本格的に哲学に興味を持ったのは、30歳を過ぎた頃だったであろうか?それまでカントやサルトルの著書に触れたことがあったが、カントの『純粋理性批判』などは難解すぎて挫折。カントは小学6年生の教科書にローマ字で登場した。「Hora kanto sensei no otōri da,sā gakkō e iku jikan dayo」で始まる2ページの文章は、何度も素読みしたのか、今も忘れない。
ローマ字にもいろいろな表記がある。我々が教わったのは、「gakkō」だが、「gakkoo」、「gakkou」、「gakko^」などの表記もある。我々は言葉では、「がっこー」と発音するが、文字では「がっこう」と書く。よって、「gakkoo」でなく、「gakkou」と表記する。では、「susi」と、「sushi」はどちらが正しい?これはヘボン式ローマ字、日本式ローマ字の違いである。
ヘボンことジェームス・カーティス・ヘボンは、幕末に来日した宣教師で、初の和英辞典である『和英語林集成』を編纂した。つまり、なぜ「gakkoo」、なぜ「gakkou」、なぜ「gakkō」なのだ?と、考えるのも初歩の哲学である。哲人ソクラテスは、「哲学は疑いとともに始まる」と言った。というように、哲学は疑問であり、疑問をないがしろにせず、突きつめたものである。
「哲学など何の役にたたない」という人はいる。功利優先からみると、確かにその面はあるが、仮に哲学が何の役にも立たないものなら、哲学など、との昔に絶滅したであろう。ソクラテスやプラトンやカントの名も知ることもなく、人間の頭脳が難しい哲学用語や、論理に煩わされることもなかったし、その方が人間にとっては幸福であったかも知れない。
しかし、哲学は人間と言う動物の避けられない宿命である。なぜなら、ものを考えない人間はいないからである。よって、ひとたびものを考え始めると、「より広く」、「より正しく」、「より深く」考えることを目指すようになり、ついには哲学に突き当たる。このように、ものを考えるという心の働きがなくならない限り、人間は哲学から解放されることはない。
電車に乗ると大勢の人が携帯でゲームをしている。じっと瞑想に耽る人もいる。ゲームなどして何の役に立つのか?また電車内を見渡すとカープのユニホームに身をまとった「カープ女子」といわれる女性ファンが選手の応援に球場に向かう。そんなことが何かの役に立つのか?野球観戦に私服ではダメなのか?これらと、「哲学が何の役に立つ?」はまったく同じ疑問である。
ある女性はいうだろう。「好きな選手を応援するのは、ハートにズキズキくるけど、哲学なんかメンドクサイだけでしょ?」これはいかにも女性的な感性である。誰も嫌なことを時間とおカネをかけてはしない。プロ野球観戦も、選手の応援も、大脳酷使で考えるのも、すべては楽しさである。何かの効用をもとめるものでもないし、思考も享楽に過ぎない。
古代ギリシャ時代から二千数百年以上にわたって、哲学書が書かれ、これを読む人が絶えなかったのは、ひとえに哲学に何らかの「功徳」があったからであろう。したがって哲学は、「享楽」でありながら、「功徳」であり、その「功徳」が何かを考えてみる。まず、カントやパスカルやニーチェがこんにち読みつがれている理由は、著書が人に感動を与えているからだ。
自分も哲学者の異名である、「哲人」という言葉に感動した。近年、「哲人」は、知恵がすぐれ、見識高く、道理に通じた人。と解され、哲学者でなくとも、「哲人」と称されている。「メ~テレ」の愛称「名古屋テレビ」に、『哲人の告白』(毎月曜日:夜6時56分)なる番組がある。番組キャッチコピーは、「"哲人"とは自分の哲学をもって時代に立ち向かう熱き人」。
ちなみに8月17日の哲人は松本丈氏。知らない人だが、プロフィールと、「人との繋がりを大切に福島を盛り上げたい」という題目がある。ソクラテスと同等の哲人ではないが、現代社会において、"自分の哲学をもって時代に立ち向かう熱き哲人"なのだろう。いわゆるバラエティー茶の間番組だから難しい構成にないが、出演者自身"哲人"は恥ずかしいかも…。
30歳を過ぎて本格的に哲学に興味を持った、と書いたが、本格的という言葉も羞恥であり、"ちょっとばかし"としておこう。先ず手にしたのは、ニーチェの、『ツァラトゥストラはかく語りき』である。「ツァラトゥストラ」って、何とも妙な言いにくい名前だが、一体どこの誰?これは、「神は死んだ」のニーチェが、「真理への誠実さをも持つはず」との理由で登場させた。
ツァラトゥストラ(Zarathustra)は生没年不詳。古代ペルシアの宗教家・思想家で、ゾロアスター教の開祖。英語読みでゾロアスター(Zoroaster)、ペルシア語でザラスシュトラ(Zarathushtra)。同書は哲学書というより、小説や神話風な文体で、文学史上に影響を与えている。ニーチェが功徳者としてツァラトゥストラを選んだ理由が、『この人を見よ』にある。
それによると上記の、「真理への誠実さ」と、「道徳についての経験を最も積んだ者であり、道徳の矛盾を最も知っているはずだ」という理由のようだ。非常に難解な文章である。文学的素養のない自分が、かつて幸田露伴の小説『五重塔』で挫折したように、『ツァラトゥストラ』は、のめり込まなければ、到底読みきれる内容ではない。おまけに1000頁を超える分厚さ。
さらに哲学書の類は、オペラ同様に好きでなければ目、耳、頭からも離れるであろう。物静かな秋の夕暮れ、好きな本を一心に読みふけるような、何やら名状しがたい懐かしさの記憶はある。そんな気分は多くの人に残っている。人はみな哲学者であり、幼い頃からの様々な思考や体験が、現在の彼(彼女)を作ったし、それぞれの年齢で難しいことを考えていたはずだ。
疑いを知らぬ幼児が、疑いを抱き始めた時点で哲学を始めている。疑うこと、解き明かそうとすること、そのための思考である。巨人ニーチェの大洪水のような哲学は、弱小人間の思考も経験も、観念の器さえ、はるかに超えるものである。ところが、いかに小さな柄尺であれ、大海の一滴は汲むことはできる。一滴を容器に入れていけばいつしか満杯になろう。
現代社会で、「男らしさ」とはマツコのような人間かも知れない。物怖じなしにズバっと物事を捉えて口に出す彼。しかし、旧世代人たる自分らに言わせると、「なぜ男があのような恰好をするのか?」、「せねばならぬのか?」は、ほとほと疑問である。男が女物の洋服を着ても性的には男であろうが、男が女物を着る動機は、女物に憧れるからであろう。
男が性的に女に憧れるのは、むしろ男ゆえにであるが、女物着衣に憧れ、女言葉を駆使するのは半分女ではないのか?その意味で、マツコは男臭い男ではなく、香水の臭い漂う女臭い男であろう。男は男の成りをせねばならない決まりはないが、芸能界という特殊なイロモノ世界では許されても、実社会で男と女は、施設などあらゆる点で分離されている。
したがって社会は男か女か色分けするところで、差別と言うより区別である。いかにオカマといえど、女子トイレ、女子湯には入れない。そういうときには100%男でなければならない。確かにかつての、「男らしさ」、「女らしさ」という「らしさ」の概念は現代社会で崩壊したが、男が、「男らしい」男に憧れ、「女らしい」女に憧れるのは、生殖という基本本能のたまものだ。
男の女装、つまり異性装が気持ち悪がられる理由を哲学的に示すなら、「繁殖こそが異性に憧れる目的という生物学的本能に対し、異性装は異性への憧れを歪んだ形で表現している」からであろう。大事なのは、善悪ではなく「歪み」であって、コレは実社会的男女の存在要件を歪めている。男が見るからに女装で外に出て、ジロジロ見られるのは当然である。
異性装にはそういった、「期待を阻む違和感」がある。相撲の関取がマワシだけで街を闊歩したところで、さほどの違和感はないということだ。教育者といわれる教師が、説教を説いて歩く僧侶が、不道徳な行為で逮捕されたというなら、これも「期待を阻む違和感」として拒否される。美輪明宏や池端慎之介(ピーター)がゲテモノと言われたが、現代人は慣れてしまった。
オカマにも慣れてしまった。今後、時代を経るにしたがってさらにさらに慣れるのであろう。ニーチェの哲学を一言でいうなら、「男らしい」である。「男らしい」生き方を求めた思索といっていい。であるなら、何が男らしいのかを説明する必要がある。彼の哲学思想テーマは、「ニヒリズム」で連なっている。「ニヒリズム」とは何?「ニヒリズム」をどう理解するか?
「ニヒリズム」は古くからの哲学的用語であるが、ニーチェによってはじめて明確な概念を与えられた。が、同時にこの言葉は誤解された。一般的に、「ニヒリズム」とは、伝統的な価値を否定し、いかなる価値をも信ずることなく、人間の生存を始めとする一切を無意味とみなす考え方や態度。これはニーチェとかけ離れた考えであるばかりか、このよう事は存在し得ない。
何ものも信じるにあたいせず、すべてが無意味などは事実としてあり得ない。神を信じない、友を信じないことはできても、何も信じないで生きるなどは誰にもできない。人は生きる限りにおいて多くの何かを信じている。ニーチェは、「ニヒリズム」について多くを語るが、彼の思考の特徴は、「それは何か」ではなく、「それはどう考えればよいか」を貫いている。
「ニヒリズム」は日本では「虚無主義」と訳され、すべては虚無であることを主張する主義の印象を与える。そうではなくて、「理想主義」が理想を信じるように、「ニヒリズム」は「ニヒル」なものを信じることだ。この場合、ニヒル=虚妄とし、したがって虚妄を信じることである。彼はキリスト教を痛烈に批判したが、キリスト教や善人を虚妄と批判した。
聖書には、「隣人を愛せよ」と記されており、「隣人愛」は、人類一般に連なる永遠不滅の道徳律とされている。しかし、ニーチェは、『ツァラトゥストラ』をはじめとする多くの著書で、「君たちは隣人のまわりに群がり、それをさも美しい言葉で飾りたてる。しかし、私は君たちに言おう―――君たちが隣人を愛するのは、君たちが自分自身をうまく愛せないからだ。
君たちは自分自身から逃げだして隣人のところに行き、それで何か美徳をほどこしたと思いたいのだ」。なるほど…、言われてみるとそういうこともある。人は自分自身にはしかと向き合えないのに、他人に親切にしたり、おせっかいを焼くのが大好きである。これがニーチェのいうところの、"自己逃避"である。ニーチェにとって、あらゆる美徳はその隠された動機によって虚妄と化す。
「隣人愛」は自己逃避のひとつの形式であり、およそ道徳といった美しい名に値するものではないとし、建前の裏に潜む偽りの心を自らかぎつけるべきと進言する。どれほど隣人(他人)に尽くしたところで、一体に自分は隣人に何かを生み出すことができるというのか?ニーチェはまた、「弱者を悲しく惨めな人だと哀れむことが同情ではない」とする。
同情とは他人を思いやる気持ちである。が、それは裏を返せばあなたが、「惨めな人だと哀れむ」という優越心から来るもの。よって、他人に安易に手を差し伸べることは、他人のためになるどころか、他人を甘えさせ一層堕落させる。その結果、互いが弱者と化してしまう。ニーチェはこれを唾棄する。他人には柔らかいベッドよりも、硬いベッドであるべきとする。
こういうところが男らしいところである。他人に優しく、他人に同情心を持つのは女性らしいが、その裏に潜む腹黒さ、これもいかにも女性らしさである。男は男を叱咤してこそ男であろう。これらは大工・左官や、料理人などの修行段階で厳しさであろう。この厳しさよって、男は男になって行く。ニーチェは同情することを禁じているのではない。されることも戒めている。
「隣人よりもまず自身に尽くせ」という。本心で他人の悩みや痛みと共に苦しむなら、こちらもその悩みや痛みに侵略されるであろう。医師とて末期ガン患者に同情はしない。医師が患者にできる同情とは、患者を苦しめる病から患者を励ますこと。医師にはそういった暗示効果はあろう。が、ニーチェが同情を退けるのは、動機の裏に偽善が隠されているからだ。
「まことに、私はひとに同情して幸福を感ずるような憐れみ深い人たちを好まない。彼らにはあまりにも羞恥心が欠けている。」
同情を美徳と考え、他人に同情し、あたかも敬虔な顔をしたがる偽善者に捧げたい言葉である。『トム・ソーヤーの冒険』の著者として知られるマーク・トウェインは、ニーチェと同時代に生きた人だが、以下の言葉を残している。「人間とは頬を赤らめる唯一の動物であり、そうしなければならない唯一の動物である」。サルの顔は赤いが、それがサルの肌色である。
「他人に同情しない優しさ」を真に理解するまで年月が必要だった。「他人に同情するのは善い事」と教わったのとまるで正反対の言葉だけに時間を要した。が、このことを知るだけで、本当の同情を見出すことができる。ニーチェも偽善を廃した真の同情を模索し、この考えに至ったのだろう。ニーチェが本当はやさしい人だったのを知ったとき、彼の本当の苦しさが少しは理解できた。