離婚の経験はないが、離婚に至る状況はよく分かる。周囲には離婚体験者がうじゃうじゃいるが、離婚は決してイイことではないが、よくないことでもない。離婚した方がいいケースもある。日本の法(民法)は、婚姻の成立に法律上の手続を要求する法律婚主義を採用している(同739条)。実質的要件として当事者の婚姻意思の合致及び婚姻障害事由の不存在が必要とされる。
また、形式的要件として戸籍法に基づく届出が必要とされる。この2つの要件が婚姻に必要だが、婚姻意思の合致という実質要件とは、親の決めた相手と強制的に結婚はできない。これは日本国憲法第24条1項にも規定されている。「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」。
婚姻が法で定められている以上、当然、離婚も法に従うことになる。つまり、法律に定める離婚原因にあたることが必要となる。これは裁判離婚においてであり、協議離婚の場合は夫婦で離婚を合意すればよく、離婚原因に何ら制限はない。いかに法といえど、嫌がる同士の婚姻継続を強いるのはバカげている。互いが合意し、離婚届を出せばその日から他人である。
この場合の他人とは、「肉親⇔他人」という意味の他人であり、「自分⇔他人」という事ではない。よく「子どもは他人」と言ったら、「そんなことはないでしょう?」などといわれたが、自分以外は誰であろうと他人である。自分が作ったお人形なら、どんな服を着せようと、髪型にしようと自由だが、同じ発想で自分が作った子どもを自由にするのは間違っている。
人間が作った機械(コンピュータ、ロボット)が、製作者の意思に反して造反をするという近未来映画が象徴する怖さというのは、ある意味で警鐘であろう。作製した機械が思うように動かなくなる、まったく動かなくなるのを通常は「故障」というが、映画『2001年宇宙の旅』、宇宙船をコントロールするコンピュータの不制御は、故障というものではなかった。
人間は遂に感情を持つまでの機械を作り出したが、果たして意思を持った機械が人間に造反するなど考えもしなかったということだが、それでこそ「意思」である。意思のない人間をロボットと例えたが、意思を持ったロボット(鉄腕アトムのような)は、人間と対等である。いや、それ以上の能力を発揮する尊敬に値するものである。ところが人間は機械を尊敬はしない。
「すごい、すごい」とその優秀性を賛美、称賛するが、決して尊敬はしない。対等なコミュニケーションはできるけれども、やはりロボットとして見下している。それがアトムの苦悩であった。どんなに人間に尽くしても、自分は機械であるという被差別意識に苦しむ。が、映画『2001年宇宙の旅』のコンピュータHAL9000の造反に、人間は苦しむことになる。
機械は人間のために働くように制御されているが、意思を持つというのは制御が利かなくなることだ。親が、子どもを制御できないのは当たり前で、だからといって「お前なんか生まれてこなければよかった」という親はバカである。「生まれてこなければよかった」と親に言われて苦しむ子どももいるが、自分はガキの頃からそんなことを言う親がバカに思えた。
苦悩から生み出された子どもではない。快感作業ともいえる行為が主体で生んだ子を、「作らなきゃよかった」など茶番もいいところではないか。子ども時分にそんなことが分かっていたわけではないが、純粋に子どもを育て、可愛がる動物をみても、「生まれてこなければよかった」という親の言葉はおかしいのである。「そんな言い方ってある?」くらいに思ったのだろう。
ハッキリ覚えてはないが、卑怯な言葉であった。親が子どもに「卑怯」をしていいものか?子どもだから通用するだのという「卑怯」を行使する親は、絶対に子どもに尊敬はされない。断じて子どもに「卑怯」はしてはならない。他人にしても非道な行為である「卑怯」を、肉親にすべきではない。権親は権威者として、子どもを従えさせるために卑怯なことをする。
これらは、自分が「卑怯」を嫌というほど経験した事で培われたものだ。卑怯なことをされたから自分もする、そんなことを平気でいう人間もいる。意地悪されたから自分もする。悪口言われるから自分も言う。こういう人間は、物事の善悪を理性で判断せず、感情に支配されているだけだ。イジメはよくない、悪口はよくない、だから自分はしないとなるべきだ。
だから、「自分も○○されたからする」。「人が○○するからする」。こういう人間が自分は嫌いであり、それでは言葉が足りないから「バカ」だと思っている。それくらい思うからしないでいれる。「人が○○するからする」って、なんと言う主体性のなさであろう。確かに主体性だけで人間は生きてはいけない。集団行動、協調というのは人と同じことを強いられる。
形式、様式も必要であるが、そういう物に囚われない思考を育んだ自分のような人間もいる。物事を根本から考えるから、「人が○○するからする」がオカシイとなる。自分の頭、自分の価値観で考えれば、妄信的に人の真似はオカシイだろう。「猿まね」とは、知能の低い猿が、知能の高い人間を真似ること。そういう真似は価値があるが、人間の人真似は横着が多い。
自分で考えて決めるのが面倒くさいからという。食事に行ったときにある奴がこんな風に言った。「何食べる?」と聞いたときに、「お前と同じでいいよ」。初めてこの言葉を聞いたときには驚いた。「何でだ?」と聞き返すと、「考えるのが面倒くさい」といった。自分でお金を払って、自分が食いたいものを、人に決めさせるなど、自分の頭にはなかった。
「面倒くさい」というのはこういうところにまで波及しているのか。これに関連して、最近ある事が目に入った。信じられないことだが、今の若者の3人に一人が、セックスに興味がないと言う記事だ。最も多い理由が、「面倒くさい」である。他にも「恥をかきたくない」、「2次元に嫁(恋人)がいる」、「生身の女は不潔で気持ち悪い」、「仕事で疲れてその気になれない」。
「疲れてその気に…」以外は理解不能だ。「セックスはただじゃない。恋人にはお金がかかる」というまことしやかな方便もある。方便といったのは、恋人にお金がかかるから持たないなど、動物生態学的にいっても方便としか理解できないからだ。なぜ、このようになったのか?パソコンとインターネットの影響ではないかと思えるフシは多分にある。
出会い系サイトは不倫の温床といわれるが、実はそうでもない。若い男女、それも中高生の出入りも自由である。ハードに規制をかける親もいるが、それも少数だし、規制をかけられた子どもに不満は増幅するのも事実。そういうは、防波堤の切れそうなところを探し、決壊したら一気になだれ込む泥水の如きである。今や「彼氏・彼女募集掲示板」には小学生が参入する。
実に簡単に異性が確保できる時代になったということだ。こういうところに出入りする男女は、間違いなく異性目当てであるから話の進展が早い。口下手でオタッキーな男でも女でも、顔の見えない文字会話ならそれほど苦労もない。などとイイこと尽くめの時代が異性やセックスに対する興味を失わせたのか?社会学的分析ではないが、異性に対する関心度は低くなっている。
昔も今も異性はあふれていたが、ガードも堅く、目の前にいる女が露骨に異性を求めているような仕草は見せなかった。男の言葉に少しづつ鎧を取っていくしかないのは、結婚まで処女でいるべきという、純潔教育のたまものであった。異性がいとも簡単に手に入れやすくなった時代にあっては、地域を越えた場所にでもスタコラ出かけて行くが、様々な被害も生まれる。
鹿児島から東京まで交通費をかけていけば、是非とも実入りを求めて女に食い下がる。静岡から熊本まで女子高生に会いに行った49歳のクソオヤジがいた。女子高生を殺して山林に埋めたが、あれはレイプをした口止めであろう。それ以外に殺す理由がない。この男は宿泊先のホテルで、50代の女性指圧師の手首をつかみ、自分の下半身を触らせ、強制猥褻罪で起訴されている。
50代のババァに対しても強引な男である。女子高生を強姦し、再起訴されないように殺したと推察する。その辺りの供述のないままに8月20日、拘置先の熊本刑務所内で、廊下側の鉄格子に下着を結びつけ、座るようにして首を吊って自殺をした。ネットの中高年は、女とやれるなら全国どこにでも出かけて行くが、若い男にそんなバイタリティはないのだろう。