終章…、エピローグ。そういえばCHAGEの書いた「エピローグ」は好きな曲。が、今やCHAGE&ASKAは伝説のバンドになってしまった。ライブで遊び部分の多いCHAGEに比べ、ASKAという男はインタビューなどの受け答えもそうであるが、その熱血漢ただようステージに真摯な真面目さが溢れていたが、実生活はまるで逆だったようだ。人は見かけによらない。
今回のことも含めて、世の中は実にさまざまなことに満ち溢れている。先日殺害された女子中学生、行方不明のままの男子中学生…、彼らの深夜の徘徊を知って驚く保護者も多いだろうが、それにもまして中学生女子をあのような非道な、残酷な、殺害をする必要性がどういうところからでてくるのか?人を虫けらのように扱い、殺人を楽しむかのような行為である。
中世ヨーロッパの拷問の歴史を見るに、あるいは封建時代の日本の拷問の数々を見るに、何でこんなことが思いつくのかというくらい、人間は人間をいたぶることが快楽であるようだ。人はどのような過程を経て死に至る、生と死の狭間や境界線に好奇を抱くのは分からなくもないが、人は自分がされたくないことを人にして楽しむという、自尊感情を隠せない。
自分がされたくない事は、人にもしない、してはいけないという教育が徹底できないのも、人は唯一自分のみを生きるからだろう。仲間意識、連帯意識というのは、社会性動物という点における作為に他ならない。社会的自制心を取り除いた人間は、どんなことでもやれてしまう怖さがある。何事においても大きなことは小さなことの積み重なったことであろう。
だから大きなことには小さなところに目をくばせ、思考をせねばいけない。大人を理解するためには小人時代を遡って考える必要があように、大人は子ども時代の積み重ねである。何かが起こった!起こった事は大きいが、それでも小さいことの断続から大に至る。逆もまた真なりで、小さいことに無関心であるのはそれがひいては大事にいたるのである。
小さなボヤが大火事になるように、何事も物の始まりは小さなこと、ホンの些細なことでしかない。そういった小さな事をおろそかにしないことが大切だ。部下を叱ったり、子どもを躾ける場合、大きなミスや失敗より、小さなことに歯止めをかける目配せが大事である。なぜなら、大きなミスは本人が何より気づいているはずだし、わざわざ追い討ちを食らわせることもない。
むしろ、いたわりが必要だ。が、小さいミスは本人も気づかぬことも多く、これくらいのことは何でもないという意識になる。ましてや他人(上司・親)にさえ気づかない事も多い。真の管理者というのは、小さいことに気づく能力をもった人であろう。「小は大に増長していく」の原則からして、小さいことこそ怖いのは、将棋などを指してると実感する。
特に力のあるプロ棋士は、われわれが、「何でそのようなことにまで神経を使うの?」と思う事が多い。タカだか歩一枚の損失を悔やむなど、素人には理解できない。当たり前だが外から内はよく見える。具体的にいうと、外から家の外観や周囲は一望できるし、図面があればすべての室内を俯瞰できる。が、家の中から外は見えるか?見えないこともない。
しかし、窓から見る外の景色は、当たり前だが視界は狭まる。内から地平線や水平線をみることも、遠き宇宙の星々を見ることもできるが、内から内を見る視野は狭い。内から内を見渡せば数メートル先には壁がはだかっている。壁が50メートル先にあるような大邸宅は、ベルサイユ宮殿ならあり得る。とにかく言っておきたいのは、内から内は見えにくいということ。
会社内では誰もが、少々の悪事は平気でやっているし、内の者には内の者の悪事が見えない。お客を騙すことも利益とみればむしろイイことだったりする。ところが、会社を辞めて外から中を見つめた時、「なんとヒドイことをやっていたものだ」と思ったりする。企業や老舗の詐欺まがいの事件は、すべて確信犯である。赤福も、比内鶏も、「白い恋人」も、高級料亭「船場吉兆」も…
「西宮冷蔵事件」は象徴的であった。『雪印食品』がオーストラリア産の牛肉を国産牛肉と偽るために、箱を詰め替える偽装工作の現場になった冷蔵倉庫会社、『西宮冷蔵』の水谷洋一社長が、その実態を内部告発した。優良お得意様である、『雪印食品』を告発するなど、業務存続的には、「アホちゃうか?」と言われた。西宮冷蔵には関係ないこと、黙って冷蔵庫を貸せばいいだけと。
『雪印食品』の罪は産地偽装で利潤をあげるだけでなく、国の補助金(税金)をせしめる悪辣行為である。2001年、日本国内でBSE(牛海綿状脳症)が発生し、日本国内がパニック状態に陥った。スーパーなどでは牛肉の売上げが半減、焼肉店も打撃を受けた。政府は国産牛を扱う業者に対し、国産牛買取り補助の緊急制度を発動、国産牛の全頭検査もスタートさせた。
そうしたなか、輸入牛肉を国産牛と偽って補助金をせしめる業者が、予想どおり現れた。安い外国産牛肉を高い国内産牛肉に産地偽装し、買取らせてボロ儲け。こんな悪人はどこにでもいる。そんなおり、ピンチをチャンスとばかりに偽装を行った中に大手の雪印食品があった。一年前の2000年、雪印食品は集団食中毒事件を発生させてダメージを受けていた矢先である。
起死回生の満塁ホームランのつもりで産地偽装に手を染めた『雪印食品』。偽装作業は牛肉を保管していた西宮冷蔵に極秘メンバーを送り込んで行った。そのとき水谷社長は留守で、息子の甲太郎氏が立会い、雪印側の指示で在庫伝票の改ざんをした。息子から報告を受けた水谷社長は苦悩する。告発すれば大事な顧客を失うばかりか、最悪は倒産の可能性もある。
雪印側は、「絶対に告発はしない、するはずはない」と読んでいた。これが日本的取引の伝統であり、また、日本的な「義理人情の世界」でもある。が、雪印の思惑は外れ、西水谷社長は告発をした。2002年1月23日、西宮冷蔵の告発で雪印食品の不正が暴かれ、1月29日には雪印食品社長が即刻辞任、追って近畿農政局も告発、関西ミートセンターに捜査の手が伸びた。
そうして4月26日、この世から雪印食品株式会社が消滅した。ばかりか、偽装に手を貸した水谷社長の息子も咎めを受け、西宮冷蔵は営業停止を受ける。倉庫は空っぽとなり、従業員は解雇され、倒産同然の状態に陥る。その後も業界筋や監督官庁から嫌がらせがあった。あるだろうよ、そりゃあ。西宮冷蔵の告発は、双方にとって、「百害あって一利なし」である。
仕事をもらっている下請会社が親会社の不正を暴く事例はそれまでほとんどなかった。しかし、水谷洋一という人物が、その後の、「内部告発という時代の流れ」を作ったと言って過言でない。彼らが英雄気取りを持ち合わせていないのは明らかであり、よくないことをよくないという確かな目と、健全な心をもっていたに過ぎない。が、それができないのも人間である。
「長いものには巻かれろ」、「横断歩道、一緒に渡れば怖くない」、「朱に染まれば赤くなる」、などが示す人間の弱さ、意志薄弱さ、ご都合主義は大嫌いである。金魚のウンチじゃあるまいし、ただくっついて浮遊しているだけの人間が金魚のウンチ以上ではないのは当然である。「鶏口牛後」とは、(大きな)牛のケツでいるよりも、小さな鶏のクチバシであれとの意味だ。
以前と違って、昨今は権威が信用ならないものになっている。権威の元に従属していれば安泰というそんな時代ではない。悪いものを悪いとたてついて解雇されるのは、高度成長期に蔓延した終身雇用時代に比べて多くなったのではないか?悪いものは悪いと、それが友人であれ、親であれ、師であっても、最初は勇気を持って言ったりすると、勇気でも何でもなくなる。
特別に意識しなければできない事が、普通にできるようになる。自分は歯科医院のスタッフにも受付にも、「あなたが憎いのではないし、罪を問題にしただけだから…」と告げておく。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺は、ケツの穴が小さくて好きではないし、「罪を憎んで人を憎まず」の方が、人間としてのキャパを示す。確かに罪は憎むべきものであるかも知れない。
が、悔い改められたる罪ほどこの世に美しいものはない。それが人間の心の美しさであろう。過失や失敗を咎められ、かんしゃくを起こしたり、キレたり、そういう人間がいるが大嫌いである。彼らは注意してくれた相手に怒ることが、自分自身への誠実さと思い違いをしている。なぜそのようになるのか?バカだからである。バカは思い上がっている人を言う。
人に何かをいって諭すほど難しいことはない。それは他人と自分の価値観の違いの伝授であるからだ。しかし、人間には誰にでも物を考える頭がある。それを利用して考える人間もいれば、脳みそが腐った糠みそと同じように、考えることができない人間がいる。その差が人間の差でもある。何かが判るのは判ろうとする思考である。正しいことは押し付ける必要はない。
誤解なきよういえば、何でもカンでも人の意見に耳を貸すのがいいのではない。大事なことは自ら考えることと言った。人は自分の都合を人に押し付けたりするものだ。それがさも正しいと言わんばかりに…。これは世の常であるから、相手が誰であれ妄信的に従うのはよくない。だから、"押し付けバカ"と一緒にいて、はかならずもそれに染まると人間はバカになる。
自分の母が例にたがわぬ、"押し付けバカ"であったからよく分かる。小学3年生で見切ったからアレほどのバカが伝染しなかった。反抗のエネルギーは、「自分はこんなバカにはなりたくない」というものだったろう。歯科医院からは自分の紹介した女性宛に詫び状とともに、チャート紙が郵送されてきた。受付のTさんは確かに、「分かりました」と自分の言葉に頷いた。
そしてそれを早速実行に移した。「分かった」などのたった4文字言葉は誰でもいえる。言葉だけの人もいよう。言葉だけの人より少し上の人間は頭で理解した人であろう。さらに上質な人は、「分かった」を行為に移す。自分の思う本当に分かったは、言行一致の人をいう。だから行動なしに分かったなどは信じていない。まあ、人間は言葉の動物だから言行不一致が多い。
イヌに「お手!」を教えるときに、何回も何回も言葉で教える。イヌもいい加減頭に来てか腹で、「もう、うるさいな~、分かってるって…」と思ったとする。が、イヌは言葉の動物でないから、それを口に出して言えない。となると、イヌの本当に分かったは、実際にお手を動作で示すことで、それで人間はイヌの分かったを理解する。言葉のない生き物は純粋である。
言葉のない動物は、言葉と行動が不一致などありえないが、人間は100%言行不一致動物と自分は思っている。「いやよ~、いや、いや」と言うのは女性の専売特許であった。「ダメよ~、ダメ、ダメ」がエレキテルのおかげで小学生の女の子にまで浸透したという。本当にダメなら、ダメ、ダメいわず、「いいわ」と言っていいのに、軽く見られたくない女心であろう。
そんな女に振り回されながらも、男は徐々にではあるが女の心を掴んでいく。昔は「男は女を作る」、「女は男によって女になる」と言われた。♪あなた好みの女になりたい…、という歌詞がある。なかにし礼作詞の『恋の奴隷』。最近の若僧をみるに、♪あなた好みの男になりたい、何でも命令してください…、というヘタレが多いのか?女がそう望むなら男はそれでいい。
確かなことは、近年の女は主体的になったが、それは女の基本能力を喪失してしまっている。おそらく田嶋陽子らフェミニストや、フェミニズムの弊害であろう。女がすべてにおいて主導権を持つ時代は世を混乱させる。かつて『アマゾネス』という女性戦闘民族、女性主導社会が男を虐げていた。結論を言えば、女は政治や戦闘には向かないようになっている。
例外もあろうが、近年の脳科学がそれを明らかにした。真に聡明な女は、女と言う生命体の資質を知るのか、男に「かわいい」と思わせるその事で男に従属しながら、実はそれによって男を隷属させているのである。男はバカで正直だから、持ち上げられてやる気を出すという単純な生き物だ。それを知り、手の平であやすことが、真の男の操縦術であろう。
男を意のままに従え、我がままし放題の女を見るに、所詮それでは女はもたないのだ。男はどんどんバカ・マヌケになって行くだけである。それしたときに、遂に女は不甲斐ない男をみて、不満をこぼすようになる。「尊敬できない」、「行動力がない」、「だらしない」。と…、自分が作った男に不満を漏らす女に、つける薬などないな。あるとすれば『内股膏薬』か。