「歯科医院にて…序章」という昨日の表題だが、「歯科医院の文字が一文字もないではないか?」。確かにそうだが自分的にはその表題で書こうと思った記事だ。書こうと思った、で、書いたものが表題に合致していない?そこはまあ序章ということで…。気分的になぜか平手政秀を思い浮かべていた。したがって、今回の行動の主眼は実は諫死の思い入れがある。
当医院は院長も若く、純朴でえらぶったところもないし、懇切丁寧さも申し分ない。過去の歯科医院の中にあって、最もポイントの高い歯科医師である。それだけになんというのか、残念な部分もあるし、だから信長を諌めて腹を切った平手政秀が頭を過ぎった。幼少時から信長の傅役だった政秀は、織田家嫡男信長の破天荒な言動に頭を痛めていた。
父の柩にさえ抹香を投げつけた大うつけの信長、その教育係として全責任を負う政秀が、一向に所行改まらない主君に万策尽き、死をもって諌めたといわれている。どのように万策尽きたのであろうか?身なり・風采から大うつけと失笑された信長だが、父信秀死後、那古野城の旧臣たちは信長を見切って次々と去った。末森城の弟信行のところに走る臣もいた。
末森城は元は父信秀の居城であったが、とりあえず品行方正の信行が家督を継ぐ予定であった。筆頭家老である政秀は、この裁定に異を唱えることもできず、黙認するしかないという、それほどの信長の行状であった。信長は政秀の換言を無視し顔さえ合わさぬほどであり、自分の換言に辟易しているであろう信長に対し、ならばと思案の末に換書をしたためた。
「己の心を正し、人を正しむべし。しからずんば義心発せず。義心発せずんば、国を治めることできず」。政秀は周の武王の言などを引いて、延々五章にわたる諫書を書いた。万が一この書を読んで、信長に改心の兆しなくば自ら城を去る決意であった。政秀は諫書を書き上げると家臣にもたせて信長に遣った。ところが戻ってきた家臣の報を聞いた政秀は落胆する。
心血注いで書いた政秀の諫書に一瞥食らわせた信長は開けて読もうともせず、部屋の隅に投げ捨てたのだ。次に政秀は城を去ることにした。それなら心を感じ取ってくれるであろうとのいちるの期待があった。それも叶わぬならば…、政秀は一計を案じていた。信長からは何の沙汰もなく、周囲から聞こえるは傅役政秀への罵詈雑言と、相もかわらぬ信長えの悪評ばかり。
――もはや、これまで。政秀は、決断した。居間に入り装束を替え、床の間を背にして座ると脇差しを抜いた。己が皺腹に脇差しを刺し、そのままの姿勢で家臣を呼んで告げた。「このことを信長殿に伝えるがよい」。激しい痛みに耐えながら吐いた政秀の言葉を家臣は信長に伝えた。那古野城にいた信長は、報を聞くや裸馬にムチを打って駆けつけた。
政秀は虫の息ながら、信長の姿をみると腹に脇差しを突き立てたまま、上座を開けて言った。「信秀公より幼君傅育の命を受け、いつの日か信長殿が国を治める日の来ることを夢見た政秀で御座る」。政秀の苦痛にゆがんだ口元を見つめ、腹から流れ出る鮮血を目にした信長は、ようやく目を覚ます。そして言った。「すまなかった政秀。死ぬでない。」
政秀諫死のこの場面は、映画やドラマのハイライトとしてさまざまに演じられているが、真に何かを諌めたいなら本気の行動が相手に伝わらねばならない。言葉は便利だし、言葉だけを投げかけていればそれで済むというのが昨今の風潮であるが、自己犠牲を伴ってこそ真剣さというのは伝わるものだ。自らの死をもって換言という武士道精神に眩ゆさを見る。
信長はまさか政秀が切腹するなど、思ってもいなかったこと。だからこそ効果があったし、信長は以後反省し、将として、一国一城の主として、織田家の嫡男として精進して行く。本気さが本気さを生むというのはこういうことである。まあ、自分はいつも本気である。中途半端は好きではないし、いい加減なことは好まない。何事にも本気で向き合うが、それが楽しいからだ。
昨日は「怒り」における時間的変節について触れた。"喜びも哀しみもいつしか消え去る。怒りも一日経ったら忘れてしまう。自分などは怒りの継続は意識的に演じていることがほとんどであった。"と記しているように、「昨日の敵は、今日の友」的な節操のない自分も日本人である。だから、とりたて今回のことにかこつけて、自意識過剰な行為をしたのではない。
17日は、院長にも謝罪をされ、また歯の部位についての疑問や、質問に、数枚の写真を撮ったり丁寧に応対してくれた。受付のTさんも自分からのクレーム電話の後に、「チャート紙を渡し忘れないためにはどうしたらいい?」などとスタッフ皆で話し合ったという。許せないものはあってもいいが、許せるものは許すべきというのが自然である。が、これを許すと、本気が薄れてしまう。
受付のTさんとは最後にこういうやり取りがあった。帰り間際、「次回はいつがよろしいですか?」といつものように予約日時を問われた。「実は今日で終りにするつもりで来たんです」と言ったとき、言葉の意味をまったく理解できないTさんは、意味を取り違えて何やら訳の分からぬことを言った。そういえば彼女からは、「天然です。」自己申告を聞いたことがあった。
それはこんな状況をいうのかも。少しのやり取りの後、意味を理解したTさんが、「もうここには来ていただけないんですか?」と発した時の哀しい表情が印象的。患者とスタッフを越えた人間関係が1年超で芽生えたのは自分も彼女も同じであったろう。「やはり、チャート紙をお渡ししなかったからですか?」と、か細い声で彼女が尋ねる。それしか原因は見当たらないだろう。
「いや、ミスは問題じゃないよ。その後の対応が自分的にはちょっと納得行かなかったかな」。「よければ教えて下さい」とTさんは知りたがった。「あの時クレームの電話を入れたろう?それでどうした?何も行動しなかっただろう?それじゃ、ダメなんだよ。先生にもすぐに言わなきゃダメっていったろ?もし、自分なら『すぐに郵送しなさい』と指示を出す。
そういう手際の良さというか、それこそがミスを起こした顧客に対する誠意と思うな。そういう発想が誰にもなかったことに驚いたし、これは接客業として最低レベルの対応だ。あなたたちの誰ひとり、チャート紙は顧客の自宅ケアにあっては大切なんだ、との意識がないんだろうな?つまり、顧客は歯科医院の商売の金ズルという意識をモロに露呈させたことになる」
「そうですね。そうだと思います。次回来院した時に渡せばいいという気持ちしかありませんでした…」。Tさんは正直にいったが、心は行動に出るからそういう場合は繕った言い方はすべきでない。彼女は正直な人である。「受付はね、笑顔で迎えて、笑顔で送り返すだけじゃただの飾りだね。もちろんそれも大事だけれど、お客様に対する不備をなくするのが最も大事。
忘れ物や抜かりがあっては、せっかくの笑顔も、台無しだろう?」。受付のTさんは、目を丸くして真剣に聞き入った。「他にはないですか?」と、催促する彼女には熱いものを感じたが、待合には他の患者もいるし、長々と立ち話もよくはない。「あるよ、Sさんから聞いて」、そういって、「せっかくいい応対なんだし、ミスしないよう頑張って」と握手をして医院をでた。
「ありがとうございました。でも…、遊びにでもいいから来て下さい」。この言葉は意外だった。歯科医院の受付が患者に「遊びに来て下さい」と言い合える関係が成されていたのだなと…いや、それ以上にそんな言葉がでてくるのは彼女の人柄であろう。受付というポジションを間接的にではあるが、否定された相手にこういう言葉を言える人は、前向きな人間であろう。
少しの批判でも責められたと感じて、憤慨したり、逆ギレする人間が多い昨今である。が、彼女の人柄は最初に医院を訪れたときから目を見張るものがあったし、そのこと自体は間違ってはいなかった。彼女の心から自然にほとばしる笑顔、愛想のよさが、逆にクレーム処理には生かされないのかも知れない。人を包み込む包容力のある人間は、クレーム対応が苦手であろう。
そんな風に考えると、自分がチャート紙を取りに言った時に彼女が、「わざわざ取りに来られたんですか?」と吐いた言葉はむしろ善意な、あるいは素朴な疑問であったのかもしれない。が、即時対応としては大いなる誤解を生む、間違った応対であろう。ミスにはミスしたなりのマニュアルがあり、それに乗っ取ってやるべきである。こういう誤解は親しき人間関係にままある。
馴れ合った人間関係が構築された夫婦や恋人や友人などにあって、ちょっとしてミスとか粗相があった時に、いつも通りの馴れ合った雰囲気の言葉を発した時、相手が立腹したり、むかついたり、機嫌を悪くすることはある。「そんな失敗しておいて、ごめんなさいもいえないのか?」と、突っかかられた経験、あるいは突っかかった経験はおありだろう。
親しさ、馴れ馴れしさゆえに、つい「ごめん」と言う言葉をはぶいてしまう。「ごめん」が言えないのではなく、言わなくてもいいような、言うと逆に仰々しいような、そういう瞬時の判断から省いてしまう。そういった人間関係の機微は少なからずあるはずだ。チャート紙を渡し忘れたミスは念頭にないままに、「わざわざ取りに来られたんですね」と労をねぎらったのだろう。
今にして思えば、Tさんの性格、天然気質からしてそう確信する。が、自分はあくまでサービス業という見地からの対応で彼女を責めた。夫婦といえども、恋人といえども、親友といえども、親子といえども、兄弟といえども、別の視点でみれば他人である。「親しき仲にも礼」というのは、中々出来るようででき得ない。難しいシチュエーションであったりもする。
そのようなことで、突然トラブルになるからだ。もし、自分とTさんが普段から雑談もしない、単に医院と患者だけの関係なら起こらなかった事象であろう。彼女はあのような言葉を言わなかったかもしれない。確かに労をねぎらった言葉に思う。が、自分がそれを歪めて取ったのではない。顧客と医院と言うだけの視点で取ったことが、問題を大きくした。
「夫婦といっても他人だろう?」、「友人といっても他人だろう」と、片方が受け取ったときに問題は起こり得る。単純に双方の思い違いである。確かに夫婦はある時突然他人になる。元は他人なのに夫婦で気取っているだけだ。それならずっと夫婦でいればいいのに、ある時、どういう虫の居所の悪さがそうさせるのか、突然他人になって相手を詰る、罵る。
「誰でも人は、結局のところ、自分自身を体験するだけだ」。これは『ツァラトゥストラ』の言葉である。自分は他人を体験しない。他人も自分を体験しない。誰であっても自分自身を体験する以上のことを人は成し得ない。二人が別々のものを見るのが人間の常である。これを中国の古典で『同床異夢』といった。が、人間が摩訶不思議なのは、『異床同夢』もあるということ。
離れていながら同じ夢を見、近くにありながら違うことを考える。人間にはさまざま肩書きが用意されている。特に夫、時に友人、時に父親、時に顧客、時に隣人、時に上司、時に部下、時に同僚…、一人の人間に含まれる様々な肩書きに人は時々成り代わる。夜空の星のような、恒星としての不変な安定感はない。『星のモラル』(ニーチェ:『喜ばしき知識』より)
『星のモラル』
お前に運命の軌道を行け
星よ、闇がお前に何のかかわりがある?
………
お前に大事なただ一つの戒めは―――純粋であれ
人間はあまりに小さき存在だ。だから闇に揺さぶられ、ついには闇に負けてしまう。「揺れる想い」に抗うときは、既成の事実を作り、それに浸って行動するが良かろう。昨日の怒りは今日は消え、人は明日はどうするのだろうか。時間を置いて多角的に思考すれば新たな真実が見えてくる。「一つの事実に多くの真実がある」というが、まさに正しい。
人はある事をある側面だけをみて結論する。ものを考えることが大事なのは、だからである。思考の末に「わかった」という快感は確かにある。が、「わかった」というのは快感である以上に大事なことがある。それは「正しさ」を導いたこと。「正しさ」はなぜ必要か?それは、世に多くの間違いがあるからだ。むろん、間違いがあるから「正しさ」はあるのだが…