のためにつくられ、友竹正則によって披露された。
倍賞千恵子、本田路津子、森山良子で聴いたことがある。各節で、死んだ人たちや歴史の「残したもの」が2つずつ列挙されるが、その2つ以外に残したもの、あるいは残っているものは何もない、という内容の歌。さて、「共通一次」が残したものは何であるか?いろいろ挙げたが、入試の改善というのは、いかなる趣旨を込めて始めても副作用を伴うという事実。
試験とは入れるためというより、落すためと奇問、珍問、難問、愚問をまるでクイズやパズルのように考えた出題者に、痛快さや楽しみはあったろうが、これほどバカげたことはない。こんなものは当然にして通常の学習では太刀打ちできず、受験産業に出動願うしかないのは当たり前のコンコンチキ。100人の定員に対し、普通に勉強して200人の受験者全員が100点を取った。
さてどうするか?に対する知恵がなさ過ぎる。人を点数だけで判断しようとするから、付け焼刃的な学力が受験産業で身につけようとする。どうしてこの程度を頭がいいといえるのか?ある心臓外科の名医は、東大理Ⅲについてこう言い放つ。「受験勉強は単にクイズができたで、医者の資質とは別物。東大医学部出身で尊敬できる方を、私は一人も知りません。」
そういえば、いつぞやの「最強の頭脳 日本一決定戦!頭脳王」という称号は、東大医学部生であった。東大医学部生だから人間的に優れてることはないと同様に、東大医学部生だから人間的にダメという事もないが、心臓外科医南淵明宏氏のいうように、「尊敬できる人はいない」というのはあってもいい。鳩山由紀夫を尊敬する人も、しない人もそれぞれだ。
「バカだ!」と、いうより具体性がある。共通一次は受験産業が肥大化した以外は、高校での教育が正常に機能するような出題に変換できた功績はあった。そこの点は一定の役割を果たしている。高校と大学がバラつくことなく両者をつなぐ「標準」的な学力が、まがりなりにも定着した意味も大きかったようだ。デメリットも多いが重複するので省略する。
が、補足でいうなら大学の格差や序列はかねてからあった。何も、共通一次が生み出したものではなく、偏差値をはじき出したのは受験産業である。序列を批判しながら、世間の大方は、本音では序列を求めているという二律背反である。小論文や面接の割合を多くし、推薦入試、特別枠のAO入試も、受験戦争の改善であろう。が、それはそれで問題を生む。
小保方晴子の問題でAO入試が一段とクローズアップされたのも事実。彼女は早稲田大学応用化学科にAO入試第一期生として入学した。それを知る者の多くは、STAP細胞が発表サれた時は、こぞって「AO入試も悪くない」という意見が乱舞したが、「やっぱしAO入試はアカン」となった。これは、あくまで小保方個人の問題で、AO入試が悪いわけでもないのだが。
まさに、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」。池田信夫は辛辣に言う。「AO入試の一期生か。これで、「AOはバカ」という偏見も証明されるな」。池田はのけぞったところがあるが、バカは小保方で彼女はAO入試であっただけ。AO入試とは、アドミッションズ・オフィスの略で、「学力以外の視点で大学にふさわしい人物を募集する入試」として、70%の大学で実施されている。