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『TATTOO<刺青>あり』

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観光庁は21日、温泉や大浴場への入れ墨(タトゥー)客の入浴を認めるかについて、全国の宿泊施設を対象としたアンケート調査の結果を公表した。近年、タトゥーを入れた外国人観光客が入浴を断られるケースがあるためで、これによると、56%の施設が拒否しているのが分かった。一方で、31%が許可、13%が入れ墨をシールで隠すなどの条件付きで認めていた。

近年はファッション感覚で入れ墨をする外国人が増えたようだ。観光客の入浴を一律に断ることについては議論があり、実態を調べていた。アンケートはホテルや旅館など3768施設を対象に実施、回答率は15.4%。入れ墨客の入浴に関するトラブルは19%の施設で発生。また、一般客から入れ墨に関する苦情を受けたことがある施設は47%だった。

入れ墨施術者には、民族的慣習という文化もあるだろうし、それらを一律「ダメ」というのは絶対にオカシイ。例えば、大相撲の力士が外国を訪れ、さてメシでも食べようかとレストランに入ろうとしたら、マネージャーにちょん髷頭に違和感をもたれ、「そんなバカげたヘアスタイルをしている人は、ウチには入れません。お断り!」といわれるようなもの。

入れ墨は実は日本の伝統文化であったのを知る者は少ないだろう。日本の伝統刺青が急成長した時代は、江戸時代であった。町の火消し衆を始め、粋な江戸っ子たちは絢爛豪華な自分の刺青を惜しげも無くさらし、喧嘩や仕事に明け暮れていた。なぜ火消し衆が刺青をしたか、それにはちゃんとした理由がある。「火事と喧嘩は江戸の華」といったもの。

江戸は大火事が多く火消しの働きぶりがは華々しかったこと、江戸っ子は気が短く派手な喧嘩が多かったことをいった言葉。江戸の町並みは、紙(障子・襖)と木(木造建築)で作られた長屋が密集していた。それに加えて放火事件も多発、世界で類を見ないほどの火事件数を誇った時代・地域と言える。よって火消し衆は時代のヒーローであった。

彼らはその気質からして、命がけで火事の鎮火にあたったが、死と隣り合わせの火消し衆たちは、万が一自分自身の顔が焼けただれて死んでしまっても、自分達を識別できる様にとの思いで、個人が思い思いの刺青をこぞって入れた。命を張って仕事をする際に自身を発奮させる為に龍や虎、九紋龍史進や花和尚魯智深などの勇猛な人物がの図柄が好まれた。

九紋龍史進(くもんりゅうししん)・花和尚魯智深(かおしょうろちしん)という人物は、中国の四大奇書の一つである『水滸伝』に登場する108人の豪傑の名である。背中と胸割りで半袖、太腿まで仕上がった図柄は丁度ハッピで隠れる範囲であった。彼らは命がけの仕事を終え、ハッピをはだけて自分の守り神を見せ、悠々帰還する様はまさに江戸の粋。

『水滸伝』の猛者達が人気を博したもう一つの理由がある。おそらく、体制に対する反骨心であろう。身分差別が横行した江戸時代、支配階級だった侍や武士に対して、悪い役人を懲らしめる水滸伝の武君を自らに重ねたのだろう。祭りの神輿の上で、町人として、江戸っ子の誇りとして己が彫り物を誇示することは、彼らの主義であり、主張であった。

ところが幕府が衰退した江戸末期から維新にかけて、こういった印象のものは反社会的であるとして弾圧されたのだった。事実、幕府ならびに新政府からは、何度も「刺青禁止令」が発布されている。今でこそ刺青は個人の自由だが、刺青廃絶しようとする企てや風潮に対し、それでも入れたい、ならば入れてやろう、という猛者は後を絶たなかった。

そうして彫師たちも陽の目をみない影の職人仕事として、その技術を後進に伝えて来、今直絶えることなく継がれている。時代は昭和に入り、軍国主義から敗戦を辿った日本は、復興と景気のドン底にあった。占領軍が駐屯するなか、彼らの横暴ぶりから市民を守ったり、混乱する地域の秩序を保つために、用心棒的な存在を担った者が生まれた。

任侠を「道」とする渡世人は、占領兵やならず者の抑止力となる。孤独ながらも強く生きる彼らは、敗戦に打ちひしがれる日本の屋台骨を支えた。彼らはまたアウトローの象徴として、背中や腕に伝統和彫りの刺青の映えは、強き日本の誇りが表われていた。刺青が渡世人やヤクザの象徴となったのはそういう経緯がある。体に彫り物をし、我は強き者という自負である。

したがって、刺青=アウトロー=ヤクザ=怖いという図式が、こんにち刺青を多くの人が忌避するのだろう。そういった歴史的経緯を知らない世代が多くなった時代ではあれど、まだまだ年代によっては刺青の捉え方が大きく異なる。ワールドカップで多くのサッカー選手のタトゥーを目にした。ミュージシャンやボクサー、プロバスケットの選手にも多い。

いきなり結論的なことをいえば、多少時間はかかるけれども、日本でも認知されていくのは、これまでの様々なものが表している。我々の青少年期は、エレキ禁止令、長髪禁止令、少し後には女子高生の茶髪禁止令、ルーズソックス禁止令、制服のミニスカート禁止令などが発令された。笑えるのは、サングラスをするだけで不良と言われていた、そんな時代も思い出す。

少し前、海外で活躍するスポーツ選手に対し、「なんだ、あの金髪は。サングラスは…」と非難した人もいた。が、多くの若者はカッコイイと支持したのだった。ここで考えてみるべきは、非難した人というのは、そういう価値を知らずに育ってきたに過ぎない。だから金髪に違和感をもち、サングラスを非難する。よって、金髪がダメ、サングラスがダメを論理的に説明できない。

日本は全体主義国家であり、これまで国として豊かになろうと努力してきたし、だから個人の自己実現は認めてこなかった。そうして国家が豊かになるにつれ、それらが認められ、自由な行動が是認されるようになった。無制限とはいわないが、個人の自由を認める社会になりつつある。自身の達成感や自己実現に向かって生きる人が増えてきたのは、いいことであろう。

2014年度ノーベル物理学賞を受賞した中村修二カリフォルニア大学サンタバーバラ校材料物性工学科教授は、職務発明をめぐる論議の渦中の人物として知られている。つまり、サラリーマンが発明した特許は個人のものか、会社のものなのか、と言う問題提起で、訴訟まで起こした。彼の青色発光ダイオード(LED)の発明を廻り、個人と企業の「特許紛争」が大きな注目を集めたケースである。

中村氏が企業側に対価を求めて提訴したことが特許法改正の契機となったが、当時、海外では「スレーブ(奴隷)ナカムラ」とさえ言われ、中村氏の訴訟は「開発者の権利」をめぐる議論に一石を投じたのである。中村氏と日亜化学との間で和解が成立した2005年には、和解の内容をどのように位置づけるかでさまざまな意見が噴出した。が、和解決着はどうであったのだろうか。

企業側の待遇に嫌気がさした優秀な技術者は、海外企業に次々に「ヘッドハンティング」されている。国の財産ともいうべき技術者、研究者の「頭脳流出」に歯止めを掛けるため、企業は、彼らとの対話を深めなければならない。地裁判決で「200億円」と認定された支払額が、和解の結果8億4000万円にまで減額されたことには、中村氏や開発者側から、算定基準の曖昧さなどへの不信感が高まった。

「200億円判決」が、8億4000万だから裁判闘争は日亜化学側の見事な逆転勝利と言える。中村氏も判決後の記者会見で、「100パーセント負けですよ」、「日本の裁判制度は腐っていますよ」と興奮気味に怒りをぶちまけたように、裁判は中村氏側の全面敗北であった。マスコミは、裁判官が社会防衛的な意味から会社の経営的立場を考慮し、無難な線で決着をつけたと解説した。 

なぜ、中村氏は上告して争わなかったのか?哲学者の山崎行太郎氏は、「本裁判には、特許問題や、発明の対価問題とは別の、隠された問題点が二つあった」と指摘する。一つは、世紀の発明LEDの開発を、実質的には誰がやったかという問題、もう一つは、中村氏が理系の「文化ヒーロー」として繰り返してきた過激な日本の「教育制度批判」や「日本的システム批判」の問題である。

山崎氏は、日亜化学側が一審判決後に公開した新しい詳細な内部データを元に検証、その結果、「LED開発は日亜化学の若い研究者たちの共同研究の成果」であって、「会社の反対を押し切って自分一人で開発した」という中村氏にはかなり無理があった。裁判官も弁護士も、LED開発における中村氏の役割は、中村氏が大言壮語するほどでのものではないことを知っていた。

一審判決直後は意気軒昂であった中村氏の弁護士が、屈辱的とも言える和解案を受け入れざるをえなかった背景であろう。 中村氏の役割は、社内的には国内外を飛び回って"LED開発物語"を宣伝する広告塔的な色彩が強く、その結果、中村氏の唯我独尊的なキャラの影響もあって、社外や国外では、"LEDを一人で開発した男"という、スター科学者の虚像が一人歩きすることになったという。

日本のマスコミの多くは、「中村氏のLEDは独自開発」という自慢話を信じ込み、「日亜化学側の言い分」を黙殺、中村応援キャンペーンを繰り返した。したがって、高裁での和解決着は、中村氏の「世紀の発明」物語の根拠の怪しさとともに、中村氏がテレビや書籍で大言壮語、悲憤慷慨した稚拙な「日本的システム批判」や「教育制度批判」も、口から出任せの空理空論だったことを間接的に立証した。

というのが山口氏の見解である。中村氏は著書『好きなことだけやればいい』の中で、面白い仕事をするには、「小さな会社に入れ」とアドバイスする。仕事は会社のためではなく自分のためにするものという彼の考えはその通りだと思うし、自分を変えるチャンス、自分を伸ばすチャンスとして、転職も有効手段に違いない。人気キャスターの小谷真生子も同じようなことをいっていた。

彼女は大学卒業後に日本航空に入社したと同時に転職を考えていた。3年間でこれだけはやろうとの目標を描き、①組織の仕組みを理解する。②クルーとして高評価を得て、特別機に乗務する。③会社と離れたところで個人として学ぶべきことを学ぶ。そのため休日出勤も厭わず、家でも勉強した。それでも、会社を辞めて転職すれば収入は4分の1になることで悩む。

最後は、「ご飯とおみおつけとおしんこで生きていける」との考えで決断、ジャーナリズムの世界に飛び込んだ。落ちた会社もあるが、NHK衛星放送のキャスター試験で採用された彼女は、自ら取材して原稿を書き、番組で読むというスタイルのキャスターとしてデビューし、メキメキと頭角を現すが、そのNHKも4年で退社する。彼女は旧ユーゴの内戦に触発され、現地取材を切望した。

会社を辞めてまで現地に行き、自身の目で実情を知りたいと思ったのは型どおりの報道に矛盾を感じたからで、彼女のいうジャーナリズムの使命は、「人の命と権利を守るために存在する」という高い志に支えられていなければならず、ただ、人を驚かせんがためのショッキングな報道は、視聴率を意識したものであり、それが果たしてジャーナリズムといえるのかと彼女は言う。

「志を高めるための転職は大いに考えていい」と、確かにそうである。今の仕事が嫌だから辞めるのではなく、後ろ髪を引かれる退職であるなら次もきっと上手く行く。かつて脱サラがブームだったのは、メディアがその手の番組で煽ったのも一因だが、脱サラの成功率はわずか3%であった。ラーメン店、便利屋、スナック喫茶、古新聞回収、ペンション、レンタルビデオ店など。

手軽に始められる動機なら、店じまいも簡単。「目標を定めていれば、チャンスは必ずくる」という成功の哲学には程遠い。確かに、目標や理念を持つと行動が変わる。目標を持たない人間は、何かのせいにする。「頑張っても会社は評価してくれない」、「上司は分かってくれない」などというが、問われているのは頑張っているかどうかではなく、成果である。


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