11月は31日がない。同じように2月、4月、6月、9月にも31日がない。覚えておくと、ちょっと便利なこともあってか、覚え方として親から聞いた言葉が「西向く侍」である。小学低学年の頃に教わった。「西向く侍」は、「2、4、6、9、11(サムライ)」の語呂合わせ。「2、4、6、9」はともかく、なぜ11月を「侍」としたのかは疑問に思ったが、聞いた記憶はない。親に聞いて意味を教えてくれたかは謎だ。
たぶん中学生のころ、「11月=侍」の意味を調べた。「侍=士=十一=11」ということで納得した。「西向く11」よりも「西向く侍」の方が覚えやすい語呂合わせであろう。この語呂合わせは、歴史の年表の覚え方に多く使われる。自分はこういう語呂合わせ的なお遊びが好きなので、遊び気分で重要な年代を記憶した。記憶して、友人同士で「大化の改新は?」、「平安京は?」などと言い合いした。
ところが語呂合わせにも様々な言い方がある事に気づいた。例えば、「鳴くよ(794)うぐいす平安京」は有名な語呂合わせの一つだが、自分は「平城なくし(794)て平安京」と覚えていた。第一次世界大戦も、自分は「行く銃士(1914)」と覚えたが、友人は「行く意思(1914)あるのか一次大戦」ろ少し長めだ。「虫殺し(645)の大化改新」、「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」など同じものも結構あった。
「遊びながら学び、学びながら遊ぶ」を地で行く年表の語呂合わせだが、「語呂合わせで覚える方が得意だという人が信じられません。それくらいなら、覚えるべき知識等だけを覚えた方が速いのではないでしょうか?」という人もいる。これに対して賛同する者が、「私も語呂合わせは大嫌いです。人間知性への冒涜だと思っています」などと言う。こういう考えも独善的、自己中心的であろう。
要は「人は人」である。山をどこから登ろうが、要は登ればいいわけで、記憶も同様に人によって能力差もあれば、方法にも向き、不向きがある。語呂合わせは、「論理的記憶力」、数字だけ覚えるのは、「機械的記憶力」と言える。自分は昔から手帳など持たず、友人の電話番号は語呂合わせで記憶した。それが自分に合っていたし、手ぶらでいれる。なぜ覚えられる?
友人の顔と電話番号がリンクする。「661-6223」と数字だけで覚えてる奴、684-5794(むはしこなくよ)」と意味のない語呂で覚える奴、いろいろだ。大事なものは大事と思えば脳のパワーが増すのだろう。30人くらいは間違うことなく覚えていた。「語呂合わせで覚える方が得意だという人が信じられません。それくらいなら…」は人に対するお節介というもの。
人のことをどうこういわずに、自分の心配をしろで、結局、こういう奴は、「覚えるべき知識等だけを覚えた方が速いのではないでしょうか?」と自己を正当化したいのよ。「無駄なことでは?」と他人に言いたいんだよ。他人のことに口出ししたい性格だろうが、だから「いらぬ節介するな!」とガツンといわれたりする。語呂合わせ記憶に批判的な人は、余計な文字数の多さをあげる。
確かに年表に長い語呂合わせは多い。「鳴くよ(794)うぐいす平安京」より、「平安京794」なら6文字だが、「うぐいす」は「鶯」という言葉の記憶で、文字ではないので、「794鶯平安京」となる。どれだけ違う?もっとも自分は「794て平安」と短くしていた。鎌倉幕府も「いい国(1192)」だけだし、第一次大戦も「行く銃士(1914)」。肝心な語呂だけでも出来事が特定される。
「鳴くよ(794)うぐいす平安京」と長ったらしく覚える必要はない。あくまで覚え方の語呂であり、多くは「鳴くよ平安」と覚えていると思われる。語呂合わせにイチャモンつける人は浅はかと言っておく。そんな長ったらしい覚え方は誰もしない。「虫殺し大化」という語呂で覚えてしまえば、その後は「645」と聞いただけで、大化改新が呼び起こされるというもの。
よって、自分は機会的に復唱して覚えるより、論理的記憶法を駆使した最初の語呂合わせは「リハーサル」的な意味で良い。あくまで、個々の向き・不向きの問題で、自分に向いた記憶法を見つけるべき。機械的記憶法は自分に向かないので、メリットは分らない。記憶の大敵はストレスという実験結果もあるが、「うざい語呂あわせがストレスになる」というのは違う気がする。
確かに、自分に合わない方法でやってる人もいるだろうが、富士山をどこから登ろうとも善悪のいわれはない。さて、ひと月に30日と31日があるのは何故かを知りたい人は調べればいいとして、「なぜ2月は28日しかないの?」と子どもに聞かれたことがあった。古代の太陰暦を太陽暦に変えたのが、かの皇帝シーザー(カエサル)で、暦の理解は子どもにはムリ。
「とても難しいので、大きくなって知りたいときに自分で調べなさい」と言っておく。それより、「どうして赤ちゃんは出来るの?」の説明の方が楽だった。あの時、長女とお風呂の中だったので、「(指差して)コレをお母さんのお尻に入れて、子どもが出来る薬を出すと赤ちゃんができる」と、言ったはいいが、お風呂からあがるなり、「お母さん、お尻くすぐったくなかった~?」と大声で聞いていた。
「西向く侍」がこんな内容になったが、想定外こそ面白い。自分はドッキリカメラが大好きで、人は何かを想定していない時の、生の声、生の表情に真実を見る。普段は自己を抑制し、かしこまっているが、SEXという行為も、人の真実に触れるところがよいのだろう。栗本慎一郎の「人間はパンツをはいた猿」ではないが、人は20%の人間性、80%の動物性から成る。
パンツを履いている女性と、パンツを脱いだ女性と、どちらがエロティシズムを感じるか?言わずもがな、それが人間の動物的な感じ方であろう。ブロンテ姉妹を存じの方もおられよう。イギリスのヴィクトリア時代を代表する小説家3姉妹で、シャーロット、エミリー、アンの3人。ヨークシャーのソーントンの牧師の子として生まれ、3人共同の『詩集』を発表後、それぞれ小説を書く。
シャーロットは、『ジェーン・エア』。エミリーは、『嵐が丘』。アンは『ワイルドフェル屋敷の人々』を発表し、イギリス文壇に多大な影響を与えた。彼女たちは、生涯一度も男の前でパンツを脱がなかった。ゆえに、女性から積極的に男を求めるという内容は、当時の社会常識から大きく逸脱し、ヴィクトリア朝の文学においても画期的と言われたのは、彼女たちがパンツを脱がなかった賜である。
鈍才のかく下手なポルノ小説よりも断然エロティックである。聖テレーズ(リジューのテレーズ)をご存知の方もあろう。マザー・テレサのテレサはテレーズの名にちなんだもので、「神を愛すること=人を愛すること」に身を捧げることを渇望したテレーズは、信仰のあまりに恍惚となり、エクスタシーに達していた。抑圧のなかにこそエロティシズムはある。その事を我々は知る。
人間の性器がエロいのではなく、パンツを履くからそのようになる。だから性器は額にあってはならない。だからか、人間はパンツで身を飾るが、飾りすぎると引いてしまうのでほどほどに…。シャワーを浴びる前に女が、「下着をつけて来た方がいい?取っての方がいい?」と聞かれた。気負いのない、素直な女だから言葉で、そういう女ならどちらであろうと可愛い。
自己の修飾に気を使う女も多いが、飾らぬ女の魅力はビリー・ジョエルが『素顔のままで』にて歌っている。綺麗に見せたい女心はわかるし、その心の在り方は着飾ること以上に可愛い。が、得てして男はすっぴんを好むもの。理由もいろいろあるだろうが、一緒にいて、すぐに出かけられるというのもすっぴんの良さ。作った美しさは虚飾であり、すっぴんの自然さには劣る。
手を加えることで美しい生花と、野山に可憐に咲く雑草の美しさの違いであろう。いかなる造形より自然に勝る「美」はないという考えに自分はいる。以外や女性は肌のコンプレックスを隠すための化粧が多い。ならば、ニキビも、吹き出ものも、アバタも、開いた毛穴も、好きになってしんぜやしょうではないが、意外と男は気にならない。姉のところに遊びに来た妹と自分3人で出かけることになった。
姉はいつも通り、すっぴんで出ようとしたとき、「ちょっと待ってよ、お姉ちゃんそんなんで出かけるの?止めてよ」と言われて姉ちゃんも自分も驚いた。人のすっぴんまで気になるという性分は、いかにも外を見て暮らす女と理解した。「お前が困ることではないだろう!」といいかけたが、姉ちゃんがうるさい妹に黙って従っているので、何も言わなかった。人の世話までやく女はホントうるさい。
最後に、侍と武士は区別するものなのか?同じものだと思っていたし、「侍」と「武士」の違いに特別疑問に思った事はなかったが、平田弘史の作品、『侍』の中に以下の問答があった。関が原後の東軍による西軍の残党狩りの最中、石田三成の一族石田正長の家臣であった戸田源左ヱ門が主君正長を斬ったと本多忠勝邸の玄関に現れ、その功により召抱えられるという話…
戸田: 「武士の意地を守る…それは誠に大切なことであろう。しかしながら、拙者の場合は、武士の意地や体面を守るよりも、侍の意地を守り通す事が第一なので御座る…」
矢崎: 「侍の意地…?分かりません。侍の意地とはどんな体面を汚されてもよいと云うのですか?」
戸田: 「左様!そういう場合も御座る。」
矢崎: 「不可解な!私に嘘を報告させておいて、他人の士道を汚す事も侍の意地ですか?」
戸田: 「左様!」
矢崎: 「まこと心からその様に考えておられるのですか?」
戸田: 「左様!侍の意地を通すには、他人の迷惑をかけてでも通さねばならぬ…」
矢崎: 「むう、侍の意地とは迷惑なものですな!」
戸田は実は主君を斬ってはおらず、残党狩りの追っ手から主君かばい、僻地に逃すために嘘をいい、徳川方を騙す大芝居であった。戸田は本多家に召抱えられた後、家来衆から、「主君を斬って禄をもとめる愚か者と嘲られるのを耐え忍んだ。こうした戸田の真意を知った矢崎は、この回想した。「侍の道と云うものは、目的のために恥辱を忍ぶ心構えは、今の我々も心せねばなるまい…」。
侍とは、「さぶらう=仕える」者との語源を持っていたが、やがて武士(軍人)と同じ意味になっていった。劇中、戸田源左ヱ門のいう「侍」とは、主君に従うもの、その心根を述べたものだった。