「適当にやってます」とか、「適当にやらないように、もっと真剣に!」などと、「適当」にあまりよい意味はないが、「適当」の漢字自体は悪い意味でない。「適当」の意味は、①上手く当てはまる、②ほど良い、③いい加減の3つがあるが、上の「適当」は③であろう。というように、「適当」の漢字の、「適」は、「かなう」という意味で、字源は、「目的・中心とするところに寄る・進む」というもの。
それらから、「目的が敵う・目的となるところへ行く」などの意味になった。「当」は「あたる・あてはまる」という意味の漢字。字源は、「田間で行う神への祈りの儀礼」という漢字。その儀礼は時期に応じて行うものであることから、「当の時期だ」と、「物事があてはまる」という意味となったようだ。よって、「敵」と「当」の二つの字を合わせると、「物事があてはまり、かなっている」という意味となる。
したがって、①上手く当てはまる、②ほど良いとの意味は文字に相応しい意味だが、ではなぜ③の「いい加減」として使われるようになったのか。どうもこの意味で使うことがほとんどのようだし、誤使用という風にも思えない。その辺りを考えてみたいが、「いい加減」の「加減」は、「加える・減らす」であるから、「程度や具合」という意味になり、「いい」=「良い」を加えて、「良い程度」という意味となる。
ところが「良い加減」というのは、例えばお風呂を沸かしてる親が子どもに「良い加減になっているか見て来て!」などというように、良い加減というのは明確な物差しではない。もし、子どもが「うん、とっても良い加減だよ~」といって、火を消した親が自分で確かめたらぬるかった。「どうしてこれが良い加減なの?」となる。つまり、「良い加減」とはあてにならないことから、そういう使われ方となった。
「適当」も「良い加減」と同様に曖昧さを持つ言葉であり、この二つが「適当」=「いい加減」と同じ意味になったのであろう。あるブロガーが「適当にやってます」と自己紹介に書いていた。自分は、抜目なくちゃんとやってますよ」という風には受け取らなかった。自分も、適当=いい加減という意味に取っている。おそらくほとんどの人間がそのように取っているだろう。自分はブログをいい加減にやっていない。
正しい意味の「適当」にやっている。ブログに限らず物事をいい加減にやる事がどういう事かよく分かっていない。手をぬくこと、暇つぶし、大雑把などが、いい加減の意味であろうが、おそらくそういう事で何かをやることはない。これは性格上の問題である。だから、「しない」ではなく「できない」と言った方が正しい。言い方を変えると「根を詰める」という。ところが、本人はちっとも「根を詰めて」はいない。
普通にやっている。だから「根を詰める」という事がどういうことなのかよく分らない。他人はよく自分に言った。「そんな、根を詰めてやると疲れないか?」。自分が普通にやっていることを他人は「根を詰めて」というが、だから返答の仕様がない。当初は「普通なんだけど」と言ったが、どうも受け入れられない。面倒くさいから、相手の配慮に合わせて根を詰めてやっているように返答をするようにした。
どうしたところで相手には根を詰めている状況なわけだし、「まあ、適度にやるよ」などと返す。「適度」も「適当」も本来の意味としては、「ほど良い」との同じ意味である。が、「適当にやるよ」とは返せなかった。なぜなら「適当」は「いい加減」の意味だから、「根詰めて大丈夫?」と聞かれて、「適当にやるよ」ではいい加減にやらなければならなくなる。だから、「適度にやるよ」ならいい加減とはならない。
「適度の運動が体にいい」、「適度な飲酒は体にいい」などの「適度」という言葉は、「適当」と同じ意味でも、「いい加減」という意味に汚染されていない。そこは、「適度」と「適当」の使い訳の妙である。「適度」は「ほど良い」意味しかないが、今や「適当」は100%「いい加減」の意味になってしまった。「いい加減」という辞書は自分にない。いい加減にやりたいとも思わない。いい加減にやったという反省もない。
なぜなら、「いい加減」という言葉も行動も自分にはないのだから。少し手を抜いてやることは本当にないのか?手を抜けない性分なのだろう。長男が子どものころ将棋を教えた。将棋の面白さを分からせるために手を抜かなければいけないと思いつつも、手を抜くことができなくてよく後悔した。なぜ、できないのか?やったことがないから慣れてないのだ。やろうと思いつつ、どうしても真剣になる。
だから、最初は王様一枚で始めた。そうして段々と落す駒を少なくしていく。以前、孫が将棋を知っているというので、やってみたら駒の動かし方を知っているというレベルだった。二回目にやったときは、王様と歩三枚で圧勝し、孫はもう「将棋をしよう」といわなくなった。どうしてもっと適当に遊んでやらなかったのかと後悔した。が、やってつまらないこと、実りのない事はやれない性格である。
真剣になれないことを「実りのなき事」と捉えている。だからか、何でも真剣にやって、実りとするようだ。恋愛もそうであった。いい加減な恋愛とか、いい加減な男女の関係とかがどういうものか良く分らない。それでは、なぜ多くの女性と関係したか?「いい加減だったからではないのか?」と、問われたことがある。自分にも何度か問うたりもした。でた答えは、「飽きるまでは真剣だ」である。
「飽きるまで真剣というのは、いい加減な恋だからでしょう?」と決め付けた女がいた。決め付けられようが、どうであろうが、自分のことは他人に関係ない。責められるいわれもない。飽きられるおそれがあるから、この人とは恋愛はしないと見越すならそれで結構。最初から自己保身の恋愛が恋愛か?恋愛に限らず人間は何事にも飽きる。好きな洋服、好きな食べ物、好きな音楽に飽きる。
飽きるがの悪いと誰が言う?たとえ誰かが言っても、それが罪か?罪であるというならどういう罪なのか?何事も飽きないと正面きって言えるのか?人間は飽きるし、飽きなければ人間でない。2006年10月6日に始めたブログは、2015年の同日で9年となる。普段はしない回想だが、してみると驚きである。「へ~、もう9年になるのか?」などと。何に驚くかは、9歳年を取った、その事の意識であろう。
過去は振り返れるが、明日はどうなるのか分らないのが人間である。猿も犬も牛もそうだが、彼らはおそらくそういう事を考えない。人間だけが過去と現在と未来を持っている複雑な生き物だ。犬や猿は今だけを生きている。それはそれで純粋であろう。人間は奇々怪々だ。過去に悔い、未来に託さんとする。その狭間として今がある。過去の記憶も、未来の希望も、ない方が幸せなのだろうか?
考えはすれど、そんなことは不可能だ。それにしても、「いい加減」はしないについて言えば、これは性格といったが「慣れ」であろう。他人がどのような適当=いい加減をしているかは、分らないが、「いい加減な仕事をやるんじゃないよ」と注意したことはある。そのとき他人は、いい加減であったのか、本人はそうではないが自分にはいい加減にみえたのか、そこは分らない。上司とは結果で判断する。
だから、「一生懸命にやったのに、いい加減だと怒られた」などと言うのであろう。自分もその経験はある。一生懸命にやったのにいい加減な仕事するんじゃないよと。これは経験の差であり、求められた結果が敵わないときも、「ちゃんとやれよ!」といわれる。結果がでなければちゃんとやらなかったことになる。経営者というのは概ね「成果主義」が大好きである。
会社が仕事をするところである以上、それは仕方のないことだ。個人的にあいつは話して楽しい奴だが営業成績はドンケツという人間を好む経営者もいるだろう。零細企業と中小企業、大企業とでは求めるものが主観的か客観的かとなる。聞こえはいいが自分は全力投球で何かをするが、そのやり方が好きだった。一心不乱に何かをするのが楽しく、それが結果や出来ばえに現れる。
全力で当たっても結果的にはダメなこともある。結果は重要なのか?結果は重要だ。そのために頑張るわけだし。同じことをやっても他人は出来て、自分は出来ない。それなら腐るだろうし、これをどうみればいい?問題は比較するからいけない。他人は他人、自分は自分、自分が出来なかったことを他人が出来ても、自分には関係ないじゃないか。なぜ比較する?
同じように、他人ができないことを自分が出来たも同様に比較するのか?比較して優越感に浸りたいのか?つまらん事はするな。自分が出来たらいいし、できなければ自分の能力の問題だ。他人の出来、不出来も、他人の能力の問題だ。人は個々で能力が違うのに、能力を比較して一喜一憂するのは止めれ。自身の問題は自身で突きつめろ、自身で諦めろ。
問題は、その事に自分が一生懸命に取り組んだかどうかである。自分の能力の範囲で全力でやったかを問えばいい。5の能力しかない人が5を出せばいい、10の能力を持つ人が10の能力を出すなら、自己の能力を100%出している点において2人は対等である。1億円持っている人も100万円しかない人もいる。他人が1億円をどう使うなど関係ない。自分は100万円をどうするかだ。
「金持ちだからと褒めてはならない。彼がその金をどう使うかを見るまでは…」という有名な諺がある。香港の富豪が7歳の娘に59億円のダイヤモンドを落札して話題になった。人が自分の金で何を買おうが非難することはないが、賛美することではない。こういう金の使途は上の諺でいう、「褒めてはならない」でいいが、したい人は自分の意思でし、他人の意思は関係ない。
庶民には計り知れない金額の宝石である。7歳の娘が成長したら、「パパからのプレゼント」とするのだろうが、どれほど金を積めども世の中には買えないものがあるということを、愛する子供に伝える方がよっぽど大切ではないかと。息子三人を「灘⇒理Ⅲ」にやったという母親の息子自慢に、経済専門誌「東洋経済新報社」が批判記事をとりあげた。興味深いので再考する。