彼氏が欲しい、彼女が欲しい…は、自然なことだ。そう思うことは自然であるけれども、問題はそのためにどうするか?である。世の中、男と女しかいないし、外に出るとまさに男と女がうようよいるし、出会いというのはきっかけを作って親密になることを言う。きっかけはいろいろあり、わざわざ書くこともないし、世の恋人同士や夫婦は何らかの形で出会ったわけだ。
彼氏が欲しい、彼女が欲しい…といいつつ、なかなかゲットが難しいといい、恋人がいない男女は多い。「欲しい」というのは要望であって、願ったら叶うものでもない。願えば叶うって、おとぎ話の世界ならアリだが、やはり行動しなければ何事も起こらないし叶わない。大分前だが、『笑っていいとも』で、ゲストの萩本欽一とタモリが、こんな風に話していた(要約)。
タモリ :「よくさー、『やりたい事が無いの』っていう人いるのね?」
欽ちゃん :「うん。わかる!いるよねーそういう若者…」
タモリ :「僕なんて若い頃は何でもやったし、やらされた。嫌だと思った事でも絶対に断らずに何でもした。」
欽ちゃん :「それが当たり前だよねー!」
タモリ :「そうですよね?とにかく色々やっていくうちに、自分のしたい事、やりたい事がわかってくるんだから。」
欽ちゃん :「そうそう!『やりたい事がないの』ってやつは、結局自分から何にもしない奴なんだよねー。」
タモリ :「そうなんです『やりたい事がない』なんて、当たり前の話ですよね!自分から動かないんだから…」
出会いがない人って、こういうことだろう。あるいは、出会いはあるけれども、自分がワガママであるとか、要望が強いとかで、続かない、すぐに終ってしまう。それでいて、また別の相手を探すという状態なら、フリー時期が多い。相手への要望が強い人間ほど自意識過剰とはよくいったもので、妥協しないのは構わないが、その前に自分がどれだけの人間であるか…
出会って意気投合して付き合うのは当たり前に普通だが、それが大変なのか?難しいことなのか?とりあえず、相手のいい面だけを見て付き合って行くうちに、少々の欠点はお互い様だから許し、あげつらうことはしないが、ただ女として、人間として、どうしても譲れない部分の性格の持ち主に遭遇すると、「これはダメだな。続けない方がいい」となるし、それは仕方のない事だ。
「相性」がいいと言うのは、全面的に「いい」のではなく、妥協する部分を含めて「相性」であるから、欠点は受け入れるが、これだけは許せないというものはしっかりと持っていた。つまり、そこは妥協できない点、する必要性を感じない部分である。「これだけは許せない」というのは、誰にでもあるし、あっていいし、それこそが"牙城"というものだ。
「これだけは許せない」というものを持っている方が、人選びにおいて失敗は少なくなるだろう。それくらいに「これは許せない」というものを自分は持っていた。それに該当するようなら、付き合いを止めるし、該当部分は遠慮なくいった。「悪いね。おれ、そういう性格ダメなんだ。好き、嫌い、気に入る、入らないは誰にでもある。相性悪いし、終わりにする。」
ハッキリ言った方がいい。「別れ話はしにくいよ」という奴もいるが、無理して付き合う意味もないだろう。ハッキリいう方が互いのためと思えばいい、フるとかフられるとかの問題じゃない、合わないんだから。嫌な相手が職場の上司や同僚ではないんだし、そうであっても嫌な相手との距離感、付き合い方もある。彼女や恋人は別れれば二度と会うこともない。
別れたい相手、別れようとした矢先に相手から、「お願い、別れないで」といわれることがある。人によっては「わたしを捨てないで」みたいな言い方をする女もいる。"すがる女を撥ねのけて去っていくのが男のカッコよさ"って、いつだか先輩に言われたことがある。"モテる男のカッコよさ"という意味ではなく、合わない自分より、もっと向いてる男がいるという優しさだ。
すがられて踏ん切りがつかないままに抱えて置くのは男のやる事じゃないよ。放してやるも、突き放すのも愛情なり。確かに別れは「情」の部分で難しいが、ダメと思った相手なら毅然とするほうが互いによい。泣いてお願いされたからと置いておくのは、自分に無理をすることにもなるし、そういうストレスは相手にもよくない。男はぐずぐずしないでハッキリすべき。
「いま恋愛したくない」って思ったらセーブかけられる。付き合う付き合わない自由、話したい、話したくない自由もあるわけで、だから女が、「捨てられた」というのは自己中心的な言い草だ。男でもそういう言葉をいう奴がいる。彼女から、「別れよう」、「終わりにしよう」といわれ、泣いて土下座されたという話も何度か聞いた。「ビックリした」と女は言う。
普段は、偉そうにカッコつけている男が、別れ話を女側から切り出された途端、態度が一変すればそりゃあ女も驚くだろう。「男の芯の弱さを始めて知った」と、女がいうようにこの手の男はいる。攻めには強いが守勢に回るともろいということだろうが、「据え膳食わぬは男の恥」という男子の金言があるではないか。これは男の「こらえ性」を言ったもの。
今は死語であろう「据え膳」とは、すぐに食べられるよう仕度が整えられた食膳のこと。それが講じて、「食べて下さい」と女から言われているのに、手をつけないのは男の恥との意味。主に女性からもちかけられた情事をいうが、別れ話とて同じ。「別れて!」というなら、さっさと別れてやるのが男の潔さだが、昨今は別れたいのに別れてくれないとこぼす女が多い。
もっとヒドイのは、別れをいったら殴るられる、蹴られるという。暴れられるのが怖くて言い出せないという女はたくさんいた。なんでこうなる?おそらく、男に余裕も自信もないからだろう。そういう風に弱ったれに育てられたのだ。暴力で脅してまで、女を手許に置いておきたいような男は、屁タレを越えた糞野郎。男の成りをしてはいるが、中身は腐っている。
かつてダメ男を、「女の腐ったような男」と表現したが、今はこんなことは言わない。ダメ女を、「男の腐ったような女」と言えばいいし、ダメ男にも、「女の腐った」は失礼千万であろうし、こちらも、「男の腐ったような男」の方がいい。女が強くなったというより、男のダメさを切実に感じている。全ては親父が息子に後ろ姿を見せず、「お勉強、お勉強」のママの仕業か…。
正確には分らないが、男がどんどんダメになっているのは間違いない。おそらく『光GENJI』だったと記憶するが、すね毛、わき毛を剃る男の子たちの元祖であったろう。それを聞いたときは唖然としたものだ。『光GENJI』とは、1980年代に熱狂的な人気を呼んだジャニーズ事務所のアイドルグループ。諸星と大沢くらいしか名は知らないが、大沢は時の人である。
大沢とは大沢樹生で、彼と前妻の女優・喜多嶋舞と間の長男の実子騒動があったばかり。これについて大沢は騙された憐れな男、喜多嶋はヒドイ女という一元的な見方だけでなく、いろいろな思考が可能である。大沢自身は彼の思う選択をしたように、全ては彼の問題だ。他人がアレコレ言う前に、自分が当事者なら何をどうしたかを考えればいいこと。それが答え。
他人の選択が自分と異なるから批判は生まれるが、他人の選択は他人がする。喜多嶋も大沢を騙したヒドイ女との言い方をされるが、あのようなヤリマンの女狐を選んだ大沢の責任は?自分の子でないのを知らず、デキ婚で押し付けられた恰好だが、「それは本当にオレの子か?」と聞いても何ら差し支えないヤリマンであったし、疑わなかった罪もある。
まあ、清楚な女で男の影もないならともかく、大沢が全面被害者とは思っていない。結局、言っていくところのない問題を大沢は数十年を経てやったことになる。ダメ女を選んだ責任を大沢自身、感じているであろう。物事を簡単に恣意的に判断する人が多いが、掘り下げて思考することで別の結論が出る。正しい、正しくないとは別に、広く考える方が面白い。
実際問題、喜多嶋とて複数の男と関係していたなら、誰の子であるかを彼女自身が断定できたかは微妙。行為状況を回想したり、逆算したりと、特定を試みたろうが、複数男と回数を重ねていては、精子の特定は土台無理。人の子を押し付けられた恰好の大沢は、若さゆえの運の悪さもあるが、自分の子と信じたその事を誰の罪とするかは、彼が考えること。
前回の記事に続いて、カレボ欄からの書き込みだが、書きも書いたりである。結婚相手には慎重であるべきだが、文字は文字、言葉は言葉、実際の行動から判断する以外に、正確なものは何ひとつ得られないであろう。「百聞は一見にしかず」だが、一見も行動からすれば「しかず」である。己の目でしかと見、己が心でしかと感じる以外にない。