ハーフには美人やイケメンが多いと巷でいわれていたし、自分もそう信じていた。根拠というより伝聞であり、ハーフの芸能人はほりの深い顔立ちに足も長く、スタイルがよいのが多い。背も高いし、明るく物怖じしない印象を受ける。根拠はどうなのかと調べてみるとこのように書いてあった。「外国のまじめな研究でも混血ほど個性的な顔立ちになり、肌も綺麗になる。
遺伝的に離れている(例えば黒人と白人)ほど、肌の厚さや角質の厚さ等の差が大きいのだそうで、それらの差が無くなり優等生的な肌になり美しくなるようだ。これは74000年前にトバ火山が噴火し、人類の人口が2000人程度まで減り、絶滅寸前だった。その際に遺伝的多様性が失われて均質化した。遺伝的多様性は、黒人から白人が分岐し、最後に黄色人が分岐した。
多様性といった観点からは黒人>白人>黄色人になる。特に中華人は外人から見ると多様性が少なく、皆同じに見えてしまう。その考えで言えば、日本人も多様性が少ないで民族ゆえに、混血した方が美男美女になることになる。世界一美人の国と言われ、スーパーモデルを世界に供給するウクライナのコサック人は、欧州と中東とアジアの血が混ざった人たちだ。
「ハーフは美人!」を疑問視する声も多い。ドイツ人の父親と日本人の母親を持つ作家で、タレントのサンドラ・へフェリン(本名・渡部里美)は自著、『ハーフが美人なんて妄想ですから! !』において、主観的だが真向否定している。彼女はハーフの辛さをこのようにいう。「一般的にハーフというと、モデルさんや芸能界など華やかなイメージを想像しがちです。
ところが実際は、ハーフが社会で「普通に」生きていくのはとても大変なのです。私がずっと感じてきたこと。それは、世の中の人達がハーフに対して持っている「イメージ」と、実際にハーフとして生きる「現実」の間には、相当なギャップがあるということです」。彼女の他にもこういう意見もある。「私もハーフで30年以上前に日本で育ちました。
私個人もハーフって言葉に違和感も偏見もないけど、世間の限りなく偏っているイメージってどうにかならないの!?って常に思っていました。今でこそハーフをたくさんテレビで見るけれど、当時は本当に珍らしくていろんな誤解と妄想と思い込みに悩んだものです。私はいわゆる普通の庶民の娘で、英語もしゃべれなかったからどっちかと言うと残念な方なのかなぁ…。
その後アメリカに渡り、英語も習得してやっと世間が認める普通のハーフになれたのですが、日本産まれの日本育ちで、漢字の名前しかない私は日本人として認めてほしい…、無理だけど。この気持ちは誰にも分かってもらえないんだと諦めていたけど、ハーフ仲間が少なからず同じ気持ちでいるってわかって嬉しかった。サンドラ・ヘフェリンさん、この本を書いてくれてどうもありがとう!」
ハーフでない我々が、ハーフの人たちがどのような思いで生きてきたのかは分らない。ましてや、「ハーフに生まれてよかったね」などと言われようものなら、腹も立つのではないだろうか?「ハーフの何がいいのよ!」という言葉が口先まででかかるのではないか?ハーフでない我々は、ハーフの人たちへの偏見を持たぬ方がいい。好きでハーフになったのではないんだし。
兵庫県在住の高校三年生マーガレットさんは、父がフランス人、母が日本人のハーフである。彼女もまたハーフである事で切実な悩みや苦労もことかかさない。「初めて会った人に自分の名前をいうのがうっとうしいなと思う。名乗ってもすらっと分かってもらえなくて、興味津々でみられたり…。でも、そういう風に思う自分が恥ずかしい。逃げてるなと思うから。」
まずは、こういうところからハーフはうっとうしいのだと言う。言われてみると、「なるほど…」という気もするし、言われて見なければ分らないことでもある。彼女は幼児の頃から自分の名をいうときは、絶えず頑張ってるという自覚を持っていたという。「なるほど」そうかも知れない。他の子は、洋子、宏美、春奈であるのに自分はマーガレット。嫌だったろう。
小中で新しいクラスになると自己紹介がある。最初に隠さず言っておくと後が楽なので彼女はこう自己紹介した。「お父さんがフランス人なので、ちょっと名前が変わっています。でも、アメリカ人でないから英語はしゃべれません。趣味は読書と女の子なのに、木登りとか、ヘビとか昆虫採集が好きです」。父親参観のときも目立つ父が恥ずかしくて嫌だった。
ただ、自分がそう思うことを父に悪いと感じていたという。「フランス人と日本人を見てるから違いも分かります。みんなと同じことをするのがいやなフランス人、日本人はその反対ですね。小学生の頃、友だちがみんな持ってるカバンが欲しくて『みんな持ってるから買って!』と父に言ったところ、『そんなのは欲しい理由にはならない』と買ってくれませんでした。」
なるほどね~、日本人の子どもは、みんなが持ってることをあえて親に言って買ってもらおうとする。親もその様に言われると買ってあげなければ可哀想となる。文化の違い、国民性の違いはある意味すごいことでもある。「みんなが持ってることが欲しい動機なんて理由にならない!」と躾けたら、人がやってることは面白くない、という個性が身につくかも知れない。
校則についての父とのやり取りも面白い。日本の学校は制服主体で、皆が同じ恰好でなければならないが、フランスは自由だし、アクセサリーもつけられる。彼女は言う。「祖母に会うためにフランスに行く前、父にピアスを買ってもらい、つけていったの。日本の学校では禁止だから外していたら父が、『どうしていけないの?つけて行けばいいじゃないか?』と言うんです。
でも、ダメなのはわかっているけど、禁止と言われてもつけて行く勇気のある人になりたい。でも今は、そういう事をする元気がないの。だからちゃんと守っているし、そんなわたしって、ハーフとしては失格なのかも。やっぱりわたしは日本人なんですね」。この言葉はハーフならではと聞き入った。日本人に抗う遺伝子と、日本人であろうとする心の葛藤だ。
確かに子どもは親の遺伝子を受け継ぐという。親の頭の良し悪し(学力)は遺伝する傾向にあるが、知能指数と一緒で、知能指数の高い子は勉強すればどんどん成績はあがるし、そこは低い子よりもベースの違いの点で有利である。が、ある程度遺伝はあるにしても、勉強に向き・不向きはあるし、ひょんなことから勉強以外の他のことに興味を持つこともある。
そういう子どもの興味や指向を無視し、あるいは止めさせてまで、親が勉強をさせていいものかについて自分は断固反対である。善悪を問うなら、子どもの主体性を無視という点で悪であろう。よくこのように親は言う。「子どもなんて、放っておけばゲームばかりして勉強なんかするはずがない。親としてそれでも放っておけっていうのか?」これが一般的な親。
こういう場合に自分は親に問わせる。「では、ゲームを取り上げたら勉強するのか?すると思うなら、そういう確信があるならやったらいい。が、子どもの大好きなオモチャを強引に取り上げることの親の傲慢については、多かれ少なかれリスクはある。もし、お前の親が、お前の大切なものを取り上げたり、捨てたらお前はその親を一生恨むのではないか?」
・「勉強しなさい!」などと怒鳴る
・ゲームを隠す
・1日30分だけに制限する
上のような行為を一般的な親がやろうとも、自分にはとてもできない。なぜなら、親にこういう事をされるのが一番嫌だったからだ。自分は、親が隠したものは家の中のものを、それこそタンスの中の親の服類を全部外に放り出して探した。そういう行為は、それくらいに許せないことだという自己主張も兼ねていた。ところが以後、親は近所に頼んで預かってもらうようになった。
ある日、「○○ちゃん、○○はウチで預かってるよ」と近所のおじさんが教えてくれたことがあった。「そこまでするのか!」。その時の親に対する不信感は言語に絶するものだった。近所のおじさんがなぜ教えてくれたか、その時には考えなかった。が、おそらく、「そこまで親がやっていいものか?」という批判では?もちろん、母はそのおじさんを責めた。これも場違いである。
意に添わぬ相手を敵にしてしまう傲慢さは、いかにも思慮ない母親である。「チクった」といいたいのだろうが、おじさんは正義を行使したのだ。大人は大人の味方か、子どもの味方であるべきか?そうではなく、「善」の味方であるべきで、言い方を変えると「正義」に味方をすべきである。近所のおじさんは、母に嫌われたろうが、「義」の人として自分の中にいる。
「携帯など子どもの大事なものを取り上げるな」とイロイロ親にいうが伝わらない。与えたものを勝手な理由で取り上げるなどの傲慢は許せない。よくもそういう事ができるのかと。買い与えた物の所有者は子どもである。面白くないからの理由で取り上げるなど、親以前に人間のすることではない。近所のおじさんは、母の余る行為に批判的だったという確信に至る。
子どもは社会的弱者。家庭においても支配される側。ひどい子どもも存在するが、それらは誰あろう親の責任だから、子を責める前に自身を責めるべきだ。か弱く、いたいけな子どもの人権をことごとく踏みにじられた経験から、子どもを操ろうとする親には否定的である。子どもは一生懸命に生きている。成長しようとしている。なぜ親がその障害にならねばならない。