JKビジネスといわれる日本特有の商売には、「JKリフレ」、「JK見学店」、「JK撮影会」、「JKお散歩」などがある。「JKリフレ」とは、女子高生の制服を着た店員が『リフレクソロジー』という簡易マッサージをするが、マッサージの際の密着感が売りで、個室で2人きりで会話を楽しめるため、マッサージだけでなく、膝枕、耳かき、添い寝なども別料金でサービスに含まれている。
いうまでもない、個室内であるゆえに客である男性が、性行為その他の要求も当然にしてある。これらは従業員である少女らも他のアルバイトと比較して、手軽に大金が稼げ、本来必要なあん摩マッサージ指圧師の国家資格も不要な脱法風俗店となっている。児童買春やストーカー犯罪の温床になっていながらも、風俗店や飲食店でなく営業許可や届出は不要である。
「JK見学店」、「JK見学クラブ」は、Tバッグを履けば3000円、マジックミラーの前でM字開脚、パンチら姿勢など、顧客の要求にオプションで応えるようになっているなど、過度な業務内容から摘発もされた。こういった日本式の多様な風俗形態を、「最終的に重大な被害を及ぼす行為がある」とブキッキオ氏は懸念、行為を犯した少女に処罰がないということに警鐘を鳴らしている。
他国から言われれば文句もいいたくはなろうが、自国で誰が問題視するものがいる?メディアやマスコミは面白可笑しく番組でとりあげるなどの日本社会の寛容性を、他国の女性が見れば呆れるであろう。外務省からの抗議に対し、正確なデータがない発言ということもあって、ブキッキオ氏は撤回の書簡を政府宛に出したようで、菅官房長官はこのように述べている。
「13%という数値を裏づけるデータはなく、誤解を招くものだったとの説明があり、今後、この数値を使用するつもりはないし、事実上発言を撤回とみている」。名指しを受けた女子高生にとっては汚名が晴れたことになるが、これが.そもそも誤解だとしても13%か否かはともかく、一分の女子高生にとっては「都合の良い」誤解になっている。政治家や官僚は社会風俗に疎い。
事実、中高生の娘を持つ親が、我が子が外でおっさんとセックスしてるなど、夢にも思わないだろうが、注意してみると子どもに変化はある。それに気づくかどうか、気づいたらどうすべきかがクレバーな親である。娘が到底買えないようなブランド品を持ち、財布に数万円のお金を持ち、派手な下着を身につけるようになったなどは大いなる変化であり、ここに気づくは母親である。
気づいたところで小心者の親は、自分の都合のいいように考える。あるいは子ども怖さに見て見ぬふりを決め込む。大体、高価なアクセサリーやブランド物を所持して、何も問えない親は普通でない。「あの子はわたしを信頼してくれてるのだから、わたしも信頼してあげよう。必ず娘の方から何かをいってくれるはず…。その時まで待っていよう」などというお母さんはいる。
「信頼」という言葉を都合よく解釈してできない、やりずらい、したくない行動を回避している。自分に嘘をつき、「信頼」を方便として使っていることに、気づいているのか?本当の信頼とは、自分が疑問に思った事を自然に素直に聞けて、それに対して相手が誠実に応えてくれる確信である。こういう本当の信頼関係のない擬似親子が、同じ屋根の下で家族ゲームをしている。
友人や他人に何かを聞いて、心にある事を率直に答えてくれる人間が信頼の持てる相手となる。何かを聞いてもホンネをいわない、ウソでごまかす、綺麗ごとを言う人間は、信頼がもてないし、これまで自分は前者のような人間関係を求めてきた。信頼するしないは、相手が決めることだから、こちらから信頼を得たいなどと意識するよりも、嘘はつかないを心掛ける。
代わりに遠慮なく物を言う。信頼関係とは耳に心地いい言葉の掛け合いではない。もちろん忠告を許容できない人もいる。そういう相手とは信頼関係は樹立しないが、それはそれで仕方がないこと。信頼を得たいがために何かをするのでも、何もいわないのでもなく、何が信頼に値するかを分かった上での行動である。それで信頼関係が芽生えないキャパの相手なら諦める。
信頼は相手が感じることで、自分はブレない。信頼を得ようと意識すると作為的になる。作為というのは、恋愛などにポジティブに働くことはあるが、真の信頼関係を構築したい場合にあって作為はネガティブとなる。「策士、策に溺れる」という言葉は、策もほどほどにせよと戒めている。「こういえば好感をもたれる」ということはたくさんあるし、それくらいは誰でも知っている。
恋愛には大事である。なぜなら、恋愛とはホンネよりも美辞麗句の世界。一を十に言って相手をいい気持ちにさせる世界。へしゃげた鼻の持ち主に、「君のへしゃげた鼻は何て素敵だ」とはいわない。事実を提示して誉めているようだが、自分が気にしていることを他人に誉められて嬉しくはない。へしゃげた鼻のことは永遠にとまでは言わないが、口に出さないほうがいい。
へしゃげた鼻を好きといって、理解されるまでは時間がいる。それが「あばたもエクボ」であり、相手の欠点を好きになれる人間関係になったということだろう。二人の関係が何年か継続したある日、「実は、君の貧乳が最初から好きだったんだ」といわれると女は喜ぶ。それは何年か続いた暁ゆえに価値を持つ言葉。「ウソじゃない」、「お世辞なんかじゃない」という喜びである。
いきなり、「その貧乳は素敵だよ」などいう男はデリカシーの無さ以前に、事実を誉めれば喜ぶと思っているバカ。デブ女性に、「太っている女性は好きデス」などいうべきでない。「あなたが好き」といえばよい。「太っている女性は好き?」と聞かれて、「好き」ではお世辞に聞こえるが、「気にならない」という方がさりげない。ちょっとした言葉でも、相手の受け取る印象は大きく変わる。
こういう事は経験で身につける。娘をもった母親は、父親以上に娘の変化に気づくはずだ。今まではワリと早く帰宅していた娘が、遅くなり出せば明らかに原因があり、何かの兆候であるが、その何かが分らない。母親自身の経験からおそらく男にちがいないと感じていても、自分たちの青春期におじさんと出会って付き合うなど、考えもしなかったことが現実に起こる時代だ。
「最近、帰りが遅いけどどうしたの?」と聞くのは無能。そんなことを聞いて、「友だちの家でお喋りしていたの」などとウソをつくに決まっている。今までと比べてどう変化したかという、時系列で見た子どもの変化は分かりやすい。外国の親が、デートに出かける10代の娘に、「ちゃんと避妊はするのよ」と言ったりするが、子どもを子どもとしか見ない日本の親は、そうは言えない。
娘の体と心を守ろうとする親と、娘を無知なコドモと見くびってる親の違いであろう。どちらがクレバーであるかは言うまでもないが、人前でためらうことなくチューをするような、あけすけな文化と閉鎖的な文化の違いもある。対等に話し合える、話を聞いてくれるから親に話すが、威圧的に押さえ込んだり、うるさく小言をいう親に、何かを話そう、相談しようという気になどならない。
今の親たちは、自分の青春期をよ~く思い出してみるといい。果たしてどういう親であって欲しかったか?どういう親であったならもっとも身近な頼れる存在として、何でも相談できたか?おそらく思当たるだろう。だったら、そういう親になるべきではないのか?本当に子どもと心を通わせて、打ち解けて、力になったり、頼られたりしたいなら、どういう親であるべきかのイメージを探ればよい。
もし、何らかの事由で子どものウソを見抜いたなら、絶対に叱ってはダメだ。なぜなら、子どもがウソをつく大きな理由は親の側にあるからだ。自分に原因があるにも関わらず、怒ったり喚いたりすれば、子どもの心は益々離れていく。ウソを見抜くのは大事だけれども、それは子どもを叱るためではなく、今の状態を改善するためというのを忘れぬよう。そべては真実を知ってこその対処である。
子どものウソは大人になるためと考え、あまり問い詰めたりしないことだ。真に親が子どもに寛容であれば、子どもはウソをつく必要もなくなる。また、自分が子どもだったら、どういう親を信頼するかを考えてアイデアを模索すべし。「親を裏切った」という言葉をいう奴は何人かいた。自分は「親を裏切る」のが何か、分かっていない。そういうものは一切なかった。
子どものときにもなかったし、親になったときも「子どもに裏切られた」など一切ない。「親を裏切る」のがどういう事かを知るために、「親を裏切らない」がどういうものかを考えてみる。「裏切る」=「信頼関係」というなら、母親に信頼などまるで無かったし、だから「裏切る」などもあり得ない。では、親になった時に子どもと自分に「信頼関係」があると思ったか?答えは「No!」だ。
子どもが自分を信頼しているなど考えたこともなく、自分が子どもを信頼していたなども思ったこともない。信頼よりも親としての当然ともいう「愛」の発露である。大事にするだけが愛ではなく、厳しくするのも愛である。信頼関係があるとかないとか、寝言のようなことはどうでもよく、親は子に愛があればいい。愛はエゴの対極、求めるものではなく、一方的に供与するもの。
よって、子どもから何かを求め、望むなどは一切無い。親孝行を求め、信頼を望むこともない。自分的には親が子どもに何かを求めるなど辞書にない。子どもは親より自分を優先し、自分を大事にすればよい。そういう考えのどこが間違っているのか?自由に生きさせるために子どもを持ったし、がんじがらめに縛って親の都合を子どもにお願いするなどあり得ない。
子どもに何でもズバズバいうのは、親の威厳をむき出しにするではなく、信頼関係を確信するからでなく、そうすることが信頼関係を生む要素だと分かっている上での行動だ。有るとか無いとかに関係なく、互いが遠慮し合って何の信頼関係など生まれよう。上に書いたように、娘に遠慮し、信頼しているから裏切らないだろうなどは、勝手な言い草である。