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女子高生のミニスカート

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股下数cmの女子高生のミニスカートは、外国人に不可解であるらしい。彼らはマナーもあってか露骨な失笑はしないが、あるフランス人女性が、「なぜ日本の女子高生は、太い足をあんなにさらせるの?」と、素朴な疑問を呈した。「アホ丸出し」は御幣もあるので、「アシ丸出し」と言っておくが、彼女らには何を言っても、「ウチの勝手でしょ!」である。

「自分は男性です。」
「スカートの中を覗くと犯罪(迷惑防止条例)といわれていますが、それに納得しにくい部分があります。覗かれたくないなら覗かれないなりの格好をすれば良いと思うし、そもそも男性を刺激してるわけですよね。 自分は外を歩いていて扇情的な格好をしているギャルなどを見ると目を背けてしまいます。とてもうざく感じています。

こういった人たちのスカート内を見た人間は、迷惑防止条例違反になるわけですが、自分から言わせたら扇情的な格好をしている女性自体迷惑です。これって迷惑防止条例違反として訴えられませんかね?エスカレーターや階段、前に女子高生などミニスカ履いた人がいると大変迷惑しています。覗いたとみなされたら違反になるし、ほんと迷惑です。」

というネットの投稿である。性別は分かるとして、"扇情的"などの文面から年齢は中年と想像できる。それにしても、お堅い、真面目なお人だ。女性のミニスカートに異を唱えている訳だが、そうした気弱な男は少なくない。意識的に見たわけでもない、なのに犯罪に絡まれたくないという心配のようで、こういう取り越し苦労をする人たちに一言いっておこう。

例えば電車内でミニスカート女子高生と体面する場合、Ⅴゾーンからワザと目をそらしたりすることを自分はしない。視線がそこに行こうが関係ない。罪悪感もない。なぜなら、その高校生がミニでない場合、あるいはパンツである場合、どこそこに視線を置こうと相手は意識しないが、ミニを履いているからと自意識過剰なバカに遠慮しない。

もし、「あなた、覗いたでしょう?」と因縁をつけられたらどうするか?「覗いただと?見えてるんだよ、勘違いするなボケ!」と言うだろう。さらに相手が悪態をついたり、言葉悪く罵った場合、「お前はな、パンツがどうこうより、その面を隠した方がいいんじゃないか?袋でもかぶって!」くらい言うかもしれん。自分に因縁をつけた罰だ。

人間の首の構造から言っても、対座する相手のⅤゾーンに視線を置くのがもっとも自然で楽な角度である。そのことを何で遠慮しなければならない?気を使わねばならない?相手が自分に気を使わせるなどと思う必要は全然ない。が、気の弱い男は「目のやり場に困る」などという。自然にしていて犯罪だといわれるなら、堂々自己の主張をすべき。

こういうバカを怒らせて、公安に言ってもらった方が、相手のバカ発言を指摘できるチャンスでもある。それが、上記した言い分(論理)であり、これに異を唱える言葉があるなど想像できない。道理であり、正論であろう。迷惑を撒き散らしておきながら、その迷惑から派生した事で言いがかりをつけるなどは、まさにヤクザ的手法であろう。

自分はそこまで主張する。そんなことで、理解するとか、懲りるとかの女子高生なら真にバカではないが、おそらく通じないだろうし、そこは問題ではない。第三者が納得すればそれでいいことだ。「覗くと見える」の違いを混同し、少女の言い分を間に受けて善意な乗客を罪に陥れないよう、その辺も言っておきたい。だから、そういう場はあった方がいい。

世の中、人間はいろいろだから、自分のやっていることや主張が正しいと信じる人は多い。それで何かを言われた側も、自分が正しいと言い返すが、売り言葉に買い言葉では、正しい範疇とはならない。何が正しいかは、冷静に理性的にキチンと判断していうべきであろう。このブログにも、異論や意見がたまに来るが、正しいものも、バカな意見もある。

それらは、その人の人間を現している訳だから、正しいと感じる意見は称え、おバカな意見は諭すのが賢明だ。面倒臭がって、無視したり、詰ったり、見下したりは自分の人間性を表すことになる。何度言ってもしつこく絡む相手には、いつまでも関わっていられないので通告はするが、キチンとした意見を返す相手に対しては誠実に対応すべきと思っている。

意見とは言えないような、誹謗や中傷の類には最初から無視する。自分の考えに対する異論や反論も人と人との縁であろう。諭す必要を感じる意見もあり、善意な対応を心掛けるが、「上から目線」と制止するならそれで終り。そもそも「上から目線」なる言葉は、過去に数度批判記事を書いているように、こんな弱ったれの被害意識丸出し言葉を自分は認めない。

上でも下でも中(対等)でも、意見ならどうであれ何であれ気にはしないが、こちらが口を開いたらすぐに、「上から目線だ!」という被害者意識を持つ現代の若者に共通する脆弱さを見る。我々が若かった時代、「上から目線」なる言葉は存在しなかった。何を言われても立ち向かうよりなかったし、自分の意見を持つことが、相手は誰であれ闘う術だった。

「上から目線ですね」と若者に言われて怯む大人はだらしがない。「上から目線」を怖れたり、気を使うのは、嫌われたくない気もちが背景に見える。そもそも、「上から目線」などの言葉を持ち出すことで防御を見せる若者はヘタレである。虚無の世代、傷つきやすい世代の蔓延から生まれてきた言葉であろう。自分らの若者時代にこんな言葉はなかった。

「上から目線」などの気はなくとも、年齢的に「上から目線」とわれる側にあるが、女性から言われれば面倒くさいので以後の会話を止める。男なら「そんなバカな言葉使うな!」などと言ったり、諭したりすることもある。対話とはそうしたものだ。意見や考えに上下もヘチマもない。こういう言葉が生まれた背景は、いかに若者が甘やかされてきたか。


甘やかされてきた人間は、自分が傷つくことを極度に怖れる。というのも、傷ついた事がないほどに周囲や親から甘やかされてきたのだろう。辛口を指摘する人間は友人として認識せず、排除する。自分にとって心地いい人間を友人として迎えるのだろう。互いが傷つかない、傷を舐めあう関係とは、「お前の悪口はいわない、だからオレの悪口をいうな」

そうした虚無的な同盟を結びあう。何と言おうか、人間関係が姑息である。おそらく、そうした術を大人から学び取ったのではないか。近年の大人は、昔のような大胆な、個性的な、ヒトくせもふたクセもあるような、魅力的な大人でないのだろう。お行儀よく、失敗を怖がり、変に小さくまとまっている。それを姑息と判断するのが我々世代である。

「姑息」を巷では、ケチや卑怯、ズルイとの意味で使われたり、言われることが多いが、その使い方は正しくない。姑息の「姑」はしばらく、「息」は休息の意味で、「しばらくの間、息をついて休む」が嵩じて、「その場しのぎ」という意味になった。つまり、深い考えで全体や先を見通さない、その場しのぎという事。展望や信念のなさがこういう生き方を生んだ。

「その場さえなんとか逃れればいい」というのは、考えただけでゾッとする。後はどうなりと構わないから、今の現状をどうするか、を展望とはいわない。こんなことばかりしていたら、人間どうなってしまうのだろうか?「その場限りの生き方」に殉じる人間はいるにはいた。見習うべくは何ひとつない人間であったし、むしろ批判の対象である。

「今さえよければ」は、自分さえ良ければに繋がる。物事を根本的に解決しようとはせず、一時の間に合わせ、つまりその場主義が、男として許されるはずがない。かならずボロが出るに決まっている。そこを考えると、こんな人間にはなりたくないと感じていた。あとあとボロがでるなんて嫌だろうが、ボロがでたなら出たで、またその場しのぎ?

いかにも「その場しのぎの人生」である。女子高生に、「スカートの中を覗いたでしょう?」と煽られ、「覗いてませんよ」、「キョロキョロとしながら、時々覗いてるの知ってたんだからね」、「してません」、「してた」、「してません」と、何でこんな問答しかいえないんだ?ガキの絡みじゃあるまいし、「したでしょ」、「してません」の繰り返し。

これをその場しのぎと言う。根本的解決などあったものではない。上に記したように、論理的で落ち着いた主張が、相手の言いがかりを粉砕するような、そんな堂々とした生き方をすべきであろう。「やった」、「やらない」は子どもの喧嘩だ。大人というのは、読んで字の如しで「大きな人」。物事の根本解決は、子どもにはできない「生」の証しであろう。

女子高生のミニスカ如きでうろたえ、「これって迷惑防止条例違反として訴えられませんかね?」などとほざいているが、すぐに法に頼るとか、そんなくだらないことしか浮かばないのか?想像力の貧困さ丸出しだ。なぜにもっと思考しない?「生きてるうちに頭は使え」ってのは誰でも知っているように、学問と違って答えのない問題を出すのが人生かと。


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