記憶から消えることのない1979年1月26日の忌まわしい事件を書きながら、いろいろなことを思い出す。事件を映画にした、『TATTOO<刺青>あり』 は、事件の興味から観た人もいるだろうがクソ映画。同じような事件を映画にした、『狼たちの午後』(1975年:米)は、シドニー・ルメット監督作品で、原題は「Dog Day Afternoon」。「Dog Day」とは日本語で、「真夏」を意味し、邦題の「狼」とは何の関連性は無い。同じような映画というにはあまりに名作と駄作であるが、「三菱銀行人質事件」は1979年1月であり、梅川はこの映画を観ているだろう。映画では三人が銀行に押し入ったが、一人が怖気づいて逃げてしまう。梅川は単独で行ったが、実は友人を誘ったが断られている。友人は梅川に盗難車を提供した。
断ったことに対する友人としての埋め合わせであろうか?この自動車窃盗犯(31)も前科5犯であった。梅川は、『狼たちの午後』を模倣したのではなく、たまたま同じようなことになってしまったのだった。おそらく梅川の頭には本事件のような行内に、「籠城」という想定は描いていなかったであろう。しかし、『狼たちの午後』の犯人も予定外のアクシデントで「籠城」せざるを得なくなった不幸な強盗である。
監督のシドニー・ルメットは映画史に燦然と輝く名作『十二人の怒れる男』(1957年・米)を作った人。この作品が映画監督デビューとなったルメットは、同年、第7回ベルリン国際映画祭金熊賞と国際カトリック映画事務局賞を受賞した。また、同年度のアカデミー賞で作品賞を含む3部門にノミネートされたが、『戦場にかける橋』に敗れ、受賞には至らなかった。制作費は35万ドル、撮影日数わずか2週間。
それでも映画史上に残る名作となった。12人の陪審員が、丁々発止の話し合いから、事件を無罪に導いていくという、アメリカの強さの根底としての民主主義を颯爽と謳いあげたルメットである。ルメットは1973年『セルピコ』で、ニューヨーク市警に蔓延する汚職や腐敗に立ち向かう警察官を描いた。そして2年後に『狼たちの午後』である。『セルピコ』も『狼たちの午後』も実話に基づいている。
どちらも主演のアル・パチーノの快演が話題になったが、原題どおり、ニューヨークの夏は暑い。犬がよだれを垂らすくらいに暑いから「DOG DAY」という。邦題の「狼」とは何だ?銀行強盗だからか?確かに反社会的行為であるが、『狼たちの午後』の銀行強盗はとてもじゃないが「狼」というより、「猿」であろう。梅川は狼どころか野獣である。『狼たちの午後』の主人公に「狼」はとてもじゃないが、そぐわない。
『狼たちの午後』は喜劇である。喜劇といってもマヌケで笑いを取る喜劇ではなく、野次馬さえファン(?)にするような、良心的な銀行強盗。人質の行員たちとも和やかである。もちろん、銃は持っているが威圧することはしない。梅川も真似たらよかったんだよ。ルメットはこの映画で何を描こうとしたのか?ベトナム戦争の悲劇、貧富の差、過剰なメディア(TV)と劇場型犯罪、同性愛…
『十二人の怒れる男』で颯爽とアメリカ民主主義を賛美したルメットだが、ここではアメリカのもう一つの側面を描きたかったのだろう。そうしてルメットは40年後、『NY検事局』で病めるアメリカを描いている。ルメット以外にアメリカを真に見つづけた監督に、オリバー・ストーンがいる。映画は娯楽である。シリアスでもコミカルでも、そこには深い内容が刻まれている。ルメットの芸域の広さは十分に感じられる。
それにしても、『狼たちの午後』の実話による銀行強盗の動機は、愛する妻の手術代金を得るためであった。不本意ながらこのような事態になった事で、主人公(ソニー)は、妻へ遺書を残す。「君以外の女を愛したことはないよ」と言う言葉だ。いかにもアメリカ的だが、銀行強盗には銀行強盗なりの思いがあり、生活がある。最後は捕まってしまうが、犯人と人質たちはまるでひと時の仲間のようだった。
なのに捕まってしまえば、犯人と被害者との図式になってしまう。どこなくそれが不条理と思わせられるほどに、至上まれに見る人間味あふれた銀行強盗犯であった。ソニーの実在人物の名はジョン・ウォトビッツといい、彼の風貌とアルパチーノに似ていたのでオファーしたという。映画が作られる事になった時、彼は服役中だったが、映画化の権料が彼に送られ、彼は奥さんに手術費用として送ったという。
梅川は行員に、「お前ら『ソドムの市』を知っとるか?」を問うた。1975年に製作されたイタリア・フランス合作映画で、パリ映画祭で上映された。監督はピエル・パオロ・パゾリーニで、マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を原作である。原作の舞台は18世紀のスイス山奥の城館だが、20世紀のイタリアに置き換え、「地獄の門」 、「変態地獄」、 「糞尿地獄」 、「血の地獄」の四つの章から成る。
これはダンテ『神曲』から、「地獄篇」、「煉獄篇」、「天国篇」の構成を借りている。欧米ではあまりの過激な表現が問題となり上映禁止となった。1975年11月2日、同作の撮影を終えた直後のパゾリーニは、ローマ近郊のオスティア海岸で激しく暴行を受けた上に車で轢殺された死体が発見された。享年53歳であった。後に、『ソドムの市』に出演した17歳の少年ピーノ・ペロージが容疑者として出頭した。
ペロージ容疑者は、「同性愛者であったパゾリーニに性的な悪戯をされ、正当防衛として殺害して死体を遺棄した」と証言、捜査は打ち切られた。しかし、当初から少年による単独犯は無理があり、ネオファシストによる犯行とする陰謀論が主張された。現在も真犯人は判明せず、死の真相を巡ってはアウレリオ・グリマルディ監督の『パゾリーニ・スキャンダル』(1996年)など多くの映画や伝記本がある。
ペロージはパゾリーニよりもかなり小柄なため、同氏を押さえつけて激しく殴ることが可能だったかという点が疑問視された。パゾリーニは死亡当時、複数の骨折を負い、睾丸をつぶされ、さらに体の一部を焼かれていた。そのペロージは2005年に国内のドキュメンタリー番組で、「パゾリーニはファシスト達に殺害された。自分は家族に危害を加えると脅され、偽の自首を強要された」と新たな証言をした。
バゾリーニの死は謎を呼んだが、彼の『ソドムの市』は、あまりの過激な表現が問題となり、欧米で上映禁止になった。いわゆるSMのSことサド、サディズムの語源である18世紀のフランス貴族マルキ・ド・サド初期の著作『ソドム百二十日』が原作の『ソドムの市』は、己の歪んだ欲望を満足させることをすべてに優先させる四人の中年貴族たちによって計画された、壮大なる宴の様子を詳細に描いたもの。
四人の貴族は金にものを言わせ、国中から選り好みの男女をさらってこさせ、さらに選りすぐって人里離れた城館へ連れて行く。城館に渡るや橋を落とし、城門を内から閉め、漆喰で塗り固めると完全なる陸の孤島ができあがる。旧約聖書に登場する都市、ソドムとゴモラは全能の神ヤハウェの下した罰、天からの火と硫黄によって滅ぼされたが、ソドムは男同士、ゴモラは女同士の肉欲を指している。
四人の貴族はこの城館において、罪深い都市ソドムを再現するかのような120日間に及ぶ饗宴を行うのだが、その寸前で物語りは終っている。その理由は、サド自身が幽閉されていたバスティーユ監獄でこっそり書いていたもので、それが突然裸のまま精神病院へ移されることになったために、彼の手から永久に原稿が離れてしまったからだ。残されたのは訳された序章と、書く予定だった物語の草案のみ。
斯くも不道徳と背徳の塊の物語に刺激を受けたパゾリーニが、 『ソドムの市』として設定を20世紀に置き換えて映画化した。自分は映画を観てはないが、スカトロジー、皮剥ぎ、四肢切断などが目くるめく展開されるらしく、公開直後パゾリーニの謎多き死も加わってか、スキャンダラスで話題多き作品となった。『ソドムの市』 <HDニューマスター版> ~制作40周年記念~ [DVD]は、本年7月発売された。
梅川の押し入った銀行内部は、阿鼻叫喚の地獄絵図であった。さらにはステーキを持ってこい、ぶどう酒を持ってこいの要求に従わざるを得なかった捜査本部だが、ステーキを待つ間に梅川はまた1発発砲し、この後も不定期的に、気が向くと発砲を繰り返すなどやりたい邦題であった。警察も15年前に同支店が建設された際の工事業者を集め、協力を依頼する。
カギの専門家にも施錠されたドアのカギを開けてもらうよう要請する。梅川はまたもや2階の支店長室に電話し、「警察の偉いモンと代われ」と言い、調査官が応対に出て、「下の者は元気か。」と尋ねると、「みんな元気や。警官の姿が見えたら人質を殺す。」と答える。「要求があったら言え。けが人を早く開放しろ。」と調査官が言うと「けが人なんかおらへん。6人死んどる」と言い捨て電話を切った。
実際の死亡は4人で、2人は重症で倒れていたが、梅川はその2人も死んだと思っていた。捜査本部のある2階に20回以上電話をかけ、「女の行員はみんな裸で、死体がごろごろ転がっとる。強行突破するなら、裸の女の死体が並ぶで」とも言い放った。また、人質たちにトイレに行くことを禁じ、カウンターの陰をトイレ代わりにさせた。人質という状況の中、捜査本部は説得の可能性を探っていた。
が、実際警官が姿を見せた瞬間、猟銃を発砲する梅川を説得出来る可能性はほとんどない。薬物使用も検討されたが、先ほどの睡眠薬のテストが駄目で却下された。最終的に強行突入、射殺にまとまった。第二機動隊訓練指導官で、射撃指導官である松原和彦警部が呼ばれた。人質を楯の状態で、犯人の狙撃が可能かどうかを判断させるためである。
机がカギ型に並べられ、その上で人質行員が正座させられている。その状況から松原警部は、「人質の合間をぬって犯人を狙撃するのは難しいがやれる。」と判断を下した。早速、狙撃手6人が選抜され、3階に設置された本部で狙撃と人質救出訓練が繰り返された。作戦実行は深夜0時と決まった。警備一課管理官が覗き穴から中を観察してタイミングを判断、ハンディートーキーで松原警部に知らせる。
それに呼応する突入班は全部で33人が選抜された。刻々と時間が近づいてくる中、覗き穴から内部を監視していた捜査員から新たな情報がもたらされた。犯人はこれまで自分の前面のみに人質の楯を作っていたが、人質を自分の背後にも立たせて自分をとり囲むようにしたという。報告を受けた松原警部は覗き穴からそれを確認した。「どうや、いけるか」と坂本一課長に松原は言った。
「出来ません。前に並んだ人質の前は通せても、後ろの人質に当てないという自信はありません」。松原は狙撃は危険過ぎると判断した。この時点で、狙撃・突入という作戦は中止となる。14時30分の事件発生からすでに9時間以上経過し、テレビも生中継し、深夜であるがすごい数の野次馬が詰めかけていた。日付が変わって1月27日、0時25分。梅川はまたもや2階の支店長室に電話を入れる。
「階段の下に要求書が置いてある。30分以内に持って来い」。2階に待機している警官が階段を降りていくとメモが置いてあった。メモには、「ラジオ、アリナミンA、カルシウム、人質の食事を差し入れよ。室内暖房を少し強くしろ」と書かれてあった。その下には、そのメモを置きに来たと思われる男性行員が自らの意思で書いたのであろう、「極悪非道そのものである」という追記があった。
「要求は分かった。」と警察側の伊藤管理官が電話で伝えると梅川は、「死骸が、ようけごろごろしてまっせ」と、笑いながら答えた。犯人は一体、どこの誰なのか、この時点では全く分かっていなかった。0時50分ごろ、現場に情報が飛び込む。上記の理由から、犯人が梅川昭美と判明した。梅川に犯行を持ちかけられた知人は、実は、岐阜県多治見市の多治見駅前交番の前をせわしなくウロウロしてた。
男は署員から職務質問を受けて言った。「今、大阪で銀行強盗をしとる男はワシの友達なんや!」と、自ら話し始めた。そして犯人が現場まで乗って行った車は自分が盗んだものだと自供した。この知らせを受け、マスコミ各社は大々的にウメカワテルミの名前を報道したが、「てるみ」の読み方は「あきよし」の間違いであった梅川もラジオのニュースを聞いた時に、名前の読み方が違うと激怒している。
共犯者の自供により梅川の住所も判明、捜査員を向かわせて梅川が実在の人物であり、自宅に不在であるのを確認し、供述と合わせて犯人が梅川であることを断定した。梅川は再び行員を通じてまたも要求を出す。洋酒1本、日本酒1本、缶ビール2本を届けろという。伊藤管理官が梅川に電話して缶ビールだけにと説得。その後カップ麺10個と熱湯の入ったポットが先に届けられたが、ビールはまだだった。
寒さで震える行員に梅川は、「寒かったらその辺に転がってる死体に灯油をかけて燃やしたらええんや。」と笑いながら言う。サンドイッチ10人分が届いたがビールが届かない。行員がビールと暖房を強める催促電話をした。女子行員は以前全裸のまま。「寒いもん、疲れたもんがおったら手を上げえ。」と梅川が言うと2、3人が手を上げたが、「文句の多いやっちゃな。いっそ死んでしもたら寒くもつらくもないで」と言う。
だんだん柔軟になった梅川は全員に向かって言う。「トイレの使用を許したる。ただし、1人20秒までや。1秒でも遅れたら誰か死ぬことになるさかい、よう覚えとき」。この後しばらくして、客で銀行に来ていた高齢の男性が梅川に、「トイレに行かせて下さい」と頼んだ。梅川が年を聞くと、「76です」と言う。「お前は帰ってもええわ。ご苦労さん、長生きせえよ。」と、ここに至ってやっと人質の1人が開放された。