命より大切なものを見つけた人がいるようだ。その人は言う。「人間は命より大切なものを見つけるために生きていくべきでしょう…」。そうかも知れないし、そうであるという確信は自分には持てない。生き方はさまざまあって、そういう生き方もそのさまざまな人間の生き方の一つであるならそれでいい。「人生はこうあるべき」などは、別に言っても構わないと思う。
人が何を言おうがその人の自由であって、それに対しては責任を取ることもあろう。責任と言うのは、その事に対して感情的に文句をいう人もいれば、理性的な異論・反論で向かってくる人もいる。それに対してどう対応するかが、責任の取り方という意味だ。養老孟司氏のように一切の無視を決め込む人もいる。卑怯だとか、ズルイと言われながらも、それが彼の生き方だ。
彼は本業(解剖学者)より著作で稼いでいる。今や著述家が本業と言えるかも知れないが、彼は自分の考えを述べているだけだから、何を言おうが彼は彼の考えでいいのだが、認知度、知名度という影響力から、養老氏の、「タバコは健康を害しない」という発言に目くじらを立てる人や、禁煙奨励団体などが公開質問状を投げかけているが、それでも養老氏は無視を続けている。
自身の考えを著作などに表明するのは自身の考えであるなら結構なことだが、それがデマや嘘であったとしても、個人攻撃に対応する必要はないと思う。なぜなら個人個人は考えが違うし、知識も素養も違うし、意見の違いは当然にしてあって、いちいちそれに応える義務も必要もない、というのが養老氏の考えであろう。周囲を気にしていたら、言いたいことはいえない。
逆にいえば、言いたいことをいうのに、周囲のことなど気にしてはいられないとなる。そうは言っても、あまりにも社会・正義に問題のある発言は、マスメディアをはじめとする社会・正義の番人が口火をつけるなどし、大きな社会のうねりとなって行くであろう。それでも個人の発言に他人が強制力を持つものではないのは、『絶歌』出版問題でも感じたことだ。
「養老さんのような科学者としての立場の人が、タバコに害がないというのは容認できない暴言」とする禁煙奨励団体の言い分は判らなくもないが、誰が何を言おうと、タバコは絶対に人体に悪いという確たるデータがあれば、それを提示すればいいこと。それなら養老氏も反論せざるを得なくなるか、自説を引っ込めるか。養老氏が言うから喫煙人口が増えるというのは筋違い。
これは、タバコを吸う人の自己責任の問題だ。嫌煙権を行使する人も権利だから主張していいが、タバコを吸うのも権利である。それなら両者を共存させるためにと、喫煙指定場所を設けるのは必要なこと。老人・子どもを含む、タバコの煙を嫌悪する人に対する配慮は喫煙者に課せられる。但し、養老氏がいいと言ったからといっても、自己責任は免れない。
健康被害や、健康に良い、などといった情報が氾濫している昨今にあって、何が正しく、何が怪しく、何が間違っているかを、一般人が見分けるのは難しい。特定の企業・団体の利権や意向が複雑に絡み、根拠の乏しい健康に関する常識も世の中には氾濫しているのが実態だ。受動喫煙の可能性を世界で初めて指摘したのが、1981年に発表された「平山論文」だった。
医学者であった平山雄(ひらやま たけし、1923年 - 1995年10月26日)は、40歳以上の非喫煙者の妻と喫煙者の夫9万1540組を16年間追跡調査し、夫の喫煙が多いほど妻の肺がんによる死亡率が高くなるとする内容の論文を、イギリス医学情報誌『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』で発表した。が、計算方法が恣意的、データの分類方法が誤認などとの批判を受けた。
さらには、原データが公表されていないといった問題もある。平山は、旧制一高(現在の東京大学)を卒業し、1946年に満州医科大学を卒業後1951年に医学博士を取得。1965年から「国立がん研究センター研究所疫学部長」を務め、定年退職後の1985年に「予防がん学研究所」を設立し、所長として『禁煙ジャーナル』主宰兼禁煙活動家として活動したが、1995年にがんで死亡する。
「平山論文は統計を基にした疫学調査。疫学調査では、受動喫煙者のがん死亡率が非喫煙者より高いとしても、喫煙者家庭に共通した喫煙以外の生活様式や環境の影響である可能性も残る。もともと疫学調査は、何に研究費を投じるべきかを判断する予備調査にすぎず、これをいくら繰り返しても、受動喫煙と健康の因果関係は永久に証明できない」と、医学博士の葦原祐樹氏は述べる。
たばこの有害性を主張する研究には、発がん性物質を用いた動物実験がある。しかしこれも、受動喫煙の有害性を証明するに至っていない。「たばこには確かに発がん性物質が含まれ、動物実験では高確率でがんが発生します。しかし動物実験では、たばこの発がん性物質を抽出、精製したものを動物に投与する。実際の喫煙や受動喫煙の摂取量とは比較にならない大量投与です。
このような実験をしてみても、喫煙や受動喫煙の害を証明したことになりません。疫学調査と動物実験ばかりが延々と繰り返されているということは、たばこ有害説を証明する研究には成果が望めないということの裏返しなのでは…」と、葦原氏はいう。喫煙者数と肺がん死亡者数の推移をみると、ここ60年、喫煙者数は減少しているのに対し、肺がん死亡者数は70倍にも増えている。
これは肺がんと喫煙の要因は重大なものではないことを示す。「因果関係が証明されていないのに、医者でさえ、たばこでがんになると信じている。たばこ有害説はもはや世界共通の宗教的信念だと言っても過言ではありません。実際には、非喫煙者にとって煙や臭いが不快だという、好みの問題にしかすぎませんね」。という葦原氏は、いうまでもない愛煙家である。
養老氏はこうした事実と、自身の信念で不毛な論争は挑まないということだ。確かにタバコを止めると、吸っていたときが嘘のように煙の迷惑を感じる。健康の害云々はともかく、ずいぶんと他人に迷惑をかけていたなという事が分かっただけでも良かったと思っている。他人の迷惑の中に自分の心地いい生活があるのはよくない。禁煙で得れたものは「無知の知」であった。
タバコの健康の害を信じる人もいるし、信じない人もいる。同様に、「命より大切なもの」を信じる人も、信じない人もいる。本当にそれがあるというのなら、見つけていない人もいるが、どうしても見つけなければ「人の人生の目的にならず」は言いすぎだろう。そこまで傲慢な言い方をする必要はない。「本当に大切なものは失ってみて分かる」というが、そうかも知れない。
では命の大切さも同様に、命を失ってみれば分かるのかも知れない。何もせず、ただダラダラと生きることが人生なのか?それでいいのか?と啓発する人はいる。しかし、本当に死んでみて、そんなダラダラな人生がいかに大切だったかが、分かるかも知れないじゃないか?残念なことに、「死んでみて分かる」というのは比喩でしかない。そんなことは在り得ない。
が、人間の想像力というのは死した後についても可能である。死後の思いと言うのはそれでしか発揮されない。いかに不幸な人生でも、死んでみたら大切な人生であったかもしれないのでは?そのように思うと、「命より大切なもの」というのは、それほど立派で高尚なことでなくとも、あり得るというのが今回の思考から得た持論である。「生きる目的などない」というのも持論である。
その事と、「命より大切なもの」が思考の末に重なってしまったのだ。つまり、人間は「生ききる」ことが目的ではないかと。「命より大切なもの」は「命」であるという事だ。他人が「命より大切なもの」が分かったという。本当に分かったのか?という疑問も抱く。お前は死んでみたのか?死なないでなぜ、「命より大切なもの」の確信がもて、断言するのだ?
という疑問である。「命より大切なもの」を見つけたという人に言えばイチャモンになろう。したがって自己問答である。死なないで分かる「命より大切なもの」を想像した時、自分は命と言うのは実は素朴であるがゆえに大切と断じたのだ。だから、「生きる目的など無用であって、人は生ききることを目標にすればいい」に行き着く。それが命の素朴さに対する答え。
「命より大切なもの」などと、大それたものなどはない。素朴な「命」に応えていくことが大切なのである。「命より大切なもの」などを見つけるより、命と言う素朴なものを大切に人は生きていくべきであろう。いかに人が、「命より大切なものを見つけた」といえども、命があるからそう感じるのではないのか?死んで、死体が、「命より大切なもの」が分かったと言うのか?
「命より大切なものを見つけることが人間の幸福だ」、という考えには反発する。「命より大切なものはこの世にない。命を大切にしなさい!」と多くの先人たちの言葉を、改めて噛みしめ、後人に伝えて生きたい。人間は自己顕示欲の塊だからか、「命より大切なもの」を見つけたと、美辞麗句に酔いたいのであろう。「命より大切なもの」を認識できるのは命あってこそだろ?
だから「命」が大切なんだし、「命より大切なものがある」などと、「命」を粗末にしないで欲しいよ。人間が疾病や事故などで寿命を終えるのは、ある意味で仕方のないことだが、自殺と言うのはかけがえのない命を捨てる点において勿体ない。それでも自我や羞恥に押されて消えてしまいたい衝動に駆り立てられるなら、それもその人の生き方である。
が、もし死んだ人たちに感想を聞くなら、「命より大切なもの」はやはり命であったというかも知れない。自我や羞恥心は生きていれば抑えたり、修正可能である。思いつめていても、半年、一年も経てばキレイさっぱり消えてなくなるかも知れない。自尊心の崩壊に耐えれば、やり過ごせるかも知れない。そういう時間を待つことなく死ぬというのは、あまりにその場しのぎ。
非難轟々の冷たい風に晒されても、頑張って生き抜いた人の多きこと。だから自殺者に感想を聞けば後悔の言葉はでると思われる。自ら命を絶った者こそ真の、「命の大切さ」を知る。情熱を傾けるとは生きることをいい、死ぬことに情熱は無用だ。生きているからこそ、無用なこと、くだらないことにも情熱を燃やせる。生きて行くパンのために、あれこれ苦労もできる。
人間の真の幸福とは、崩れそうな自分を必死に支えているときではないのか。苦しいだろうし、苦しいけれども、そういう時の精神は緊張感に満ちている。肉体的に持続的に健康であるためには、体のどこかに病気を持っていなければならず、それをカバーしていくからだ。その病と戦ってこそ人は健康でいられる。精神も同様である。恋が永続するのも同じこと。
悲恋であったり、互いの罪の意識におびえる恋は、垣根を乗り越えようと、だから恋でいられる。誰からも祝福され、心のどこを探せどかげりのない、晴れがましい恋が持続するはずがない。こんな恋に二人を永続的に結びつける要素が感じられない。現状に慣れた人間は、情熱をもって生きる人間ほどに不満はない。が、不満がないそのことが、裏返せば情熱を奪っている。
人間がいったん得たものを失うときのエネルギーは甚大であるという。気位を失う、良心を失う、信頼を失う、社会的信用を失う、それらバリューを失う痛みの大きさは、それを得るだけの時間に匹敵する大きさである。それらを失う過程の耐えられなさ、屈辱的な思いから人は逃げ、自らの命と相殺する。嵐の後の静けさまで待つことのできない苦しさ、屈辱感であろう。
多くの自殺者からそれを感じる。たかだかパンのために人を殺した人も、一滴の精子放出のために人を殺した人も、考えれば人を殺さない代案があったはずだし、人殺しと言う大罪を背負わなくとも生きていけたはずだ。寝屋川の中1殺しの男の儚い人生が、殺された児童たちの儚い人生に重なる。結局人は、自身の儚さで他人の人生さえ儚くしてしまう。
弱者に牙を向けるのを「弱肉強食」といい、自然界の掟である。人間界という理性を必要とする社会ではそれが悪であるのを、45歳の容疑者は知らなかったろうし、脱法犯罪を起こす人間特有の動物性である。ある動物は訓練し、仕込めば人間のように理性を発揮する。人間も訓練されているが、簡単に動物的になる。人はもっとも残忍な動物である。猛獣の牙は獲物のためのもの。
決して同種の仲間に無制限に使用しない。人間に牙はないが、道具を使う。ガムテープやカッターナイフで簡単に人を殺せる。戦争を始めるのは常に為政者だ。為政者は国民の攻撃心や敵意、憎悪、残忍な心を巧みに刺激し、開戦の準備をする。そひて戦争が始まるや、誰もが残虐な行為をする。人間と言う動物は、命令されたり、やってもよいといわれると残忍をやる。
「許可」というのは、正当な理由であるからだ。ひとたびお墨付きを得ると、相手の苦痛におこまいなく残忍なことをやってのけるのは、誰が考えたか拷問道具がそれを示す。苦痛に顔を歪めることで快感を得るようにできている人間が、動物より非理性的なところは、生存のため以外の理由で人を殺すことであろう。相手が降伏しようが許しを乞おうが、容赦しない。
そういう種の人間が、「命より大切なもの」などを見つける前にやる事は、唯一この世は自分も相手も、命をいう名のつくものへの慈悲である。綺麗ごとは抜きに、「この世で命ほど大切なものはない」と、すべての人間が思い、実行することがユートピアかも知れない。現実的にベジタリアンがいる以上、人は食肉なしでも生きていけるようである。