大阪府高槻市の物流会社の駐車場で13日深夜、平田奈津美さん(13)=同府寝屋川市立中木田中1年=の遺体が見つかった事件で、大阪府警は21日、寝屋川市に住む職業不詳の山田浩二容疑者(45)が関与した疑いが強まったとし、死体遺棄の疑いで逮捕した。行方不明になっていた星野凌斗くん(12)とみられる遺体が同日、同府柏原市の山中で見つかり、本人と確認された。
凌斗くんの遺体は山田の供述から得たのではなく、山田が竹林に立ち寄ったのを府警が確認し、近辺を調べたところ、同日午後7時36分に発見された。草が覆いかぶさった状態で男の子の遺体が見つかり、遺体の顔面には粘着テープ、手にも同様ものが確認できたという。山田が居住する寝屋川市香里新町のマンションでは21日夜、大阪府警の捜査員が家宅捜索を始めた。
京阪電鉄香里園駅近くの12階建てマンション。周囲はビルや飲食店などが立ち並ぶ地域で、山田は最上階の一室に居住していたが、同じ階に住む男性(75)は、「マンション内で見たことがない。あの部屋に居たことすら知らなかった」と驚いた様子。別階の主婦(70)は、「びっくりの一言。このマンションにも子どもが住んでいるので怖い」と表情をこわばらせた。
山田は平田さんと同じ大阪府寝屋川市に実家があり、仕事は福島に除染作業員を派遣する関東地方にある会社と契約していたという。会社の関係者は山田の印象について「挨拶がしっかりできて、真面目そうな人間。除染作業員は初めてではなく、経験者という印象を受けた」と話している。働き始めたのは先月中旬からで、契約は3カ月。給料は日当の形だったという。
山田は2002年4月にも、男子中高生を狙った監禁事件で大阪府警に逮捕されている。府警によると、寝屋川市の路上で男子中学生に、「寝屋川市駅はどこか」などと声をかけ、車中で手錠をかけて監禁した容疑などで逮捕された。他にも、複数の男子高校生らを粘着テープで縛って監禁した疑いなどでも再逮捕されている。いずれも男子ということは、男色志向もあるようだ。
山田の同僚の男性は取材にこのように言う。「事件のことはうなずける。なるほどね。山田はロリコン」。記者が理由を問うと、「(本人に)聞いたことがあるから…」という。う~ん、ロリコンであれ男色であれ、どちらも児童狙いの小心者であろう。オトナを口説くこともできないから、性的ターゲットを少女や少年に向ける心理は分からなくもない。
それにしても13歳の少女がこのような、無残な、鬼畜の所業といえるような、殺され方が過去あっただろうか?性的目的の少女殺しであろうが、憎悪感に満ちた猟奇的様相からして、2009年11月6日に発覚した「島根女子大生死体遺棄事件」を髣髴させる。殺害・遺棄された島根県立大1年生・平岡都さん(当時19歳)の遺体状況は、凄惨極まるものであった。
都さんはバラバラに解体されただけでなく、胸は刃物によってえぐり取られ、腹部は内臓の大部分が取り出されるなど。あまりの残忍さに警察内部でも、「被害者は人間以外の動物に食いちぎられたのではないか?」という意見が出たほどであった。また、胴体全体に焚き火などにより焼けた跡があり、顔には殴打された痕、左頬には足で踏まれた跡が付いていた。
通常の感覚を持つ人間ならとうてい直視することすらできない残忍さで、日本の犯罪史上でも類例のない、人間の所業とは信じ難い猟奇殺人事件である。このような状態で生涯を閉じなければならない本人の無念さならびに、親族・遺族の腹だしさは想像に絶する。本事件は捜査特別報奨金対象事件(300万円)にあるが、手がかりもなく現在も未解決のままである。
長崎高1女子殺人事件にも猟奇性はある。犯行に及んだ高1女生徒は、人の体の中身を見てみたかったと供述をしている。まあ、これを純粋な好奇心とするなら、自分にもあったから判らなくもない。そのために専門書・学術書は漁ったものだ。そのために人を殺す、あるいは小動物を殺して思いを遂げるという発想は皆無であり、命は尊いものである。
人を殺す人間とそうでない人間の差を単純に、"命の軽視の差"というのは違うだろうし、当然ながら罪を犯した我が身の行く末も思案するはずだ。人を殺したいとの衝動にあっても、我が身行く末を案ずるのが人間の理性である。名古屋大女子学生のように、「ただ、人を殺してみたかった」という動機のみによる無目的殺人というのは、精神に欠陥があるといわざるを得ない。
人を殺す、他人の命を奪うのが、人倫として最も許されざる行為である。せっかく賜った「命」であり、再生不可能でもあり、そのような命を無造作に他人から搾取されるのは、人間の最大の損失であろう。いかに金銭を積めども、命は再生できないし、お金に換算できないものである。「1億円で死んでくれないか?」、「命をくれるなら10億円出そう」と言われたとする。
そのお金を自分以外の誰かに手立てしたいという境遇にあるならともかく、いくら金を積まれたところで、そのお金を使えないなら命を売って何の意味もない。だから上の設問は意味をなさない。1兆円、100兆円積まれたところで人は命とお金の交換を拒否するはずだ。お金は確かに魅力的だが、いかに大資産家といえど、寿命半年と宣告されたら憐れでしかない。
明日の食い口に困るほどの貧乏人であっても、健康で余命を切られていない方が幸せに思う。豪邸に住む大富豪が余命6カ月と宣告されているなら、年収200万の人間でさえ彼を憐れむはずだ。快楽も喜びも、悲しみや苦しみでさえ、「命あっての物種」である。この世のすべてのことはそうではないのか?「命より大切なものがある」と、美辞をいう人はいうけれど…。
自分はいろいろ思考し、思索もするが、「命より大切なも」を未だ見つけていない。「志」であるとか、「愛」であるとか、観念的なものを口にすることはできるけれども、口にしたところでそれが真実だ、本当だと自身が言いきれるのか?言い切れる人がいるのは、おそらく思い込みであろう。「嘘も信じれば本当になる」というが、人間は言葉に酔うところがある。
「命よりも大切なもの」で検索してみる。あるある、その手の言葉、書籍の類。見ず知らずな人の思いや考えにわざわざイチャモンをつけるのは非礼というもの、だからそういうバカはしない。その人がその事を確信したかどうかは、正直人にはわからないが、その人の言葉を信じることはできるし、信じないこともできる。別に信じる人が、"人間として優れている"などと思わない。
"信じない人が心の歪んだ人"であるとも思わない。ある僧はこのように言う。「古来より、人間は『命より大切なもの』を見出してきました。親が子を慈しむ心。老人が孫を『目の中に入れても痛くない』と表すような心。恋人が相手を思う心。夫婦がお互いを思う心。それらはときとして、『自分の命より大切なもの』として、人間の心に懐かれることがあります。
なかでも宗教は、そういう人間の心の営みを、もっともよく表現してきました。『雪山童子』や『捨身飼虎』に示される仏教の物語は、他者の命を自分の命よりも大切にする菩薩の心を表しています。これらはいずれも、強制されたものではなく、狂信によるものでもありません。人はときに、強制されて、あるいは狂信によって、自らの命を投げ出すことがあります。
しかしそうではなく、強制されたのでもなく、狂信によるのでもなしに、人はときに、何ものかに命を投げ出します。(中略) 同じように、人間が『命より大切なもの』に出遇った事例を、わたしたちはたくさん知っています」。という事だが、説法と言うのは得てしてこういうものである。宗教が人間の理想であるなら、神や仏や菩薩の意思を伝えるのが宗教者の役目。
彼らが宗教者である以上、彼らの言葉は商売用語であり、それを疑うものではない。が、「命より大切なもの」の事例などは、多少なり人間の歴史を学んだものなら知っている。先にあげた織田信長の傅役平手政秀の諫死もそうである。命を賭けて主君の仇を討った赤穂浪士とて、死を覚悟の行為である。挙げればきりがないが、いずれも美談に収まっている。
命を賭けた行為が美談になるのは、「命より大切なもの」を見出した行為であるからである。なぜ美談になるかは、それが頻繁に行われないからである。誰もが命が惜しいからである。神風特攻隊が美談にされるのは、半分以上は国策であろう。国の無策を美談にする国家というのも、世界的な視点では笑止の行為であるが、実際にそれで命を絶った者がいるのだ。
それを「犬死に」とせず、国家の英雄とするのは遺族への配慮もあろう。が、現実的に考えるなら「犬死に」である。終戦後70年になろうかという昨今にあっては、特攻や玉砕で戦死した兵士の遺族も少なくなってきたことで、少しづつ戦争の真の実態が公にされはじめている。当たり前だが、「美化」の陰に「真実」が隠されていいわけない。ドイツを見れば分かることだ。
いかなる自尊の論理を述べたところで、下等と定めた異民族の大量虐殺が正当化されることはない。同様に神風特別攻撃隊も、玉砕覚悟の万歳突撃も、人命軽視の愚策である。広島・長崎の原爆投下も、非人道行為であるとの機運が高まってきた昨今、そもそも核兵器そのものが非人道兵器であって、それを使用するのが何故に非人道的行為でないのか?
所詮日本はアメリカ一国によって占領され、独立国といいながらも、手足をもがれた属国状態が続いている。「原爆投下がなければさらなる被害、さらなる人命が失われた」というヤンキーの独善論に抗えなかった。ヨーロッパの知識階層が聞けば、アメリカの論理など屁にも劣る言分けであるが、それが通用する日本人がいかにお人好しの非論理民族であることか。
今も昔も、日本の一国支配のために原爆を落とした、というのは世界の共通認識である。2013年8月、映画監督のオリバー・ストーンが来日した。彼は、最新作『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』(原題=『The Untold History of the United States 』)を引っ提げての来日であるが、20年来の知己で共著者の歴史学者ピーター・カズニック教授も一緒であった。
カズニック教授は、スミソニアン博物館のエノラ・ゲイ展示に抗議したアメリカ側の代表のひとりとして知られている。2人は広島と長崎の原爆追悼式典に出席し、オスプレイ配備で揺れる沖縄も初訪問、基地などを視察した。そして12日、東京の日本外国特派員協会で行われた英語オンリーの会見では、これまでの常識とは180度異なる歴史観を披露した。
「原爆に関して、我々は全てが間違っていることを発見した。(原爆投下についてアメリカでは)嘘をついたり、公式に否定したり、検閲したりしていた。トルーマン大統領は原爆投下の理由を、『狂信的に抵抗を続ける日本を降伏させ数十万の米兵の命を救うためだった』と繰り返し説明したが、実はこれは全て嘘だった」。とし、ストーン監督らは次のような見解をとる―
ドイツ降伏後、日本は和平を模索していた。アメリカが日本に原爆を落とした理由はソ連に衝撃を与え、アメリカの本当のターゲットがソ連であることを分からせるためであったというもの。カズニック教授も言葉を添える。「アメリカ人の85%は原爆投下を良い事だと考えている。アメリカだけは正しいと考える例外主義によって、正当化された根本的な過ちだ。
"丘の上の町(アメリカが世界の模範になること)"の考え方は、第二次大戦以降ますます強まっている。アメリカは帝国を拡大するためのJr.パートナーとして日本を扱った。60年安保と岸信介、72年の沖縄返還・核持込みと弟の佐藤栄作、この一族は日本の「Untold History」(もうひとつの歴史)上重要だ。岸の孫の安倍は、最悪のリアル・ヒストリー否定者だと思う。歴史を否定する者には普遍的なパターンがあって、勝者だけでなく敗者も歴史を否定する」と辛辣に語るカズニック教授は、アメリカでも日本でも、権力が歴史を歪曲していると皮肉った。ストーン監督は今回の作品に対して主要メディアの扱いが冷淡だったことを明らかにした。「番組はアメリカのネットワークでは一度も放映されず、主要メディアには無視された。
だが進歩的メディアはとても支持してくれた。NYタイムズやタイム誌から無視されたのは悲しい。主要メディアはアメリカ寄りでアメリカのスポンサーの方を向いている。アメリカ批判は企業の興味を引かないのだ」。大きな志を抱いたストーン監督が来日し、「日本が今直面している恐ろしい龍は中国ではなく、アメリカだ」の言葉を置いて本国に帰って行った。
2013年8月の彼の来日は、日本人を熱狂させたイベントのひとつであったけれども、2年後の8月…。原爆投下から70年の節目の夏、2年前のストーン監督来日の記事は、もはや一行たりともない。彼の存在はとっくに忘れ去られ、少女と少年の殺害事件がメディアを賑わせている。ストーンはアメリカの闇を浮かび立たせたが、「内憂外患」は、世界のどの国の持病であろう。