水木しげるが亡くなった。彼との出会いはやはり代表作の「鬼太郎」だった。近年の子どもたちには『ゲゲゲの鬼太郎』と親しまれているが、最初は『墓場鬼太郎』、しばらくして『墓場の鬼太郎』となり、いつしか『ゲゲゲの鬼太郎』となる。『墓場鬼太郎』、それはそれは子ども心に怖いマンガだったが、それでも、"怖いもの見たさ"に読んだ。鬼太郎の顔も今より怖く、絵もストーリーもグロテスクだった。
あの当時、子どもの怖いものといえば、「墓場」と、秋祭りの時にでてくる「天狗」と「鬼神」であった。青年団の若者がお面をかぶっているが、それでも子どもには怖かった。それ系で有名な秋田の「なまはげ」は、作り物とはいえ出刃包丁を持っているところが凄い。「なまはげ」は怠惰や不和などの悪事を諌め、災いを祓いにやってくる使者(鬼・妖怪の類い)であるが、鬼神もそうであろう。
大晦日の晩、なまはげに扮した村人が大きな出刃包丁(あるいは鉈)を持ち、鬼の面、ケラミノ、ハバキをまとって家々を訪れ、「悪い子はいねがー」、「泣ぐコはいねがー」などと奇声を発しながら練り歩き、家に入って怠け者、子供や初嫁を探して暴れる。家人は正装で丁重に出迎え、主人が今年1年の家族の行いの悪事を釈明するなどした後に、酒などをふるまって送り返す。
そんな秋田県・男鹿半島の伝統行事、「なまはげ」の伝承に"黄信号"がともっているという。少子高齢化により、なまはげ役を務める20代の若者が少なく、行事の実施を見送ったり、高齢者が代役する集落も増えている。しかも、最近では幼児虐待だと言われることもあるのだそうで、これが取り止めとなったり、行事の見送りの理由でもある。まー、確かに怖いっちゃ怖い…
若者時代似なまはげ体験のある者は言う。「よく本気で襲うフリをして怒られたものだ。 まあ、5時間追い回したときはさすがに疲れたが」。近年は、「脅されてる子どもがかわいそう」となまはげの受け入れを拒む家庭も増えているというのだ。オカシな時代になったもだ。「なまはげ」ってのは、元々そういうものであったはずなのに…。さらにはこういう理由もあるのだそうだ。
なまはげがくることに備えて、家の中を片付けたり、綺麗にしておくのが面倒という面もあるのだという。「はっ?」一年に1回の行事だろうに?その日くらいは綺麗にしたっていいだろ!この横着嫁が!呆れて物が言えんよ。「子供が怖がる」、「残酷なものは見せたくない」という親も情けない。「恐怖」が排除されていく現代の風潮は、子供たちにとってある意味危険なことでは?
そういえば、親や教師から「気持ち悪い」の声が「ジャポニカ学習帳」の表紙の昆虫を花に変えたのが3年前。何と言うバカな親と思ったが、家の主導権を妻が持ったことが影響したのだと思った。男が強ければ、妻のアホな言い分に、「何バカ言うんだお前は!花は家でも花瓶に挿せるが、昆虫なんてそうそう家に置いておけんだろ?こういう虫もいるんだこそ学習よ」と言える。
ジャポニカ学習帳は、1970年に販売を始めたロングセラー商品で、累計で12億冊以上が売れた。学年や科目ごとに違うデザインをそろえ、表紙に昆虫、花などのオリジナル写真が載っていた。それを「気持ち悪いから」と、親の感性を疑ってしまう。綺麗なものだけを見、いい臭いだけかいで生きていけるわけないだろう。ところが、昆虫の学習帳が復刻されることになった。
理由は、学習帳45周年企画として、消費者が1970~2000年代の計80種類から好きな表紙を1冊選ぶ人気投票をした結果、トップが昆虫だったことから販売を決めたという。ちなみに70年代はクワガタ、80年代はカブトムシ、90年代と2000年代はチョウが1位で、全て昆虫が占めた。母親や女教師の要望に圧されていた学習帳は、真に子どもの意を繁栄していなかった。
花は綺麗だが、昆虫は汚い、気持ち悪い、そんな子どもが医師になって献体解剖授業で内臓を見れるのだろうか?内臓も死体も汚い、気持ち悪い以前に、実存するものである。事実から目を背けるような子どもなど望まない。復刻はよいことだ。学習ってのは綺麗だけを選び、気持ち悪いや汚いを排除することではないが、どうも女の感性が真実の妨げになっているようだ。
子どもを強くするためには、気持ち悪いもの、怖いものを与えるのがいい。この世に存在するものをしかと享受するのが、世に生を受けたものの習わしである。善も悪もしっかりと見定め、醜も美も清も濁も同様だ。怖いもの、気持ち悪いものを好きになれとは言ってないし、避けてばかりはいられないということ。水木しげるからなまはげに話がとんだが、今日は書くことをあらかた決めている。
『混血児リカ』という漫画の思い出だ。思い出といっても、題名は記憶にある。読んだ記憶もある。が、内容はさっぱり思えていない。どういう事で読む機会にあったかも記憶にない。作者も知らない。そこでネットで調べてみた。作者は梵天太郎(凡天太郎とも)という。何となく聞いた名だ。.彼は水木しげるの紙芝居時代の兄弟子にあたり、凡天が原画をかき、水木が色を塗るという関係であった。
かの白土三平も凡天のアシスタントをし、白土デビューに凡天が尽力したという。一般にはほとんど知られていない凡天太郎は、紙芝居や劇画時代の巨匠であった。凡天は昭和4年生まれで、15歳で特攻隊に志願し、予科練を経て少年航空兵として鹿児島海軍航空隊に入隊。終戦後、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学。学生時代より加太こうじに師事、紙芝居を描いて自立する。
卒業後、少女漫画が評判となったが、突然引退。刺青修行の旅に出る。5年余り後に漫画界に復帰。「混血児リカ」や「猪の鹿お蝶」などをヒットさせる。など、奇異な略歴である。凡天の代表作と言われる『混血児リカ』(単行本全8巻に相当する)は、集英社の「週刊明星」にて1967年から連載されたが、当時は一度印刷された原稿は、簡単に捨てられたり、他人にあげたりが普通で、単行本化されていない。
作品全編は電子書籍サイト「マンガ図書館Z」で有料にて読めるが、これは「マンガ図書館Z」を運営する、Jコミックテラスが凡天太郎事務所に保管されている貴重な「切り抜き」を使用し、完全保存版(600dpi)としてデータ化したものであり、"作家の望む形で公開したい"、"なるべく当時のままで公開したい"という方針の上、差別用語であっても修正せずにそのまま掲載したと、Jコミックテラス側は言う。
そもそもタイトルの「混血児」自体が差別用語である他、本文も相当過激な内容であることからして、「日本の出版社での単行本化は事実上不可能だと思われます。」とJコミは言う。マンガはあまり興味がなく、「鉄腕アトム」や多くの子どもマンガ、青年マンガなど昔読んだマンガを読みたいとも思わないが、平田弘史と谷岡ヤスジだけはなぜか別格で、多大な出費も労も厭わず収集した。
凡天太郎で検索すれば、多くの挿絵や表紙カバー絵などを目にするが、さすがに美術学校出身だけあってデッサンに狂いはなく正確な描写が目を引く。作品の著作権管理をする「梵天太郎事務所」は、2007年10月1日に設立されているが、世田谷区成城に居住の加藤弘氏が事務所の統括者で、以外の詳細は不明。凡天氏は2008年6月に他界したが、好奇心旺盛もあって幾多の肩書きがある。
氏は昭和48年(1973年)、『混血児リカ』の連載終了を持って劇画から身を引いている。混血児とは馴染みのある言葉で、人種または民族の異なる父母との間にできた子どもを言った。欧米ではドイツ人とフランス人、イギリス人とギリシャ人などは普通であったが、島国で単一民族を標榜する日本人(実際はちがうが)にとっては、このような言い方をするしかなかった。別に血が混ざるわけではない。
実際に混ざり合うのは遺伝子である。ただしヒトは、社会的動物であり、各々の人種・民族の単位で結束が固い社会にあっては、または封建的な社会において所定の氏族の政治的・社会的地位の格差がある場合などには族内婚で生まれた子供に比して、これら混血の人々が差別の対象とされやすい。現在では「混血」、「混血児」などは使われることはなく、一般に「ハーフ」と呼ばれている。
してこの呼称は、1970年代に活躍した「ゴールデンハーフ」というアイドルグループの名称から全国的に広まったとされている。それまでの日本においては、特に戦後になって連合国軍兵士との間に生まれた人々(GIベビー)が社会問題となった。当時は、「混血児」や「あいのこ」と呼ばれ、母親が水商売や、当時パンパンと言われる売春婦、占領軍施設などで働く女性に「混血児」出産が多かった。
兵士と自由恋愛の末に出産をしたケースも含めて、異端をよしとしない日本社会からは好奇の目を向けられた。やがて、差別やいじめの起因となることから、「混血児」という呼称の使用は避けられるようになっていった。ながらく「ハーフ」という呼称が疑問を呈すこともなかったが、1990年代に入り、「ハーフ」という呼称の語源に「半分」という意味があることから、差別用語ではないかとの意見が現れた。
そして、2つのルーツ(出自)を持つという意味から、「ダブル」という呼称を採用しようとする動きが一部の親などから出始めたが、これまた様々な事由から定着しなかった。どうやら「ハーフ」に変わる言葉は見つからないのが現状のようだ。昔はイジメの元凶であった「ハーフ」だが、山本リンダ、草刈正雄などが先鞭をつけ、日本国内ではとりわけ欧米ルーツの人々は美男美女といわれるようになる。