「命より大切なもの」は「ある」とか「ない」とかを若き頃に論じ合ったが、論じ合わずともそんなもんは簡単に探し出せる。簡単という理由は、「そのモノ」のためなら死んでもいいというものを見つければいいだけのこと。それを見つけ出して、自分は「何々」のためなら死んでもいいといえるのではないか?と言ったところで、実際にそういう事になったとき、果たして…
そんなことを言ったらキリがないし、だからとにかくは論じるという点において見つければいいのであろう。「命」の大切さや重みを考えれば、その「何々」とやらは生半可なことではあり得ず、したがって信念と言うべくもの、それくらいの覚悟のものではないだろうか、したがってそんなものはそうそう見当たらない。けれども哲学的に思考すると分かることもある。
人は自殺をする動物である。他にも自殺と思われる行為をする動物がいわれたりするが、ミツバチの巣をスズメバチが襲うのは知られている。その時ミツバチは自分の何倍も大きく、強いくちばしを持つスズメバチに果敢に向かっていくが、これは命をかけて巣を守るという自殺行為に匹敵する。スズメバチの去ったミツバチの巣の周りには、累々たるミツバチの死骸である。
このように人から見ると自殺行為をする生物はいる。それらは大抵の場合、種の保存に対する進化の上で作られた習性であり、本能行動である。人のように個人の都合で自殺と言うことではない。では人間が何のために自殺するのか?様々な理由があるだろう。親やいじめ相手などの権力者からの逃避の場合もある。食うに困って働くのが億劫な人もいるだろう。
返せない借金を帳消しにするための自殺もあれば、最愛の対象を失っての自殺や、抗議の自殺もある。それらとは別の、何かを大切にすることで自殺をする場合もある。それはつまり命より大切なものであろう。それを守るための自殺を2件目にした。STAP細胞問題で揺れた小保方氏の上司、理化学研究所笹井芳樹氏と、長崎高1殺害事件の加害少女の父の自殺である。
彼らが命をかけて守ったものとは、「自我」である。自我は価値観や自尊感情や羞恥心や、それら社会的、個人的に様々なものを内包している。よって人は自我を守るために自殺することもある。この2件の自殺を「自我を守るための自殺」と自分は判断した。人間にとって自我は、まさに命より大切であるようだ。失恋で自殺する人はかつてより少なくなったようだ。
これも対象喪失による自我崩壊であろう。自我を守るというだけでなく、自我崩壊によっても人は死ぬ。いずれにしても、「自我」は命より大切なものであるといえる。「希望がなくなった」、「生き甲斐をなくした」などというけれど、結局、元の部分は自我に関係することだ。自殺のことはよくわからない。というのも、自殺の動機を自殺者に聞くことが出来ないからだ。
せめて自殺未遂者に聞くくらいしかないが、自殺する人は、死にたいという心と同時に、生きたいと言う気持ちを必ずもっているという。自殺を決行するまでの何カ月間、何日間か、この気持ちの間を行ったり来たりするという。それらが予告現象となって現れたりする。こういう事例がある。浪人中の若者。太い赤マジックで遺書を書き、自室の壁に貼っていたという。
見つけた兄が、「こんなことを書いて人騒がせな奴だ。死ねるものなら、死んでみろ」とからかった。弟は「死ぬつもりはなかった」と謝った。次の日、遺書を目立たぬところに置いて大量の睡眠薬を飲んで死んだ。「死にたい、死にたいといって死んだ奴はいないというのは謝りです。死にたいと何度も言って死ぬ人間の方が、黙って死ぬ人間より多い」とある精神科医は言う。
自己喪失と言う自殺は、暖かい人間関係を求めながら、それが歪んでしまったときに社会からはみ出して自殺するという例が多い。相手や周囲の人へのツラ当て、といった攻撃的な自殺動機もある。人は喜び、夢み、怒り、苦しみ、愛し、悟ったり、威張ったりしながら生きている。まだまだ解明できない事は多いが、人間の不可思議な情動は、死をもって一切を停止する。
他人と会話をしていて人間の不思議な感情の動きに出くわすことは多い。なぜだと思うが、本人は気づくことなく、物事を勝手に、即座に変更して自尊心を堅持しようとする。具体的には、例えば自身の思いや信念とは違う行動をした時など、こちらがその事を指摘したときには、咄嗟に思いや信念の方を変えてしまう。唖然とするこちらを尻目に言う。「そんなことは言ってない。」
これが最も多いパターン。「お前は○○言ってたじゃないか」というのもバカバカしくなるほど今現在の自分に帳尻あわす。こういう人間がもっとも信用できないタイプであるが、ただし、男に限ってである。女にこんなことは当たり前に多い。それだけ女は信用できないもの。「武士の一言」は、「男の一言」と変わったものの、男の言葉の重みは昔も今も変わらない。
信念とやらをコロコロ変えるなら、それを信念とは言わないのだろうが、にもかかわらず、コロコロ変えるまでは信念などという。自分は信念という言葉は、実は好きでない。だからあまり言いたくないが、弾みでいうことはある。昔から「信念(一念)は岩をも動かす」といい、それほどの重みのある言葉であって、軽々しく言うのは抵抗があるんだろう。
言ってるときには信念かも知れぬが、信念であるかどうかは、信念を貫いてみなければわからない。信念と言ったからには貫こうとするのも立派な信念のあり方だが、口に出したから貫こうでは、信念と呼べるものなのか疑わしい。岩をも動かす信念とは格段の差があろう。「絶対」という言葉も疑わしいので、中々使うことには躊躇いがあるが、軽々にいう「信念」もである。
『酸っぱいブドウ』の例にいう、その場の不協和を解消するために前言を翻す人間は多い。「彼はいつも同じことを言う」。あるいは「いつもいつも書いてることは同じことだ」というのは、評価であると思っている。それくらいになると、「信念」として腹に居座っているのかも知れない。一貫した自分の考えと言うのは、真にそれが自分の考えであるなら、常に同じことをいうものであろう。
坂口安吾のエッセイは、実に大量の書き物であるが、読むと分かるが、いう事は常に一貫し、自己矛盾をきたさない。彼は自身に正直な人間であろうし、自身に一貫であるためには、なにより自身に正直であることだ。いつのいかなる場合においても、正直である事は、その人にとっての一貫した信条を見る。自分が何者であるかを分からせるためにも、自己に正直であるのがいい。
人は自分の選んだものをよく見ようとするものだが、自分の選んだものを嫌いになったなら、素直に堂々と変更すればいいし、申告すればいいのだ。嫌いであるが以前は大好きであったなども関係ない。好きであった時は好きであり、嫌いになれば嫌いでであって、一貫性がないとかはどうでもいいこと。自分に正直であれば言いこと。他人にアレコレ言われても変節は変節。
『酸っぱいブドウ』の例はいくらでもある。例えば、トヨタ車とホンダ車を比較検討し、迷った末にいいと判断したトヨタ車にある欠点が見つかった。すると買うのをやめたホンダ車がよく見えてくる。これも自身の中の不協和である。こうなると購入者はトヨタ車のカタログを眺め性能を比較したりで、なんとか自分の選択の正しさを自らに言い聞かせて、不協和を解消しようとする。
これが人間である。無意識の行為であるところが人間の真実である。「隣の花は赤い」という諺があるけれども、必ずしも正しくないのだ。我々は、自分の選んだ花の方を、隣の花より赤いと思い込もうと努力する。自我の葛藤と自尊心のしのぎあいである。どちらも人間が生きて行く上で大事なものだ。自分が選んだものが失敗だったという人間は、純粋なのかも知れない。
理化学研究所の笹井芳樹氏の自殺は思いもよらなかったが、彼の頭脳からすれば、問題発覚後の小保方氏の一連の言動をみるにつけ、STAP細胞の信憑性をもっとも疑っていたのは誰あろう笹井氏であった。ところが、彼はほとんど壊滅状態のSTAP細胞の可能性を自らに言い聞かせ、巧みなロジックで否定論に抵抗した。そんな彼が小保方氏に宛てた遺書が物悲しい。
『あなたのせいではない、STAP細胞を必ず再現してください』。笹井氏はSTAP細胞の存在を確信していたら、おそらく死んでない。無能な小保方氏を調査不備で雇い入れ、チームリーダーとした理化学研究所。バカをバカと見ぬけず、振り回され、踊らされた笹井氏の無念さ、自殺の真意が手に取るようにわかる。国士無双韓信の心理に通じるものを感じる。
呂后に騙され、計られひっ捕らえられた韓信は自らをあざ笑って言った。「韓信とあろうものが、女一人に騙されるとは…、しかしこれも天命であろう」。女にイッパイ食わされた英雄が、騙した女を罵るなどは、我が身を落すこと以外の何もない。ふった女に醜い怨み節をいう男。まさに牛のよだれの如く、だらだらと、ネチネチと…、これほど無様な男はあるまい。
小保方氏に踊らされたことを見抜けなかった天才笹井氏の不覚。これほど自尊心を傷つけられたことはかつて無かったろう。妻子も未来もかつての栄光も、それら一切を捨てて旅立って行ったのではないか。「私はコレ(小指を立てる)で、会社を辞めました」という懐かしいCMがあった。古今東西にあって、英雄の多くは女に騙されているのは、女が男の夢であるからだろうか。
確かに笹井氏は死んだ。長崎高1女子殺害の加害者の父親も死んだ。方や将来を嘱望された有能な科学者、方や豪邸に住み何不自由のない富裕層だり、地元の名士の誉れ高い弁護士。こういう人たちでも自らの命を絶つのだから、人間は不可解である。死ななければいけなかったのか?周囲は誰もがそのように思うが、彼らにとっては死ななければいけなかったのだ。
情報は少ないから想像するしかない。人はあいまいな情報に対してはそれぞれ自分なりに意味づけをし、自分の心を投影し、また、ある部分は誇張したりして他人に伝える。逆に情報が過剰な社会にあって人は知識に基づいた論理的な判断よりも、直感的なイメージで行動したりする。それほどに情報の取捨選択は至難である。将棋の棋士がコレと同じようなことを言う。
「指し手が多すぎて、とても読みきれないときは直観を大事にします」。人間は上手くできている生き物だと、つくづく思う。いずれにも対処できるよう脳が備わっているのだ。人間の抱くイメージなんて国際共通である。「小さいものは可愛い」、「大きなものは圧倒であったり、怖かったり…」、情緒的な物は似ているが、経験に基づく認知的なものは国や人種で異なる。
日本人についての研究で、「評価」、「潜在力」、「活動性」という三つの物差しのうち、主要な「評価」の物差しが、論理的(良い、正しい)と、情緒的(好き、快い)に分かれることは判っている。つまり、日本人は「正しいこと」と「好きなこと」は食い違うようだ。かつても今も、正しい知識に基づいて行動しようとする者と、フィーリング重視で行動する者がいる。
後者の方が多いかもしれないが、これは善悪というより、情報化社会の新しい認識の仕方であろう。最近富に感じるのはメディアのCMの変遷である。商品の機能や質といった中身を消費者に告げるにではなく、イメージ広告といわれるものが多い。イメージ広告とは、商品そのものや、企業を直接登場させず、消費者の感性に訴え、イメージづくりを狙う広告のこと。
最近は旅行カバンといえば、コロ付きのキャリーバック全盛である。コロコロ転がせばいいのだから、重くても苦にならず、便利この上ない。この商品のイメージ広告を作るなら、「バックを売るな、旅を売れ」となろう。このバックはアルミ製で剛性で軽い、中身はこんなになって使いやすいというより、「このバックであなたも楽しい旅をいたしましょう」と感性に訴える。
我々はイメージ戦略の奴隷と化していることになる。サブリミナル広告というのもある。サブリミナルとは「知覚限界以下」と訳され、サブリミナル効果とは、通常我々が明確に 認識している「意識」より下の部分、いわゆる潜在意識や、意識と潜在意識の境界領域 に刺激を与えることで表れるとされる効果をいう。アメリカでずいぶん昔だが、奇妙な実験が行われた。
ニュージャージー州の映画館で上映中のスクリーンに「コカコーラを飲め」、「ポプコーンを食べろ」という字幕が、瞬間的であるが、5秒おきに終始映写された。数十分の一から数千分の一という瞬間であり、顧客はだれもこのCMに気づいたものはいない。ところが6週間の実験期間中、同館内のコカコーラは18%、ポプコーンは57%も売り上げが上昇した。
サブリミナル効果は常に有効との確証は得られてはないが、「消費者の心を踏みにじる可能性がある」との倫理的理由で、アメリカでは実用を禁じられた。人間の欲求が高まると、それに関係する感覚は鈍くなる。「命より大切なもの」は、個々にみつけるべきであり、ないならないでいい。国家が、「若者よ!国のために命を捨てよう!」。などと、バカを言うでない。
国を守るのは己の権利を守るためで、その逆ではない。「お国のために命を捨てる」という日本的な家父長主義と混同であり、両者は対極にある。フランス革命に多大なる影響を与えたルソーは、「人は自由なものとして生まれたにもかかわらず、いたるところで鎖につながれている」とし、未来の革命家と改革者にこの鉄鎖の打破を訴え、以下の主張も展開した。
「真の自由は、個人の自我ともろもろの権利を含む全所有物を、絶対的共同体へ全面的に譲渡することにある」。これこそが、ルソーからレーニンに至る本質的に集団主義的、あるいは共同体的な真の自由についての解釈であった。人の命は国のものではない。お国のために尊い命を捧げた先人は、なんとも悲哀の時代に生を受けた人たちの悲劇かと…。