親として、先人として、人間として「正しい」と思った事は言うべきだし、普遍的なものならなおさらであろう。社会学者の宮台真司はその著書『世紀末の作法』のなかで、「清楚な女子高生は淫靡な人妻に成長する」と言っており、成長の言葉に納得する。菅官房長官の発言や外務省の抗議を見ても、日本は構造的に「恥ずかしい国」である。人権の保証も成熟した自我も十分に信頼しきれない。
その恥をものともせず、こうした豊かな成熟社会を我々が既に生きてしまっているいる以上、市井に充満する恥部を批判はできない。上辺の批判はするが、外国人から見た恥部には拒否反応を示す。高校生や中学生とパンツを見て喜ぶ大人が果たして諸外国の健全な大人にとってまともであるはずがない。商売女は買っても、高校生に数万も渡すバカは、日本のオヤジくらいではないか。
『セーラー服を脱がさないで』という秋元の歌詞があった。「脱がさないで」は、「脱がされたい」と言ってるわけで、拒否の言葉がオヤジの制服願望を熱く刺激する。日本人には受けてもこんな歌詞は、諸外国にあっては幼稚園の学芸会の歌詞並で、それがこの国ではオヤジの慰撫史観である。このような親が子どもを教育しきれる環境をまさに失っている。国家的取り組みもなされない。
風俗の生き過ぎをたまに当局が摘発するが、多くは闇の中で行われている。秋元康のようなオタクロリコン男が時代をリードし、それに群がる若者と一部のオヤジ。以前、女子高生の援助交際について海外から取材を受けた宮台真司は、「自国を肯定し続けるため、そんなおバカな日本を恰好の餌食しているようだ」との感想を述べていた。「中流子女」が売春するニッポンの本当の危険とは何?
パンツを見てよだれを垂れ流すバカオヤジを見ながら、自身の父親に重ねることもあろう。クソオヤジの実体はこんなものかと、子どもが大人を浅ましく眺めてしまうこと。自分の経験で言っても、大人が子どもに見透かされ、眺められるのは悲劇である。大人としての存在感のない木偶の坊。「木偶の坊って何?」と聞かれたから、今では死語なのだろうが、「進撃の巨人」といえば、似て非也。
大人が家庭で、子どもが家庭で、互いがよそいき面をしていること自体、親子関係に問題があるのだろう。夫婦とてそうであろう。子どもにウソをつかれ、「騙されて信頼を裏切られてショックです」という(バカ)な母親もいる。なぜ、信頼を裏切られたのかは、信頼されるだけのことをしていないからだし、さらに言えば、にも関わらず(子どもに)信頼されていると思い込んでることがオメデタイ。
つまり、子どもがホンネをいえないような家庭環境であったということだ。ホンネのない人間関係から「信頼」は生まれないといったが、どう考えてもそれが事実であろう。子どもだってウソはつきたくないはずだし、だったらウソをついて良心の呵責に耐えないのはむしろ子どもではないか。それを親が「わたしが傷ついた」というところがオメデタイのだ。おそらくその子どもはウソを言うしかなかった。
なぜなら、本当のことを言ったときの親の態度、返答が読めているからだ。どんなことをいっても、キチンと大人の対応で受け入れ、アドバイスしてくれるような親ではないのである。親にはウソをつくしかないのは子どもに見くびられているということ。母親を騙せるウソが父親に通用するだろうか?そういう知性と威厳が父親にあるのが望ましい。仕事場に目を配ってみるといい。
同じ上役でも、簡単に騙されるようなバカな上司、絶対にウソは通じないと思える利口な上司。簡単にウソをつかれるような親が子どもにどうみられているかは、これと一緒。本当を言えば叱られるしうざいだけ、そんなことが分かって果たして本当をいうだろうか?こういう場合のウソとは、本当を受け入れるキャパシティーの無い親、口うるさい親に対する防御である。
ナイーブでシャイな幼児時代の長女にはピアノで自信をつけさせたいと思った。子どもというのは自分で現状を変えられない。だから親がキチンと見て変えるためにアレコレ考えるべきだ。たとえば、人見知りが激しくて、口下手な子どもは、「自分は口下手でいいんだ」と思ってしまう。そうしかできないことを正当化し、ますます殻に閉じこもる。そうなる前に施す必要がある。
そんな長女をある日、妹と供に公園に連れて行った。公園で遊ぶ子どもたちに「"一緒にあそぼう"って声をかけてみなさい。きっと喜んでくれるから…。ウソじゃないよ、みんな声をかけてくれるの待ってるんだ。お前だって、声をかけられたら嬉しいだろう?父さんはここでじっと見てるから…」と諭して押し出す。妹もいたこともあってか姉は、勇気も出たのだろう声をかけた。
「ねぇ、いっしょにあそぼう」の声はぎこちないものだったが、頑張る長女が愛おしかった。「うん、いいよ。あそぼう!」と返す女の子の声の方が、はつらつであった。本人は覚えてないだろうが、父はこの時のことはい今なおハッキリと脳裏にある。決して命令したのではない。一生懸命諭した。昔、コンドームを買いに行けない彼女に、同じように諭したことがあった。
別に自分が買えばいいのだが、「できない」、「いえない」という事が自分にはオカシイことだった。相手を意識しすぎるあまりに、自分が行為できない事は往々にしてある。自意識過剰というのだ。「お前が薬局の店員だったとして、コンドーム下さいと買いにくる客を卑下した目でみるのか?おそらく店員は、気を配って何事もないような素振りで対処するだろう。お前だってそうしないか?」
そんなことを言われたからって、すぐにできるものではない。だから懇切丁寧に説得した。自分の中にある羞恥の理由が、いかに独善的で無用なものかを分からせることが大事である。今の時代でも女性の生理用品は、透明のポリ袋には入れず、中の見えない茶色の紙袋を用意する。別に見えたって何ともない女性もいるだろうが、だれかれの区別なくそのようにするのが、配慮である。
自分は彼女の指定するナプキンを買ってきたことがある。ちゃんと銘柄を聞いて指定のものを買ってきた。お腹が痛くて動けないと言う彼女のためにという口実だが、それはウソ。自分は、堂々とスーパーでそれを買い、レジの反応を見たかったのが本当の理由。何がいけない?何がおかしい?まさかこの人は生理がある?なわけないだろう。店員がどう思おうと、彼女のために買うのがおかしいのか?
そういう強い気持ちが土台にあれば、人が何を思おうと知ったことではない。最も自分が女性店員であったな、そうしか思わないし、そう思うのがプロの店員だ。「いや~、オレはとてもじゃないが買いに行けないな」、「お前は優しいね」と、好き勝手なことを言う。優しいわけでも、誉めてもらうほどのことでもないよ。売ってるものを買うことに、ためらう理由はない。それだけのことだ。
「君は女性の下着を買えるか?」という設問があった。買えないという男、買えるよという男。どちらにもそれなりの理由があるが、買えない理由というのは自意識過剰。その言葉を捧げている。「男のモラル」、「男のメンツ」とまで言う奴がいたが、そんな程度のことで「男のメンツ」などいう方が情けない。ま、自分としては「行為」できないことは、その理由を客観的、多角的に思考し、行為に持っていく。
何でもないことを難しく考えることはない。自分の人見知りを正当化して、「あそぼう!」といえない子どもは、頭が柔らかいうちに親がサポートすれば解決つく。子どもにとって、顔から火が吹き出るような恥ずかしいことであれ、案ずるよりは産むが易し。できないことをできてこそ、人の自信となる。近年は母親主導の過保護にまみれた子どもが多いが、過保護のメリットがどこにあるのか?
子どもを母親から取り返せという父親の啓発本があるが、それだけ熱心なお父さんもいないかもしれない。やれゴルフだの、飲みだの付き合いだのと、子育ての面白さを知らない父親の多き事。こんな可能性のある面白いことを母親になどやらせられないと、奪った自分のセリフである。「子育ては男のロマン」という言葉も当時は吐いていた。が、その言葉に聞き入った友人はいなかったろう。
エンコーをするような少女、社会形態に馴染めないような子をどう修整するかは難しい。急に直るとも思えない。不良品になりつつある、そんな少年少女のための少年院、感化院のような更生施設もあるが、更生と言うのは目に見えないゆえに難しい。多くの少年たちが更生を経ないで社会に出てくることもある。梅川もそう、少年Aもそうであろう。問題は不良にしないことだ。
あえて難しい、修整や再生や意識改革をするよりも、そうならないように気を配るしかない。どんな親も子どもを罪人にするようには育てない。そんなのは当たり前だし、罪人は普通に育てた(と思う)中から生まれる。だから怖いのである。危機意識を常に持ち、今、発する親の言葉が子どもにどういう影響を与えただろうかと省察を欠かさない。そのように子どもと向き合うしかないだろう。
自分が子どもだったとき、母親から発せられた何気ない言葉は、子どもに取っては無慈悲であった。そういう暴言をこともなげに平然と繰り返す親に苦しんだのはいうまでもない。どうしてこんなに親に苦しめられるのか、子どものいたいけな心は浮遊する。それを黙してじっと支えてくれた父の存在。自分をキチンと見てくれる人がいるんだという拠り所である。それでこそ子どもは生きていける。
無言の中にある「信頼」を掴み取っていた。ぎゃーぎゃー喚く母親の父親というのは、その一言が敵意になる。妻を怒らせ、敵視させてもいいことにはならない。そういう父の立場、態度が今はよくわかる。何で助けてくれないかと当時は何度も思った。母の狂人ともいうべくヒステリー性格を見越した方策であった。が、本当に苦悩してるときは手を差し伸べてくれた。生きていれば年明け早々百歳だ。