Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

『TATTOO<刺青>あり』 ⑤

$
0
0
籠城の心理とはどういうものであろうか?「袋の鼠」という言葉が相応しいように思うが、人質を取り、人質を楯にしたところで、「袋の鼠」状態は変わらず、多少長びくだけなのは籠城者も分かっている。楯にしているということは、自分の命の危険性を察知しているわけで、狙撃の標的になっていることも頭にあるだろう。あのような残忍な手口で6人死傷なら、投降しても死刑は免れない。

いつまでこの状態が続くかの精算もなく、投降する気もなく、成り行き状態のなかで狙撃を怖れて行員を楯にの怯えた心理状態であろう。砦を作っているつもりでも、実際は「袋の鼠」状態で、人質だけが生きながらえる希望である。自分が優位な状況であるはずもなく、出来る限りの抵抗を続けるしかすべはない。眠るわけにも行かない、小便やクソもその場でやるしかない哀れな状態だ。

イメージ 1

イメージ 12

さまざまに気は使うだろうし、神経は磨り減っていく。前例をみても籠城の結末というのは、弱ったところを撃ち殺されるだけである。待機側は、相手が弱るのを待っているわけだし、どれだけ頑張っても10日も続けば精神的にまいってしまう。"先は見えたも同然"というのが、警察側の一致した見解であろう。ただし、人質の安全ならびに心労を、一日たりとも早く解き放ちたいということだ。

事件当時の最高責任者であった元大阪府警本部長吉田六郎氏は、後年このように回想する。「人質の数が多いのは相手の弱みで、全員を見張っていることで神経をすり減らすんですよ。過去の前例を見てもいいとこ2日(48時間)が限界でしょうね」。2015年1月、パリ東部ポルトドバンセンヌ 付近のユダヤ教食料品店他2カ所で、子どもを含む数人を人質に籠城・立てこもり事件があった。

仏特殊部隊は午後5時(日本時間10日午前1時)ごろ、 2カ所にほぼ同時に突入、ロイター通信は食料品店の人質少なくとも4人が死亡したと伝えた。世界を揺るがせた銃撃事件は発生から 3日目で終結した。日本は赤軍派のテロリストを世界に放って笑いものになった国である。テロリズムに長い間悩まされてきたヨーロッパ諸国は、テロリストを逮捕拘束などしないし、原則射殺する。

フランスにも死刑制度はないが、フランスに限らず死刑廃止制度を施政出来るのは、テロリストを捕らえずに現場で射殺出来るからで、 もし、テロリストを生きて捕らえたらそのテロリストを解放させる為のテロが起こることになる。人質の安全も大事だが、「人命は地球より重い」との福田首相の言葉は、島国国家の島国根性と揶揄されて当然である。グローバルな視点がまるでない。

イメージ 2

フランスで人質事件のあった同月20日、イスラム過激派組織「イスラム国」が、72時間以内に身代金が払われなければ拘束している日本人2人を殺害すると予告があった。安倍首相は国際社会と連携して人質救出に全力を挙げる考えを表明したが、手段を選ばぬ「イスラム国」に対して、各国の対応は一様ではない。菅官房長官は21日の会見で、人質の早期解放に向けた交渉について以下コメント。

「第三国の部族長、宗教団体の長、あらゆる可能性のなかで全力でとり組んでいる」と説明したが、「身代金は払わないのか」との質問には、「国際社会によるテロへのとり組みに貢献する立場は変わらない」との答えを繰り返す。「イスラム国」に誘拐・殺害された米国人ジャーナリストのジェームス・フォーリー氏。家族や彼を雇用したニュースサイトに対して、殺害前に100億円以上の身代金要求があった。

フォーリー氏の家族は、寄付を募って身代金にあてようとしたが、米政府から、「テロリストに資金提供した罪で訴追される恐れがある」と警告されたと明かし、米政府を批判した。米国は、身代金の支払い拒否を国際的な合意にしようと各国に同調を求める。「自国民を守り、敵への資金供給を断とうとするなら、すべての国々が、『身代金は払わない』という方針を適用しなければならない」。

コーエン財務次官(テロ・金融犯罪担当)は、このように述べている。イスラム国に拘束された日本人2人も「金」の補償か、「人員の交換」か、どちらかの取引材料がないかぎり解放はむずかしい。が、仮にイスラム国と裏取引をするにしろ、有効な情報・手立て・経路などもたない日本政府にできることといえば、アメリカの顔色をうかがいながら、「さあ、どうすんべか」程度のものしかない。

イメージ 3

上記した如く、日本政府は自国が生んだテロリストたちの要求に屈服した。それも正々堂々とやってのけたのだから、世界中から批判を浴びた。あのような無様な対応は二度とやってはならない。日本には暴力団がいるが、もし、ヨーロッパの国々がテロリストの要求を飲んだり、言いなりになったなら、世界規模の暴力団を作るようなもの。ゆえに、「テロリストと交渉はしない」を貫いている。

梅川の事件はあらゆる人質籠城事件に関連するし、それから派生させていろいろな思考をすることもできる。一人の男が猟銃を持って銀行に押し入っただけなら、それだけのことでしかない。梅川の心理、行員の思い、警察の対処など三者三様である。「あんなバカげた銀行強盗等しない」ではなく、いずれの立場に自分を置いて考えれば、いずれの擬似経験も可能となる。

小説の主人公になったつもりで疑似体験をすることも同じで、人間の経験などタカが知れている。多くの疑似体験から己の思考を作ることがいいのかも知れない。年月が経てば被害者たちも口を開く。本部長も当時のことを「元」という肩書きで話してくれる。事件が事件だけに消えることのない鮮明な記憶であろう。ただし、梅川だけが彼の記憶一切を消している。

現場に詰めていた新聞記者の回想はこうだ。「事件発生から約42時間後の28日午前8時40分ごろだった。現場から50メートルほど東に止めていた社有車の中で仮眠中に突然、支店内から乾いた銃声が響いた。ついに狙撃隊が突入と直感し、カメラを手に支店に向かって突進した。だが、支店の周りをジュラルミン盾を持って包囲していた機動隊員に阻止され、その場で立ち往生した。

イメージ 4

まもなく血まみれ担架に乗った梅川が、支店前に止まった救急車に搬送された。その約50分後、人質にされていた行員も全員無事に救出され、次々と病院へ向かった。恐怖と疲労感から足取りがおぼつかない。全員が頭から毛布にくるまれ、その表情を伺うことはできなかった。前代未聞の凶悪事件とあって、テレビ各局が異例の生中継で放送していたことに配慮したとみられる。

行員は搬送先の病院で特捜本部から個々に事情聴取を受けたため、取材陣は接触できなかった。午前11時すぎ、捜査本部の置かれた住吉署で強行突入を命じた府警本部長らが記者会見した。「梅川への発砲は8発…」などと狙撃に至るまでの経緯を説明したが、今も記憶に残るのが、取材陣の質問に対する最後の答えだ。「6人の狙撃隊が一斉に発射したが、だれの弾丸が梅川に命中したかは言えない」。

いずれにしろ、「(狙撃隊の)的確な行動があったから新たな犠牲者を出すことなく、人質全員の無事救出に成功したのだ。彼らは殺人犯ではない」と、ある捜査幹部が後日私に言ったことばだが、そんなの当たり前であろう。あのような犯人を射殺して殺人犯などと、日本人の誰かがいうなら、おそらく人権派弁護士、共産党、もしくは日教組の組合員であろう。ま、少数意見も意見ではある。

責任者吉田本部長の重い決断は突入であり、これが巧を奏したのは間違いない。被害者のショックを考えれば、救出された行員からの取材は控えるべきだが、28日午後になって銀行側が住吉署で会見に応じた。人質にされていた女性行員2人=いずれも当時(19)=と男子行員1人=同(40)=の計3人が、2昼夜にわたる恐怖の惨劇の生々しい証言に、多くの国民は大きな衝撃を受けた。

イメージ 5

「『金を素直に出さなかったのは、お前の責任や』と言って支店長は射殺されたのです。"処刑"は問答無用の仕打ちでした。5メートル足らずの至近距離からおなかに1発でした」

「最初の12時間ほどは半狂人のようでした。『オレはどうせ死刑になるから、1人殺すのも、5人、10人殺すのも同じや』とわめいたりして…」

「私は食事の面倒から電話番まで梅川のそばにつきっきりで世話をさせられ、梅川が撃たれた時もすぐ近くにいました。(中略)それだけに梅川が床に崩れ落ちるのを見た瞬間、『助かったわ』と思い、涙があふれてきました」

取材で現場に詰めていた記者は言う。「入社以来、兵庫、大阪両府県警で通算13年余りを事件記者として過ごし、数多くの凶悪事件を取材した。振り返ってみて、『梅川事件』ほどの残虐非道な事件はなかった。支店前に立ったとき、当時の記憶とともに事件解決後に府警本部で目にした数々の衝撃的な現場写真の画像も鮮明に蘇った。この事件で多くの人が心に深く大きな傷を負った。

殉職した警官や犠牲になった行員の遺族、人質にされ、人間の尊厳を踏みにじられた多くの行員らの今を思わざるを得なかった」。事件と言うのは絶え間ない。いつの時代にも事件は起き、人が死ぬ。すべての犯罪は人間が孤独でいられない事から起こる」という言葉が頭をもたがる。E・H・フロムも、「人間のもっとも根源にあるものは、孤独を避けたいという欲求である」という。

イメージ 6

自然の中にたたずむ自分であっても、山を上り、海を渡り、砂漠を一人歩いてみても、自然と自分とは何の関係もない。このような状況におかれた人間の不安と孤独、誰もが避けたいと思うのだろう。広大な砂漠をポツポツと歩きながら、「一体自分とは何なのだろう」と考え、悩むとしたら、耐えられないのではないか。「自己とは何?」、「如何に生きるべきか?」という疑問から逃れんとする。

そうした疑問を、なるべきなら振り払って生きようとする。無意識のうちに、そういった自己の追求を避けるであろう。が、決して孤独を望むことはない。荒涼たる砂漠にいる人間にとって、自分にとって無関係であっても、人が入ることを望むし、たとえ人と自分の心が本質的に結合していなくても、自分の他に誰かいてくれることを望むであろう。どんなに気疲れしても、仲間のいることを望むであろう。

人は一人で生まれず、生まれて幾日もすれば、自分の前の誰かの存在に気づく。空腹であったり、違和感であったり、不快感であったり、不安を解消し、安堵を求めたいときに、誰かを求めて泣き叫ぶ。人はそういうものである。そのように作られていく以上、一人で生きていくことはできない。心理学はわれわれにウンザリするほどの、欲求分類のリストを作ってくれている。

その中の一つに、人間の人格性の要求がある。そして、それは2つに分けられる。「集団に属したい」、「人から認められたい」であるが、この二つは決して別のものではない。二つとも、孤独になることを本質的に、あるいは表面的だけでも逃れたいという要求である。一切から分離され、拘束から自由になった人間が、孤独の不安から逃れるためにすることは、例え表面的にでも、他人に受け入れられること。

イメージ 7

うすうす気づいている無目的の人生であれ、あまりに厳しく追求をして絶望に陥るのを避け、うわっつらの人生を生きようとする。これらは誰もが行っていることだ。互いに無関心となり、愛が消えた夫婦が、それでも離婚しないで一つの屋根の下で暮らしている。人間に残された最後の不安解消は、集団と共にいることであり、世論に逆らわず、良識的であり、常識をわきまえていることである。

多数派なら安堵、少数派という不安。物心ついた時から少数派であった自分は、多数派がつまらなかった。人と同じである事がつまらなかった。人と同じことをする自分などいてもいなくても一緒と、目立ちたい一心の自己主張であった。自己顕示欲とも言う。「鶏口となるも牛後となるなかれ」、「十把一絡げ」、下品にいえば、「味噌も糞も一緒」などの諺が好きだった。

「自分が自分であるためには自分は人であってはダメだ」。これらも自分の意のままのロボットにしようと企てた母親からの反発からもたらされた。3人が灘高⇒東大を自慢する母親には批判的である。勝ち組といわれる子どもたちも被害者としか思わない。彼らが自分の意思であったというなら称えたいが、母親のロボットであったことを結果がどうあれ評価はない。

「子どもを○○にした」という親がいてもいいが、親の手柄とせず、内に伏せておく親も少なくない。我が子の自慢をしたいならすればいいが、子どもの手柄、頑張りを横取りしていないのか?部下の手柄を横取りする上司も無様である。目立ちたいというより、横領であろう。「他人のふんどしで相撲を取る」に相応しい。自分の手柄や功は伏せてこそオトナである。

イメージ 8

子どもがノーベル賞をとったからと人前に出て、背骨が折れんばかりに胸を張るのではなく、子どもが凶悪犯になったときこそ、人前にでて腰が折れんばかりに頭を下げるのが親であろう。どうせ親をやるなら、後者のような親でいたい。ま、ノーベル賞も凶悪犯も、どちらも望まないけれども…。梅川の話をもう少し補足するなら、母子家庭で育った梅川には老いた母がいた。

◎午前3時53分、ラジオが届かないことに腹をたてた梅川が発砲。ロッカーにはねかえった散弾が庶務係・Mさん(当時54歳)の顔に当たり、Mさんはそのまま死を装う。

◎午前4時45分、「ビールのお返しや」と、客の女性(当時24歳)を解放。

◎午前7時40分、ラジオ差し入れの見返りに客の女性(当時41歳)を解放。客は全員解放された。行員には「最後は皆殺しや」と怒鳴る。

◎午前9時前、梅川は特捜本部に電話し、車に積んである映写機を友人に返して欲しいと依頼、さらに行きつけの飲み屋などに次々と電話し、「もう会えんやろ」「金を返す」などと伝えていた。

◎午前10時頃、大阪府警のヘリで香川県から梅川の母親(当時73歳)が現場に到着。母親が説得に来ていると告げられた梅川は、「そらあかん」と電話を切った。捜査員は母の手紙を階下に差し入れた。

イメージ 10

イメージ 9

◎1月28日午前2時半頃、遺体の腐敗臭から、4遺体を非常階段から運び出す。

◎午前7時、朝食と朝刊の差し入れがあり、梅川は銃を机に置いて新聞を読んでいた。酒を飲み続けているし、眠ってもいないから実際に疲労もあったのだろう。行員はトイレに行き、西通用口の捜査員に突入の合図をした。7時半のことである。

◎午前8時40分、指揮官の合図のもと、狙撃手6人が2人1組で分散してバリケードの隙間から突入、7mの距離から梅川に一斉発射。気づいた梅川は銃に手をかけたが、右首付近から鮮血がドバッと噴き出し、椅子から崩れ落ちた。

放たれた8発のうち3発が梅川の頭、首、胸に命中していた。42時間にも及ぶ長い籠城事件が終わった。梅川は病院に搬送されたが、午後5時43分死亡。梅川昭美(1948年3月1日 - 1979年1月28日)。広島県大竹市生まれ。享年30歳。TATTOOアリ。

イメージ 11


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>