あるものを「ない」、したこと(行為の事実)を「ない」と親に嘘をつく子どもは多いが、ないものを「ある」、していないことを「した」と、嘘をつく子どももいるが、善悪はいえない。「子どもがウソばかりつくので困ります」という親がいる。どんな風に困っているのか?「なんとなく子どもに裏切られた気がする」。そういう親は、子どもは親を裏切らないと信じるメデタイ親。
「親を裏切った」と自戒した子どもはいよう。自分にいわせるなら、そのように子どもに思わせる親は子どもを萎縮させる。親にいえない秘密の100や200は持って子どもはオトナになると鷹揚に構えられない。だから、真面目な親ほど深刻になるし、遊んだ人間が親になるほど、自分の子であれ誰であれ、人は自分の善悪・価値観で生きていくものとの自己肯定的キャパをみせる。
規律がどうの、道徳がどうの、「○○ちゃんのようになりなさい」だの、自己イメージの高い糞マジメな親に育てられた子は憐れ。「ウソは泥棒のはじまり」を信じている親は、子どものウソを許さず、叱りつける。が、考えて見れば、どんな子どももウソをついてオトナになって行くのだから、ウソは本音の裏返しであり、ウソは何かのシグナルであると感じとる親が感受性の高い親である。
感受性の高い親は、自分の押し付けよりも子どもの心に問う。子どもがウソを言葉にし、それを叱りつける親なら、だんだん言葉に出さなくなる。酒鬼薔薇聖斗がいい例。嘘はつかないが、やってることの非道さが親に分かった時に驚くしかない。ウソをついた子どもを叱り付けて押さえ込むのがいい親などあり得ない。親は子どものウソからシグナルを読み取り、適切な対応をすべきである。
そのためにはウソをついた子どもを叱らないことだ。それができない親は、ギャーギャー、口から泡をとばすようにウソついた子どもを叱り飛ばす。親としての能力の無さであるが、それだけ人の心を読むのは難しく、だから「能力」といっていい。自身の能力を常に疑い、向上させるよう努めない親を持った子どもは憐れ。よい親の定義や基準はないが、たくさんの中から「これが良い」と決めたらよい。
大事なのはたくさんの中からである。結果は何十年先に現れ、そこで後悔するのも親の宿命。後悔しない親はいないが、ある程度のものを満たしていれば、これで良しとなる。完璧はあり得ない、すべては妥協の産物だ。縛りのキツイ母親を持った自分の自由とは、とにかく母親の顔を見ないでいれることであり、精神的の解放を強く望んでいた。それほどに子どもにとって親の存在というのは大きい。
親の自己顕示欲や支配意識に染まらぬよう必死で反抗してみても、精神をまぜくられたいたいけな心は傷つく。死ぬか家出して自活するのが真の自由に思えたが、小・中学生が家出して生きていくあてなどあるはずもない。だから子ども時代の夢はとにかく母親から自由になることだった。「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるが、これだけ虐げられたら、飼い犬でも小屋から逃げ出すであろう。
後年、友人のデザイナーに感謝の言葉をもらったが、人は自然に人恩を抱き、感謝する。事実、溺れている自分を救ってくれたAにどれだけ感謝の意を伝えたかったか…。ところが、Aはまるで覚えてない。助けてもないのに、助けてもらった、何かを教えたわけでもないのに、諭されたという人と人の関係は不思議だし、人と人が影響し合っていることの不思議さ。「夢に邁進できたと思う」と彼は言った。
諭した気などないが、あっちが勝手に感謝しているのも不思議である。仕事に邁進して大成を願うにしろ、趣味が嵩じてアーチストを目指すにしろ、何かを犠牲にし、さらには捨ててでも努力をしなければならない。それで夢が叶う保障はないが、逆にいえば、何かを犠牲にしないで夢を見ることの無意味さよ。痩せたいなら食を犠牲にし、時間を犠牲にして運動も必要。何もしないで叶うはずがない。
どんな時代のどんな人、どんな場合にも共通する普遍的な図式である。自分の夢は「自由になること」といったが、それ以外に夢を持ったことも、持ちたいと思ったこともない。理由は、何かを犠牲にするのが嫌だったからでもある。そもそも「犠牲」という言葉に拒否反応がある。何かを叶えるために何かを犠牲にするなら、その何かは叶わなくてもいいとの脱・未来志向の現実思考であった。
それを根性なしといえるかどうか。根性がなくても自然に殉じて生きてはいける。したがって人生の目的だのと、生きることに意味づけをするのも好きではない。目標を持たずして人間か?というなら、「死ぬまでいきるのが目的」と返す言葉がある。それが嵩じて、「死ぬまで生きよう」である。20代にして病に斃れる人もいるが、余命を切られるのが天命なら、それとて死ぬまで生きたらよい」
自殺肯定者ではないが、自殺者なりの理由があるのだろう。ビルから宙に羽ばたくその時まで生きたらよい。国家に命を取られる時世ではない。それだけでも我々は幸せである。いじめる相手は命まで取ろうというのではないが、昨今もいじめ自殺は絶えない。いじめられても死なない人間もいる以上、耐える心が希薄のようだ。耐える心が希薄なのは、おそらく家庭環境のせいであろうか?
過保護が人間を弱くするのは自明の理。雨風に晒されてこそ精神は強くなる。まさかこの子が自殺をすると思わないから過保護にし、甘やかせるのだろうが、日本人の脆弱性は今回の安保法案論争に見て取れる。何かあれば、やれ戦争だとアカが騒ぐ。アカにはインテリが多く、インテリは観念論がお好きな人種。『ユダヤ人と日本人』の著者と言われる山本七平がこんなことをいっていた。
「日本は平和国家って言うでしょう。平和国家ってのは、夢中で戦争を研究する国家なんですよ。健康であろうと思ったら病気を研究するのと同じ。ところが、戦争論、日本にはゼロ。こんなおかしな国って、外国から見れば正気じゃない。『戦争論』なんかやると戦争になるなんて言ってね。だから、日本人にとって戦争は、『怖いから見ない』という子どものお化けみたいなもので、むこう向いている。」
日本国憲法第九条なる呪縛をかけられて68年、やっとこ麻酔から醒めようとしたが、世間知らずの学者どもは大騒ぎ。自衛隊海外派兵のさいも、大学教授の多数派は強い拒絶をした。憲法9条によると、ソマリア沖に展開される自衛艦隊は、すぐ傍にいる同盟他国籍船が攻撃されても、黙ってじっと見ているか、こちらも危ないからとスタコラサッサ逃げなければならない。日本は自国民だけ守ればいいという国家。だから安保法案が必要であったが、あれもないままに、アメリカの核だけを頼りにした防衛体制では、何十年か後には間違いなく中国の属国になる。「平和を願えば必ず平和が来る」などという、幼児的発想のお国である。ミニマム・ディテランス(必要最小限の自主的核抑止力)なくして、ロシアや中国に玩具のように弄ばれるのは明らか。
お人好しの日本人は、アメリカにだって弄ばれる。よって、ミニマム・ディテランスとは、日米同盟は維持しつつも、米国に対する依存度を低減し、同盟関係の多角化が理想だが、そこまで行くにはさらに数十年かかる。国内にあるヒステリックな反対論も大きな障害となるからだ。9条の呪縛か、戦争感覚のない国が1億人の民を擁して、枕を高くして寝てる国家なのだから…
いじめ自殺から話が飛躍したが、いじめをなくする方法として自分は、「ちくり」の奨励を提言した。そのためには「ちくり=悪」を「ちくり=善」にという意識改革を初等教育段階から、国家的に啓蒙していく必要がある。内部告発法(公益通報者保護法)が公布されたのが2004年6月18日、施行は2年後の2006年4月1日だった。もちろん、組織の不正行為を摘発するのが主軸である。
いじめを告発する公益性を、小学生の段階から子どもたちに訴えていくこと。いじめはいじめる側の憂さ晴らし、ストレス解消という私益性の高いものだが、告発は立派に公益性があるという論理を組み込んで、子どもたちを洗脳する。洗脳という言葉が悪いなら教育でいい。多くの子どもたちの自殺という事からして、いじめを防止することは、その子の家族も含めた公益性がある。
日本人の陰湿好きは今に始まったことではない。外国人のように面と向かって批判をするでなく、内にこもる。そのような異端を認めない付和雷同性や、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」なっどと揶揄される集団主義的国民性や、「村八分」に見られる排除思想文化は、簡単には解決できないが、理想は高く掲げていい。昨今の家庭が脆弱な子どもを作るなら、国家は大ナタを奮うしかない。
確かに難しい問題だ。内部告発者に対する制裁・報復行為を大人がするのだから、「ちくり」の仕返しを子どもがしたところで不思議でない。まさに、「子どもは親を写す鏡」とは言ったものだ。動物は言葉を持たないから、親のやる事を真似て狩りなどを覚える。昔から、「子どもは親の言う通りにはしないが、親のやる通りにする」といわれた。それは人間が言葉の動物だからであろう。
言葉があるから子どもは親の言う事をきく。あるいは、親の言う事をきかない。どちらも正しい。親の言う事をはいはい聞くだけの子どもは、必ず自我形成後にその反動がある。今の子どもはさらに視野を広げて、「小供は大人を映す鏡」である。子どもが大人社会の縮図であるのは、内部告発者への転籍、人事に現れている。という事は…、大人を改めずして子どもはまともにならない。
「こどもは大人の真似をしてはいけませんよ」などの標語が空々しい。子どもと大人と、どっちが難しいのか。言わずもがな大人であろう。家庭における親の子どもに与える影響、学校における教師の生徒に与える影響、会社における上司の部下に与える影…。親は、教師は、社会は、心しているのだろうか?心し過ぎると窮屈で息が詰まる。クルマのハンドルのような遊びも必要だ。
難しいね。難しいよ。いじめは永遠になくならない。法律を作ったところで従わなきゃ無意味。人を殺したら化けて出てくると子どもながらに信じていた。民谷伊右衛門が妻の岩を殺し、たたられて発狂した『四谷怪談』。「いじめ自殺した子どもたちに告ぐ!」。いじめた奴の床に、夜毎現れて恨みをはらしてやれよ。