次女の首を絞めて殺害しようとした東大阪市に住む母親(49)を、今月15日大阪府警布施署が殺人未遂容疑で逮捕した。「生活態度を注意したが無視され、首を絞めた」と容疑を認めている。14日午後5時半ごろ、同市内の自宅で府立高校1年の次女(15)の首を電話機のコードで絞め殺害しようとしたが、次女が同署に「母親に首を絞められた」と電話、事件が発覚した。
なんと言うべきか、こういう親も親なのか?「どんな親も親」という言葉がある。子どもに老後の面倒を見て欲しい、見てもらいたいと、そういう思惑から生まれた言葉と思いたくなる。昨今はもはやそういう時代ではない。親といえども生活基盤を犠牲にして面倒みるのは大変で、民間委託が主流である。親も子どもに負担をかけないよう、さっさと施設に行くべきだ。
ずいぶん前だが、親子についてある疑問を抱いたことがある。その際、疑問には明確な答えを出せなかったがこういうこと。自然界にあって、親が子を可愛がるのは人間だけではない。育児はあらゆる動物に自然本能として備わっているし、むしろ人間の方が子育て放棄や虐待がある。疑問と言うのは、子が親の老後の面倒をみるのが人間以外の動物には皆無であること。
人間社会では当たり前のように言われているが、これは自然界の自然の法則なのであろうか?それとも孔子の説いた儒教思想の影響なのか?中国、韓国、日本など、儒教思想が色濃い国はどうもそのようである。外国によっては、子に面倒を見てもらうのは恥とする国もあるくらいだから、子が親をみるのは一般化されてはいない。欧米等は子に対する依存心は希薄のようだ。
親を大事にするというのは美徳とされるが、自然にそうなる形がよいのではないか。20年近く親に世話をかけられた子が、親に対して自然な恩義を感じるのも不思議ではないし、思想で縛るよりはこちらの方が美しい。犬は3日飼えば死ぬまで恩を忘れないというのは、本当なのか?そのようにみえるが、まさか犬がご主人様に作為的素振りはないだろう。
「親孝行をせよ」という儒教思想、「神に従えよ」というキリスト教、命令思想や命令宗教はどうも好きになれない。人を思いやる「仁」、私欲に囚われない「義」、上下関係を守る「礼」、勉学に励む「智」、嘘をつかない「信」など、良い教えもたくさんあるが、性格的に偽善を慎む「老荘思想」に傾倒した。確かに、「子が親の面倒を見るのが当たり前」という世代人はいる。
「当たり前」とは、そのように教えられたからであって、子の負担を考えれば、親は子に頼らずに生きていくのが無為自然であろう。子に負担や無理をかけても、それが子の親への恩返しと言うのは傲慢な考えと断罪する。つまり、育ててやったのだから、恩を返せということで、子を育てることは子を作った者の「当たり前」の義務であり、恩着せがましく言うことではない。
孔子がなぜ動物のような自然性と違えて、人間は親の面倒を見るべきとしたのか?孔子は人間社会に秩序を作るためには、自然性を否定すべきと考えたのだろう。小犬に餌を与える親犬はいても、親犬の面倒を見る小犬がいないという自然性を、当然に孔子は知っていた。が、その自然性を否定し、「孝」という道徳を打ち立てない限り、秩序は維持できないとした。
自発的に感じる「恩」と、要求する「恩着せがましさ」とはまったく別のもの。たとえ子であっても、他人(自分以外の意味の他人)に恩や、物品や、他の何かを要求するというのは、浅ましい行為である。他人に無理をいい、面倒をかけ、それがさも当たり前などという硬直した考えを「傲慢」という。人間が傲慢になるのは思いあがるからで、つまり謙虚さがない。
ただ、謙虚さといっても意識して作ったものも多く、そうすることが人当たりがよいとか、人に善くみられるとかでやる人も多い。それを「腹黒い」という。真の謙虚さがいかに難しいか、「人間の生の目的は、他人への愛と謙虚さを身につけること」とニーチェが言ったようにである。愛と謙虚さはリンクする。愛があるから謙虚になれ、よって傲慢な人間に愛はない。
愛とは愛することで、愛されたいとは違う。人間が人に愛されたいと思うのは自然な感情だが、人を愛さないで愛されたいばかりを望む人も傲慢である。人を愛すれば自然に愛されるはずだし、言い方をかえれば、人に愛されたいと願うなら、まずは対象を愛することだ。そのために大事なのは、自己否定に始まる自己省察である。つまり、見えない自分をよ~く見る事。
自分は自分をよく眺めもした。第一の理由は、人と自分に違いが多くかったからで、それで自己を省察するのは面白くもあった。「なぜ、人は○○なのに、自分は○○でないのだろう?」そういうことが多かったし、いつもそこで立ち止まった。なぜなら、「人が○○だから、自分も○○しよう」、「したほうがいい」、「しなければならない」というのを全く思わなかった。
自分を知るとは、自分が他人をどう受け入れるかで、自分が他人にどう受け入れられたいではない。後者を主眼にすると、媚びへつらう人間になる。自分が他人に受け入れられることより、他人を自分が如何に受け入れるかが大事な理由は、友だちは自分で選び、自分で作るからだ。他人に自分の精神を搾取されてはならないし、自分を売ってはならない。
「なぜお前は○○しないんだ?」と同輩、友人にはよく言われた。先輩にも、「みんな○○してるのに、なぜしないんだ?」をよく言われた。その辺りをいろいろ思考した。「人がするから自分もする」という安易さ、無責任さ、付和雷同さがなぜか大嫌いだった。自分の行為は自分の内から出たものであるべきだった。「酒くらい飲めよ」と言われても口をつけなかった。
前にも書いたが、遅刻常習犯だった自分は、遅刻の理由をいつも「寝坊」と書いた。友人は、「もっと違う理由を書いた方がいいよ」と言うが、「寝坊」は事実であり、なぜ寝坊がよくないのかが分からなかった。同僚は、「寝坊は過失だろう?仕事に対する意識が低下しているとみなされる」という。「そうかな、仕事は一生懸命やりたいし、やっている」と言い返したり、思ったり…
いちいちありもしないもっともらしい理由を、考える方がどうかしてると本気で思っていた。あるものをあるがままに現すのは正しいと思っていたし、その方が自分も楽だった。虚実はどこかに無理があるし、その無理を恥ずかしげもなく押し通そうとする人間の心が貧困である。表だけを繕うことに皆が躍起になっていたのだろうが、それを自分は嫌がった。
青春時代にディスコが流行った。が、自分はどうもあれがバカに思えたし、絶対に行かなかった。が、自分の中で「ディスコで踊り狂うのがバカに見える」と思うのは、人と違うと認識していた。人と違うことの社会性欠如感から自己否定になりがちだが、人と同じでありたい、あるべきかだろうか?という考えには馴染めず、違うなら仕方がないと自己肯定で収束する。
ライヴに行っても騒がない、席も立たない、じっと座って聴いている。立見席でも座っている。みながやっていることをしないのは変かもしれぬが、人がどう思うは関係ない。自分は自分に正直に、したくない事はしない。それで浮いた存在などと全く思わない。浮こうが浮くまいが、そういう人の視点よりも、自分を生きていたいし、人と同じである理由は何も持たない。
それを「精神的に強い」という者もいれば、「変わってる」という者もいるが、どちらにも組しないのは、どちらも人の見方であるからだ。自分は自分のしたい事を自らに素直に正直にやるだけ。他人の目線も批評も関係ない。このように生きるのが心地いい。「そのように生きれたらいい」と言う奴もいるが、そういう奴には、「明日からでもできるよ」といつも言う。
「バカになれよ!」と、これ以外に特効薬はない。「図太くなれ」、「人の視線を怖れるな」と言っても、そんなことすぐにはできない。急にそんな風になれたら人間は苦労しない。「バカ」は人の目を怖れない。これは明らかに長所であろう。「神経質」、「人の視線を気にする」というのが、短所と認識するなら、それを長所に変えたらいい。だから「バカ」になれ。
「バカ」と指をさされるのを怖れないことこそバカの証明。自分は「バカ」にならないまでも、バカを演じることが出来るが、できない奴は「バカ」になる事だ。人から、「何でそうなれるの?」と聞かれたときも、「バカになれるからだ」と答えるのが簡単かつ手っ取り速い言い方だ。そういえばジョブズもそういってたな。「Stay hungry, stay foolish」は、今や名言となった。
彼が「hungry」であったのは事実だが、「foolish」は手っ取り早い言い方だろう。おそらく、「人から見たバカでいいじゃないか」との意味。人から、「バカじゃないのか?」と思われれるのを、「怖がるな!」と戒める。自分やジョブズの、「バカになれ」は、「バカ(といわれるのを)怖れるな」である。他人の目を気にして、自分のやりたいことなどできるハズがない。