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歯科医院にて… 序章

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人間には「喜怒哀楽」という情動がある。いや、人間だけでなく動物にだってあるのを感じる。動物といっても、カエルやカブトムシではなくて、イヌ、ネコ、ウマ、ウシなどのいわゆる高等哺乳類である。イヌの喜ぶ顔に癒され、ネコの甘えたしぐさに人は癒される。「走る」を宿命づけられた競走馬サラブレッドは、涙を流しながら騎手のムチの応えて走るという。

闘牛は残酷である。なぜスペイン人はあのような牛の公開処刑を娯楽とするのだろう。それをいうなら、食肉にされるために飼育される牛・豚も同様である。アジやマグロとて同じこと。食文化も含めた「文化」というのは昔から引き継がれてきたものだけに難しいものだ。動物愛護団体はしきりに闘牛廃止を訴えるが、そういうものが無かった時代から闘牛は始まった。

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反戦運動など無かった時代から戦争もあったように、いいものを継承し、よくないものを閉ざしていくのも人類の進歩であろう。「食肉は残酷だ!」、それは分かる。確かに人間が同じ目に合うならやりきれない。よくは知らないが、『進撃の巨人』という作品は生きた人間をシシャモのように頭から食っているし、人と猿を逆にした映画『猿の惑星』はショックであった。

「喜怒哀楽」とは、四つの情動だけではない人間のもつ様々な感情を、四つの言葉で表したものである。喜び・怒りと、哀しみ・楽しみという相反する言葉がセットになっている。これ以外にも妬み・蔑み、威張ったり、自慢したり、陥れたり、多くの感情を人はもっている。が、それはむしろイイことである。様々な感情に支配されるから、いつまでもくよくよしない。

喜びも哀しみもいつしか消え去る。怒りも一日経ったら忘れてしまう。自分などは怒りの継続は意識的に演じていることがほとんどであった。子どもを叱ることも、部下を叱ることも、感情を露にして叱ることはなかった。どうせ叱るなら相手のためを思い、相手にプラスになるような適切な言葉を探そうとすること自体、冷静になっている。「怒る」でなく「叱れ」と言われる。

言われるまでもなく、自分はそのようにしていた。それは上の者の下の者に対する愛情であろう。ところが、そんな自分が感情を剥き出しにして挑む相手は、上位者であった。親であり、教師であり、司直であり、あるいは上司であり、地域の長老などには、感情を抑えることなく挑んだものだ。なぜなら、彼らは権威者であるからだ。自分は権威主義的なものを好まない。

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なぜか?自由人でありたいからで、権威は人の自由を押さえつけるものでしかない。正確にいうなら、権威が重要であるのは認めるし、男の権威、夫の権威、親の権威は十分に活用した。だから権威を批判するのではなく、権威者が必然的に有する権力を批判した。自力を持ち合わせない無能者が、権威にあるからといって威張ったり横暴な態度や言葉が許せない。

権威に相応しき者は、それ相当の力量なり能力にあるなら認め甲斐がある。権威を信奉する奴はいる。たくさん出くわした。そういう奴らは自分と同じように人は誰も権力志向と思っている。無能者が権力を振りかざすのはまさに茶番、自分からすれば見ていられないが、学歴・職歴・社会的地位如き何がしかの権威を持つだけで、偉くなった気でいる奴はいる。

おそらく自分の反権威思考は親への反発から得たものと察する。権力に組しない、妥協しないことで多くの摩擦もあった。トラブルもあった。友人との喧嘩もあったし、ボヤ的な言い合いも多数あった。30年位前だったか、こういう論争をした。相手は当時自動車会社マツダに勤務する東工大工学部出のエンジニアであった。東工大といえば菅直人が浮かぶが、腹黒さは同じである。

当時、自分は子どもをピアノコンクールに出し、それでレベルの客観的な基準を判断していたのだが、数人での会話の中で腹に据えかねた何かがあったのだろう彼が突然こう息巻いた。「権威主義を嫌うなどと偉そうにいいながら、子どもをコンクールに出すって矛盾してるんだよ。コンクールこそ権威の象徴だろが!」自分のどういう言葉が彼をキレさせたかは分らない。

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が、明らかなのは彼が権威主義信奉者で、自分は権威主義嫌悪者であったこと。自分は彼の場違いな考えに呆れてこういった。「"物は使いよう"という言葉を知ってるか?刺身包丁は人を殺す凶器にもなる。コンクールが権威かどうか、そんなことは利用する側の問題よ。子どもはピアノ教室に通ってるわけではない、発表会もない、家でちんたら練習するだけで面白いか?

お前もバンドをやってたというが、どこかで披露することができるから練習にも身がはいるんじゃないか?コンクールは順位をつけるが、発表会すらない身の上で、人前で練習を披露できる喜びであることを理解もできない決め付けはみっともないわな」。これに対して彼は言葉を返せなかった。返そうにも返す言葉がなく場がしらけ、他の誰かが気を利かせて場を収めた。

「絶句」というのはあのような状態をいう。女なら非理性的なくだらん言葉を探して絡むのだろうが、それをしないだけ男はマシだし、理性的である。自分は論理で彼を攻めたのではなく、自身の本心を言っただけで、それだけに彼は対抗する言葉を模索できなかったのだろう。「つまらん事で楯突こうとする奴がいるもんだ」と、ほとほと呆れ顔であったし、それに彼は屈した。

言い合いや対論はネット等で文字だけでなされる場合もあるが、実際に顔を突き合わせてやると、その表情や、言葉のトーンや、やれやれ感、みたいなもので相手を制することはできる。感情的な相手に感情的になるのはガキの喧嘩、自分は母親とのバトルで、「何でこの女はこんなにバカなんだ?」と、「やれやれ感」満載で言い返すように成長した。

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人を見下すというのは好きではないし、人間の傲慢さであろうが、超絶傲慢な人間に対する対抗手段としては、いかに多くの言葉、いかに荒げた声はまったく無意味であるを知った。そのような人間こそ見下してハナであしらうことが勝利である。まあ、勝った負けたというより、縺れたうるさい糸をほどくのは無理であり、そのままゴミ箱に捨てるのが正解と学んだ。

子どもに対して、「怒らないで叱る」を実行する親は、権力を剥き出しにする親ではないという点でも評価できる。教育書や躾書には「これが大事である」と書かれている。にも関わらず、「分かっているんだけど、つい…」と言う親は多い。なぜできないか?そういう経験をたくさん持たなかったからであろう。自分は幼少期から日々母親とのバトルであった。

したがって、バカへの対抗手段は言葉を荒げることではないと言うのが身についた。相手が興奮するほど滑稽にしか見えない。だから、「分かっているんだけど、つい怒りにかまけて言ってしまう」は理解できる。相手は年端もないガキんちょであっても、そんなに簡単に冷静にはなれないのも分かる。だから「怒る」を抑えて「叱る」が難しいのは大いに分かる。

後は訓練するしかあるまい。子どもと同じ目線で言い争うなどもはや親の権威は吹っ飛んでいるのだ。「お前って、何でそんなに冷静なんだ?」これはよく言われた。おそらく喧嘩の奥儀を経験によって身につけたからであろう。そうではないかくらいしか分らない。とにかく、くだらんことでムキになったり、怒ったりの相手は、すべてオカシイ、オカシク見える。

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「くだらないもの」の「くだらなさ」を見極める目も必要になるが、人間の存在が結構くだらないものであったりする。もちろん、自分も含めてだ。ここも大事で、自分を含めた人間全般がくだらないと思うからこそ、秀でる人間、秀でる言葉、秀でる行動が目に付く。それは素晴らしいと称え、評価することもできる。坂口安吾が『堕落論』で唱えたことがそれだ。

「人間はこれ以上堕ちないところにまで堕ちきることが大事」と言った言葉の真意は、そこから本当にいいもの、正しいものを見極める目を養えるということ。上にいると、上にあると思うと、下がくだらなく見えるが、実はそれは正しくない事が多い。思い上がりであったり、傲慢であったりするだけのものが多い。そうではなく、自分を下において上を見る。

周りを見る。下も見る。下から眺める上は上、下から眺める対等は対等、下から眺める下も対等。そういう対等意識なら見下すことなく意見はいえる。下を年齢や職種や貧富や、それこそ顔や身長などの身体的な優位性などを引っ張り出したり、同列の人間に対しても、わざわざ何やら優位的なものを探して見下すことで、独善的な差異感に浸る人間は多い。

一切が人間の弱さであろう。自分が脆弱であるから、相手の荒探しをすることで自尊心を維持する。これが人間の本質だろうが、そこから目をそらすことで脱却できる何かがある。人間の本質に甘んじ、「人間はこうしたもの」と分かるならそこから出るのも良しではないか。「人間は欲だからしょうがないよな」、「親は"親バカ"っていうくらいだから仕方ないよな」

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こういう安易さに問題提起はあっていい。後は己を「利」する何かとの戦いであろう。「利」するを良しとすべきか、「利」するをくだらんとすべきか。それが「くだらん」ものの見分けであり、だから「くだらん」ものは人によって大きく違う。「くだらん」ものを絶対的に定義はできないが、思い込みで無く、論理思考の末の「くだらん」ものは、ある意味尊い。

いい大人がゲームに時間を浪費するのがくだらんと思うのはある種の成長かも知れない。それは、思春期の少女がジャニーズにはしかの如く嵌まるように、あるいは不良を自負する者がいきがっていた「族」がバカらしくなるように、人に迷惑をかけることがカッコいいなどと思わなくなったことと同等の成熟であろう。一切が自省であって、人には強要できない。

自身の成長(成熟)などというものは、そういう程度でしか認識できないものかもしれない。いいと思ってやっていたことが、客観的にみて「くだらん」、「バカげている」が成長ではないかと。性欲の強い主婦がいつしか「浮気」をくだらんと思う日は来るし、それは年齢的な体力の衰え、性欲の減退とは別の、新たな価値観に移行することでなされる場合もある。

女アサリを卒業した多くの男の理由は、体力よりも面倒くさいが優先する。時間と金と情熱をかけるものでもなくなった、いいかえると穴に飽きたということだ。「飽きる」と言うのは何もネガティブなことばかりではない。バイアグラを飲んで勤しむ男は、やり足りないのだし、若い時期を仕事に捧げたなら、それはそれで結構なこと。青春をバイアグラで取り戻せばいい。

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人の「生」はそれぞれ異なる。だから、人を笑える人など本当は存在しない。人が自分の「生」を基準に考えなければの話。人を笑うことは、単に人の表層を見ているだけかもしれない。そう考えるのが哲学である。『ツァラトゥストラ』は到底人間の思考とは思いもよらぬ、聖書にもました神の言葉と思える言葉がふんだんにある。読んでいてただただ圧倒される。


「わたしは森を愛する。町なかは暮らしにくい。そこには、発情した者たちがあまりにも多くいる。殺人者の手中に陥るほうが、発情した女の夢の中に陥るより、ましではないか?さあ、これらの男の有り様を見よ。彼らの目はこう言っているのだ――自分たちは女と同衾(sex)するよりマシなことは、何も知らない、と。彼らの魂には泥がある。 ※ 同衾後の括弧は筆者加筆

そればかりか、彼らの泥がさらには精神を持っているとは、わざわいなるかな!どうか君たちがせめて動物として完全であってくれるとよいのだが!だが、動物には無邪気さがつきものである。わたしは君たちに、君たちの官能を殺すよう勧めるであろうか?わたしは君たちに官能の無邪気さを勧める。わたしは君たちに純潔を勧めるであろうか?

純潔は、若干の者たちにあっては一つの徳であるが、多数の者たちにあってはほとんど一つの悪徳である。これら多数の者たちは、なるほど禁欲はする。しかし、彼らがなす一切のことから、肉欲という雌イヌが嫉妬の目を覗かせているのだ。(中略) 純潔を保つことの困難な者には、純潔を断念するよう勧めるべきである。純潔が地獄への道へとならないために。

わたしが不潔な事柄について話しているというのか?不潔な事柄について話すのは、わたしにとって最も厭わしいことではないのだ。真理が不潔なときではなくて、それが浅いときに、認識者は真理の水に入りたがらないものなのだ。まことに、心の底から純潔な者たちがいる。彼らは、君たち以上に、心から温和であり、君たち以上に、快く笑い、また惜しみなく笑うのだ。

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彼らは、純潔をも笑いものにして、尋ねる。『純潔とは何だろう!純潔は愚かさではないか?だが、この愚かさがわれわれのところへ来たのであって、われわれが愚かさのところへ行ったのではない。われわれはこの客に宿と心を提供した。いま彼はわれわれのもとに住んでいる、――彼の望むだけ長く、滞在するがよい!』。このようにツァラトゥストラは語った。」


自分の書いたことは、『ツァラトゥストラ』と同じ意味(のつもり)である。が、『ツァラトゥストラ』の言葉は、なんと崇高に満ち溢れているであろうか。聖書がこんにち、これからも読み継がれていくように、聖書の言葉とは対極的な、しかも、一切の虚妄と欺瞞を廃したニーチェの、『ツァラトゥストラ』も、未来永劫、読み継がれていくことだろう。


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