Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

雨ニモマケズ

$
0
0

イメージ 1

今日は朝からの雨…。今日といっても実は昨日のこと。この記事は昨日書いたものだと、本日そのように書いているところがややこしい。つまり、14日分を13日に書いたわけで、そういう場合にはあくまで14日を念頭において書くべきなのか、それとも13日の気分で書くべきなのか?そういえば、生きているうちに死んだ後の遺言を書くその場合は、死んだ気分で後のことを書くのだろう。

生きながらに死んだ気分で書くと言うのも妙な気分であろうが、それが遺言である。死んだ後に書けるわけがない。ところが、実際に遺言を目にした遺族は、それが生前に書かれたものだという事を知っているわけだ。となるといろんな気分が過ぎるであろう。例えば子どもたちならば、「父は生前、こんな風に考えていたのか…」と、自分にとって善い内容であってもなくとも、不思議な気持ちではないか?

生きてる間に死んだ後のことを考えるが、何日後、何ヵ月後、何年後に死ぬかも分かってもいない状況では、現在の気持ちを書くしかない。ところが、一度遺言を書いたとしても、その後にいろいろあったりと、それに対する気持ちの変化も当然にしてある。遺言には、「自筆証書遺言」、「公正証書遺言」、「秘密証書遺言」がある。「自筆証書遺言」はいつでも好きなときに書き直しが可能。

が、「公正証書遺言」を書き直すときは、遺言書の写しが公証役場に保管されているため、手元にある古い遺言書を破棄しても意味がない。改めて正式な遺言書の作成が必要になる。「秘密証書遺言」は難易度的には最も難しく、万が一、遺言の法定要件を満たしていなかった場合は、無効な遺言となることもあり、利用者は少ない。費用を掛けるぐらいなら、公正証書遺言にした方がよい。

イメージ 2

ま、資産も財産もない自分は遺言など考えたこともない。よって遺言のことはどうでもよく、問題は明日出す記事を今日書いた場合は、どちらの日を主体に書くかである。そんなことは問題なのか?と言われると、答がないだけに書き手の選択であろう。陽水はこんなことを言っていた。都会では自殺する若者が増えているが、そんなことよりも自分にとって問題なのは、今日の雨なのだと…

雨がどうして問題なのか?その理由が傘がないのだと。う~む、分からなくもない。傘がなければコンビニで買えよ、100均で買えよと、そういうご時世でもない。実家なら玄関か物置に傘の一本くらいは出て来ようが、アパートで一人暮らしであって、朝からのザーザー降りに傘がないのは確かに困る。今なら300円程度のビニーる傘だが、あの時代は傘の値段もバカにならなかった。

傘のなさに苦慮する陽水…。武田鉄矢が言うに、「陽水ってがたい(図体)あるわりに、歌(歌詞)が細かいんだよ」と吠えていた。井上陽水、武田鉄矢、財津和夫らの博多勢の丁々発止の話はオモシロイ。そういえば『傘がない』を始めて聴いたとき、吉田拓郎とはまるで違うセンチメンタリズムと、あまりの生活臭がにおう歌詞に驚いた。拓郎のドヤ声に比して、美しいハイトーンも魅力だった。


今の日本の若者が、どこで死のうがどんな問題をおこそうが、今の自分には傘がない事が問題なのだと。あれを不思議な歌詞という奴は多かったが、確かにその時はありふれた歌ではなかった。また陽水には、『東へ西へ』という楽曲もあり、『傘がない』で雨に負けているところなどから、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に触発されたのではと、今でも思うし、当時も同じように思っていた。

 雨にも負けず
 風にも負けず
 雪にも夏の暑さにも負けぬ
 丈夫なからだをもち
 慾はなく
 決して怒らず
  いつも静かに笑っている

 (中略)

 東に病気の子供あれば
 行って看病してやり
 西に疲れた母あれば
 行ってその稲の束を負い

この辺りがどうも宮沢賢治の影響かも知れない。確かに今日の雨は屋外活動を阻むし、ウォーキングを阻まれてしまった。賢治のいう雨にも負けずはどういう事をいっているのだろうか?雨が降って歩くのを止めたそのことを雨に負けたなどと思ってはない。傘を差したり、合羽を着てまで歩く必要がないと感じているだけであって、そうまでしてウォーキングを強いる気など毛頭ない。

しばしば書くが、何かを自分に強いるのが大嫌いである。ブログにしろ、ウォーキングにしろ、行為の原点は、「問いと応答」。今日もブログを書かねば…、これを強いるという。そうではなく、「問いと応答」というのは、今日はどういう物が書かれるのか?一体自分が何を書くのだろうか?そういう問いが行為の原点にある。コップに注いだビールの泡のようなもの。

イメージ 6

書く行為に面白さはない。何が書かれるのかという期待の面白さである。自身の可能性の発見と言う面白さである。ブログを書く前、頭は白紙である。何を書こうかは書きながら決めるし、最初の一行を書いたときから世界が広がっていく。ウォーキングも同じこと。歩くことは何も面白くはない。今日はどこまで歩くのだろうか、そんな可能性の面白さである。何事も己の可能性を追求することの面白さ。

歩いてみて思うのは、クルマなら渋滞もある、信号待ちもあって、これは一種のストレスになるが、歩いて渋滞はない、信号はあっても無視も多く、ないに等しい。渋滞の車列を横目にすいすい歩きながら、「徒歩の方が速いじゃないか、ロスもない」など思いながら…。たまにクルマに乗ると渋滞や信号にイラつくこともある。信号待ちのクルマは車列の一番前には出れないが、徒歩だと常に一番前。

一番であることに爽快感。などなど、思いながら歩くから、歩きがポジティブになる。昔の人は道路の渋滞と言うものを知らなかったろうな、そこだけ見ても現代はストレス社会。文明はストレスをも生んでいる。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は、雨や雪や寒さ暑さに負けない体とした一切は比喩で、この詩の奥にあるものは、謙虚で自己犠牲の精神を持った人に憧れた、賢治の理想像を綴ったものである。

遺稿というでもない死後に発見されたもので、人に読まれること を想定せず、晩年の病床で自身に向けて書かれたメモである。詩のモデルとされるのが斉藤宗次郎で、彼は1887年岩手県花巻に禅宗寺の三男として生まれた。無教会主義キリスト教徒である内村鑑三の最も忠実な弟子の一人。内村は有島武郎など多くの弟子に裏切られたが、斉藤は内村の死の際には隣室に泊り込んで日夜看病した。

イメージ 3

何かにつけて「できない」という人間はいる。「できない=したくない」にしか聞こえない。「したくない」は、「やりたくない」であろう。まあ、できると思うにせよ、できないと思うにせよ、その通りになるのは間違いない。ならば前者でありたい。「やる気があるときなら誰でもできる。本当の成功者は、やる気がないときでもやる。」といった者がいたが、「やる気がないとき」には工夫がいる。

自己啓発にもいろいろあるが、自分の場合は自己卑下。「お前はダメな奴だな」、「そんな程度のグ~たれるのか?」、「どんだけ苦労した人がいると思ってるんだ」、「戦争にでも行って来いよ」などなど、いろんな言葉で自分を罵倒した。それがクセになると何かするのに、面倒くさい、やる気がおきない、かったるい、など思わなくなる。何かをする際、楽しむ何かを必然的に見つけるようになる。

よって、次の3つの禁句ができあがった。①忙しい…無能。②めんどう…横着。③疲れた…弱音。当初、これだけは絶対に言わないとの自己啓発だったが、慣れてしまうと意識しなくても排除する。人間は何事にも刃向かえるが、自分に刃向かう時は都合のいい理屈をつける。○○すべきなのに、今日は疲れてる、忙しいだの、めんどうだの、そんな言葉を自分は認めない。

だから、人にも認めないが人の自由をアレコレ強要しない。「やる」にせよ、「やらない」にせよ、そのとおりになる。自分はこういう意識なのに、なんてグーたらな奴だなど思わない。その人はその人を生きているわけだし、自分がどれだけやれるかにしか興味がない。若い頃は人に目を向け、サボる奴に腹が立ったり、文句を言ったが、あれも傲慢であった。

イメージ 4

子どもに対しても一貫してそうであった。「やるにせよ、やらないにせよ、人はそのようになる」。ならば、無理やりやらせれば、やったことになるのか?そうかも知れないが、それは自分が好まない。自分が好きでないことを子どもにやらせる親も傲慢であろう。何だかんだと理由をつけるところなどは笑えてしまう。自分は本当に自由主義者だと常々思ったりする。

真の自由とは自も、他人をも自由にすることである。自分には甘く他人に厳しいのは醜いエゴだが、多くの人はそれに気づかない。自分に厳しく他人に甘いのはどうか?水平の関係ならばそれでいいが、管理者という職責にあるなら、己の個性の没却は必然である。親ならどうか?子どもの普遍的な自由は認めつつ、人間として普遍的な律する心は育てなければならない。

それが社会的動物の義務であり、責任である。したがって、強要や強制よりも、自己責任感を強めていくように仕向ける。何事もとどのつまりは、自己責任でしかないのが分かっている。面倒くさい、かったるい、忙しい、こんな言葉は自分が発するものだ。仮に、「そんなことは言うべきでない」と言ったところで、「言うなというから言わない」ではなんの意味もない。

イメージ 5大事なことは、自らそうなる事だ。そういう風に他人の目を気にしながら生きていくようなことを、自由主義者は強要したりしない。したくないならしなければいいだけのこと。自分を他人も自由にするのは、オモシロイ、楽しい生き方である。「人は人」という言い方には二種類ある。捨て鉢な言い方と、相手を尊重する言い方。捨て鉢な言い方はいかにも幼稚で、しばしば耳にする。

幼稚であるだけに人間的な狭量をみる。「人は人」と言いながら、実は言いたい文句を押さえていたりと、明らかに我慢をし、妥協的である。こういう人の「人は人」は、「だったら自分も勝手にする」と後の言葉が見えてくる。子どもの言い草であろう。「人は人にて善し」であるべきだ。自分にとって不都合であり、利するものでなくとも、「人は人」である。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>