これについて少しばかり考える。「命より大切なものってあると思うか?」、「ある~」、「ないだろ」、「あるわけない」、「いや、あるような気がする」…。こんな他愛もない会話を幾度したことか。それ以外にも、「純粋なる愛はあるのか」、「人は中身か、外見か」、「皇室は必要か」、「神は存在する?」、「宗教は人間にとって何?」など、膝つき合わせて言い合った。
誰ともなく問題提起をし、それについて稚拙な議論で夜を明かす。高3の時は真冬の海水浴場の掘っ立て小屋で酒を10人近い仲間で飲みながら、「信じれるものは愛情か金か」みたいな言い合いを延々とした。執拗に酒を勧める級友に、「飲まんいったら、絶対飲まん!」と、一人だけ素面で応戦したのが懐かしい。飲める奴もいたにはいたが、飲めない酒を無理やり飲んでいた。
飲めない酒を無理やり飲むのが若さであろう。ガンとして飲まなかったのは、「自分は酒は飲めないんだ」というのを信じていたんだろう。祖父や両親がことある事にこういっていたからだ。「この子は絶対にお酒は飲めない子だ。こどものころに、イタズラにぶどう酒を飲ませたときに、真っ赤になってフラフラになって戻すは、寝込むは、ホントに大変だった」
もちろん記憶にないが、昔はどこの家もぶどう酒を作って床下に置いていたりした。置くと言うより隠すと言った方がいい。なぜか子ども心にそれが犯罪であるような仕草、言葉を理解していた。元来、地域がブドウの産地であったことで、酒好きな祖父が毎年ぶどう酒を仕込むを楽しみにしていた。近年、梅酒はどこの家庭でもおおっぴらに作るが、なぜぶどう酒はマズイのか?
理由は、ぶどうそのものを発酵させてアルコールを製造すると密造酒になるからだ。おうはいっても、作ったものを自分で飲む分には当局の関知するところではないが、親戚や他人に分けたり、宿泊施設とか飲食店で客に飲ませると違法となる。が、梅酒のようにぶどうをリカーに漬け込むタイプのものなら問題ない。とはいえ、その方法で造る梅酒でさえ40年前はダメだった。
酒税法による厳格な規定で、日本国内での酒類製造免許がない状態でのアルコール分1%以上含む酒類の製造は、原則禁止されている。これに違反し、製造した者は酒税法第54条により、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金が科せられる。かつては家庭においてリキュールを作る事さえ不可能な厳格な法律であったが、一部については規制緩和が行われた。
こんな事例もあった。、2007年6月14日、NHKのテレビ番組『きょうの料理』の「特集!わが家に伝わる漬け物・保存食~梅酒~」で梅酒のつくり方を放送したが、そのレシピに従って個人が梅酒をつくると違法となることがわかり、後日、謝罪放送がされるという事態となる。子どものころに、大好きな爺ちゃんや父が、何か悪いことをしているのは、自分の心を傷つけた。
と、同時にオトナは悪いことをするものなんだという社会体験であったかも知れない。あの時のオトナたちが陰でこそこそと、子どもには分らないだろうと言う見くびった言動を、子どもはしっかりと受け止めている。闇米行商を生業とする祖母は、夜も明けぬ早朝に起きてとんでもない量の米を背中に負い、乳母車にも乗せ、一番列車に乗って都市部に商売に向かう。
太平洋戦争中から戦後にかけて、米などの生活必需品は政府の統制下に置かれていた。「米穀通帳」なるものが幅を利かせ、家族構成などに応じて一定の配給を受けていた。これを「配給米」という。子沢山の家庭などでは配給米ではではとうてい生きて行けず、都市部の住民は郊外や地方に買い出しに出かけたり、農家も配給に供出していない米を金や着物など交換してうた。
これが「闇米」である。当然にして経済統制法令違反であるが、背に腹は代えられない事情もあって、お上の多少の黙認もあったが、運悪く警察の取り締まりに引っかると、闇米は没収された。今に思えば「闇米」は皆が必死で生きていた時代の風物詩と言える。山口良忠(1913年11月16日 - 1947年10月11日)という裁判官がいた。彼は一切の闇米を拒否、栄養失調で死んだ。
彼は1946年(昭和21年)10月、東京区裁判所の経済事犯専任判事となる。この部署では、主に闇米等を所持していて食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた。食管法違反で起訴された被告人を担当し、配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけない時代にあって、それを取り締まる自分が闇米を食べていてはいけないという自覚が強まった。
山口は着任と同時に闇米を拒否するようになる。配給のほとんどを2人の子供に与え、自分は妻と共にほとんど汁だけの粥などをすすって生活した。義理の父親・親戚・友人などがその状況を見かねて食糧を送ったり、食事に招待するなどしたが、山口はそれらも拒否、自ら畑を耕してイモを栽培したりと栄養状況の改善努力もしたが、栄養失調に伴う疾病が身体に現れてきた。
しかし、「担当の被告人100人をいつまでも未決でいさせなければならない」と療養を拒否。そして、1947年(昭和22年)8月27日に地裁の階段で倒れ、9月1日に最後の判決を書いたあと、やっと故郷の白石町で療養する事となるも、同年10月11日、栄養失調に伴う肺浸潤のため33歳の若さで死去した。山口の死後、妻矩子によって彼が生前に語っていた言葉が明かされた。
「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない。闇にかかわっている曇りが少しでも自分にあったならば、自信がもてないだろう。これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい。」
これを「命より大切なこと」と見るか…。山口良忠が職務に殉じたことを、そう見るか。結果的に見ればそうである。現に山口は、「死ぬかもしれない」と自らを案じている。そして、その通りに彼は死んだ。人は死ぬかも知れないとの思いが過ぎることはあっても、死を確信するまでには至らないだろう。100%死を確信した行為が、「命を投げ打つ」であろう。山口は職に殉じた。
山口の死は衝撃であったのは事実で、大きな論争を巻き起こしている。匿名の中年婦人、香典の一部にとして一千円を寄託して去る。美談として報道される。当時の生活基本賃金は千八百円である。山口の餓死に衝撃を受けた『暮しの手帖』編集代表大橋鎮子は、自分の家で取れた卵を40~50個集めて持参して、最高裁判所の当時最高裁長官だった三淵忠彦に手渡した。
その卵は病気で休んでいた裁判官たちに配られて、裁判官たちの命を救ったという。確かにあの時代、卵焼きは贅沢料理であった。また、マッカーサー元帥は、「裁判官として当然の義務をはたしたが、残念なことだ」としながらも、裁判官の独立を守る兼ね合いもあって、裁判官の給与改善を指示したとされる。賛辞で迎えられたわけではなく、賛否は当然にしてあった。
[批判的なもの]
・当時の首相、片山哲夫人の片山菊江は、夫妻の工夫が足りないと批判。
・たかがヤミ取締のような法に殉じるのは、ソクラテスも苦笑ものだとするもの
・馬鹿正直で少し変質者であるとするもの。
・決してほめられるべきものではないとするもの。
・山口の病床日記に、佐々木惣一は普通でないとし、長谷川如是閑は少し病的とした。
・当時の首相、片山哲夫人の片山菊江は、夫妻の工夫が足りないと批判。
・たかがヤミ取締のような法に殉じるのは、ソクラテスも苦笑ものだとするもの
・馬鹿正直で少し変質者であるとするもの。
・決してほめられるべきものではないとするもの。
・山口の病床日記に、佐々木惣一は普通でないとし、長谷川如是閑は少し病的とした。
[同情的なもの]
・判検事の生活苦を重大な社会問題であるとするもの。
・フェアプレーであるとして称賛しつつ、官庁を批判するもの。
・ヤミ取り締まりに当たる他の官吏の葛藤を紹介するもの。
・山口の死をソクラテスの死になぞらえて世人を戒める声を紹介しつつ、食糧事情の改善に向けて政府の努力を強く要請するもの。
・他の判事の苦闘を紹介するもの。
・上述の片山発言に抗議するもの。
・出よ第二の山口判事」として称賛するもの。
裁判官と言う職に殉じるために、「良心」を大切にしたのであって、結果的にそれで命を落とした。「命より仕事を大切にした」と感じる人もいようが、100%確実な死ではないゆえに自分はそうは思わない。職務に殉じる彼の「良心」は立派である。仕事ではないが、あの時代には子どもに食べさせ、自分は食べなくてやせ細って死んでいった母親は決して少なくない。
いわゆる名も知れぬ無名の市井人である。我が子に食べさせ、自分は栄養不良で死ぬのも「命より子どもを大切にした」と言えるかも知れない。それが親の本能であれ、愛であれ、「命より大切なもの」と置き換えられる。それは親子の情愛であり、そういう思考は自分にもできる。特段難しいことはない。自分の心臓をそっくり我が子に提供することで子どもが助かるならば。
「いやだ!」という親はいるかもしれない。が、親にしかできないことだ。燃え盛る火の中に飛び込む母親を母性愛と定義されたことがあった。父親は、状況分析をして判断するであろう。今、飛び込んだところで遅きに失すが冷静な状況判断であったとし、みさかいなく火中に飛び込む母親の非理性を非難はできない。母子一体感は、母親の方が勝るというものだ。
我が子の情愛はともかく、溺れる子を助けんと河川に飛び込んで命を落す人がいる。困っている人、苦難に喘ぐ人を救いたいのも人間の中のささやかな本能であろう。反面、自己防衛本能や自己保存本能もある。といいながらも、いたいけな子どもが溺れていたら助けたいという本能が勝るが、そうは言っても、咄嗟に救助に飛び込む人にも、泳ぎに自信がなければ無理だ。
溺れる人間は藁をも掴むというくらいに必死であるからして、救助は実は難しい。子どもの年齢、体型にもよるが、共倒れの多くは逆に溺れてしまうからだ。いかに泳ぎが堪能であっても、溺れる人を助ける技術は難しい。が、溺れる者は溺れさせるのが助けるコツであると知っている。とにかく溺れるものは頭を押さえて沈め、溺れさせてぐったりさせる。
ぐったりさせてでなければ、岸には運べない。自分は同級生の背中に負われていたし、その時はぐったりしていたことも覚えている。不思議なものだが、人間は死に直面した時の状況をまるで映像のように覚えている。おそらく、脳が特別な状況として、強い学習機能として、それを克明に記録しておくのかも知れない。特異な体験者はそのようにいう。「克明に覚えている」と。
脳は強い危機意識を忘れないのだろう。あくまで想像だが、多くの人の共通意識である。だから、自分はそういう場面に遭遇してみたいという意識は常にあった。部活で水泳をやっていたこともあり、泳ぎにも自信もあってか、人命救助に憧れを抱いている。志はあってもそうそうそんな場面はない。確かなことは、水際における人命救助には知識と冷静な判断が不可欠。
自分を助けてくれたAは、自分を溺れさせてぐったりさせたのではなく、自分がもはやぐったりして「ああ、このまま死ぬんだ」とまで思ったまでは覚えている。気づいたら彼の背中に乗っかっていた。その状況を詳しく知りたかったし、聞きたかったが、肝心のAがさっぱり覚えてないといったのには、驚いた。彼には人命救助という大それた意識は露ほどもなかったのだろう。
自分にとってAは命の恩人である。彼に命を助けられたと思っている。が、Aにその気はまったく無い。命を賭して自分を助けたわけでもない。なぜ、彼が自分を、どういう意図で助けようとしたのかを永遠に知らないままで生涯を終るしかないのだが、ことあるごとにAには意地悪をしていた自分だけに、謎は深まるばかりであった。「天野博満くん、君を永遠に称えたい。」
夏、海水浴の時節になると、いつもあの時のことと、天野のことが思い出される。もし、あの時に天野が自分を背負っていないにしても、誰かが自分を岸辺に連れて行き、人工呼吸で息を吹き返したかも知れない。それは「たら」であって、水中でもだえながらついには底に沈んで、発見が遅れていたかも知れない。いたいけな子どもの水難事故報道に胸が痛む。
『今昔物語』にこういう話がある。「暴風雨の影響で淀川の水域が大幅に増え、大氾濫を起こした年の話。川そばに小さな住まいを構える法師の一家があった。老いた母。法師。妻。そして色白で端正な顔立ちの一人息子。「目に入れても痛くない」とはまさにこの息子のこと、父は片時もそばから離さなず溺愛したが、淀川の氾濫で法師の家は一瞬にして流されてしまう。
下流にいた法師は無事だったが、突然の悲鳴に驚く。なんと愛するわが子が激流に流されているではないか。法師はすぐさま川へ躍り込み、間一髪でわが子を掴まえた。岸へ戻ろうとしたとき、今度は上流から老いた母の悲鳴が――。法師は一瞬、躊躇するも一度助けた息子を手放し、老いた母を助けに向かう。母を抱えて岸へあがると、鬼の形相の妻が待ち構えていた。
妻:「お前さんはなんだって今日か明日に死んでしまうあんな老いぼれを助けたりしたんだい!あんなに可愛いわが子を死なせるなんて、あんまりじゃないか!」
夫:「もっともだ。だが、たとえ明日死ぬとわかっていたとして、どうして老いた母を見捨てることができようぞ。われら二人がいれば、子はまたいつでも設けることができる」
法師はそう答えたが、妻は納得しない。妻にとってはお腹を痛めて産んだわが子である。が、法師を責めることはできない。自ら危うい身でありながら、溺愛するわが子を棄て、母を救わなければならなかった法師の苦しみを他人は推量できない。結果的に法師の選択は誤っていなかった。激流に流されていった息子は、下流の住人に救いあげられていた。