「食事」という言葉がある。「睡眠」という言葉、「性」という言葉もある。名詞に動詞を加味すると体験(行為)となる。「食事する」、「寝る」、「やる」いや、「性行為」などと。この3つは「食欲」、「睡眠欲」、「性欲」とも言われ、生態学的に人間の三大本能として定義されている。「本能ってどこにある?ちょっと見せてよ」と言われても困る。
本能は見せるものでなく、脳の視床下部というところが、本能行動中枢および、怒りや不安などの情動行動中枢を受け持っている。臓器だから永遠に見ることはあるまいが、大脳というのは不思議な臓器である。もちろん、胃や腸や心臓、肝臓も不思議な臓器であるが、「不思議」というテーマについて何かを書けば、生涯書き続けられるくらいにたくさんある。
が、不思議というのは実は不思議でも何でもなかったりする。多くは、勝手に「不思議だね~」と言ってるだけなのだ。理由は、人間はその歴史の中で多くの不思議を解明してきたからで、もし、人間に好奇心もなく、横着で、何事も他人事というように思考や想像や実験をしなかったら、雨も風も雷も地震も旱(ひでり)も、太陽も月も星も分らないままだったろう。
子どもが小さい頃に、「なぜうんこが出、オシッコが出るのか?」を話したことがあった。子どもが知らないことを親が教えるのは「いい、悪い」で言えば、悪いことではないが、「いいこと」か?というとそうともいえない。なぜなら、これは一種の遊びだから、無理やり教えても知りたくない子にとっては迷惑なこと。他にやりたいことがあるだろうから…
「親になって知る親の恩」という慣用句がある。自分はこんなことはまるで思わなかったし、考えなかった。自分が親になる前から、子どもを産めば誰でも、それこそ乳飲み子時期から、大変な思いで育てたんだなと思ったが、それは義務であって、「恩」の範疇ではないし、どんなに大変な思いで育てたとしてもである。「恩」というのは儒教思想であろう。
その当たり前のことを「恩」として、子どもに暗黙の要求を抱く親は汚い親でしかない。「暗黙の要求」どころか、口に出して言う親ならさらなり。汚いを超えて「バカ」であろう。だからバカな親は、「誰に産んでもらったんだ?」、「誰のおかげで大きくなったと思ってるんだ?」などバカげたことを言う。こんな卑怯な言葉は親の「禁句集」と以前、書いた。
どうしてこんなバカげた事をいうのか?答えは先ほども言った「バカ」だからである。人の親は知らないが、父親はこんな言葉を吐かないものだと思っている。理由は、自分の父親が言わなかったからだ。母親は、それこそ朝から晩までこれに類することばかり、もう耳にタコが出きるほど言いまくった。恩を押し付ければ、恩が根付くと思ってるところがバカ。
自分の父とは違って、言う父親はいるのか?可能性なくはないが、こんなことをいう父親は男として情けない。理由は、男の「理」、「知」、「情」からズレている。もちろん、母親とて言わない方がいいが、毎日繰り返す母親が傍にいると、女の情念のように思えた。バカな親と見下げていたが、親というのは有資格者がなるものでないから「バカ」なことは言うよ。
「資格」はいろいろある。教員資格、議員資格、医師や弁護士などの国家資格。などの有資格者であれ、バカがいればバカをやる。教育者教育を受けたから、教育的才能があるわけでもない。選挙に受かれば議員資格というように、資格試験を受けて受かれば有資格者であるというのを念頭においておく。職種に向いている人が資格を取るのではないということ。
いいかえれば、資格を取れば有資格者ということだ。こんな当たり前のことをあまり考えないでいると、本質がおざなりになる。ある種権威主義の弊害と受け取れるし、日本人の志向性ともいえる。外国人は人を人間として捉えるからか、上だから、肩書きがあるからと言って、謙ったり、無用なぺこぺこはしないが、この考えは正しくとも日本では向かないという。
言いたいことを言えば、「生意気だ」となる。ズケズケいう人間をただ「生意気」とする場合もあるが、例えば自分が年長で相手が年下なら「若いくせに…」、学歴に差があるようなら、「中卒(高卒)のくせに…」、大学のレベルで負けているなら、「ちょっと言い大学出たからといって…」とにかく、自分が勝ってる要素を探して「生意気」の理由をアレコレつける。
ホリエモンのように東大出てる人間に対しても、「犯罪者のくせに…」、「監獄暮らしした奴が偉そうに…」となる。対立する論理について言い合おう、話そうとするのではなく、何かつまらぬ事を探したり、見つけて自分を優位にしようとするケツの狭さというのか、島国根性というのか、これらは幼少期から「論理」を戦わせようとしない教育制度の問題か?
小学校のころから、我々は校長先生の無内容な教育的訓示を受け続け、あのようなところではあのように話すというのはトラウマになっている。「努力しよう」、「思いやりをもとう」、「みんなと仲良く」など、を延々と聞かされた。あの校長の言葉に啓発されたという子どもが一人たりいるのだろうか?子どもの多くが教師の「商売用語」と冷めて見ていただけだ。
みんなと仲良くとは、「言い合い」をしないことではない。みんなと仲良くは幻想だがが、最低守るべくは「罵り合い」をしないこと。まあ、それも仲良くしたくない相手には「罵り合い」も大事なことだ。つまり、手を出すことに比べるとである。よく「女子は口がたつから言い合いは負ける」と男はいうが、確かに女子は子どもレベルの言い合いは強い。
男子より2~3年、成長が早いからだろう。それに幼児期からお喋りが堪能で、早口でまくし立てるから、ついついボキャの少ない男はやり込められる。子どもの言い合いは論理建ての議論などあり得ない。早口とまくしたての勝利である。ところが、青年期になって、そんな程度のまくし立てで抑えられる男はヘタレであろう。男は論理脳として成長する。
女は感性系を発達させるが、それでは論理と感情とぶつかったらどっちが強い?他人のことは分らないが、強い弱い以前に、感情的な物言いをする相手は笑えてしまう。理由はそれはもはや正論を導くための対話でなく、罵りであるからだ。さらに興奮するとまさに喧嘩腰となる。もちろん、論理の中に感情は入っているが、感情をコントロールできない奴はただの猿。
人は誰でも感情的であり、論理は感情を裏付ける手段でもある。つまり、感情を思考、考察するのも論理だということ。感情を処理できるものは感情にあらず、論理であるから、感情を処理できない人間は猿である。自分は子どもの頃から母と言う猿を身近にみていたから、猿と人間は話し合いができないことを知った。猿は人間にならなければ会話できない。
論理とは唯一人間のことである。誰だって感情はあるし、感情は排除できないから、論理に裏打ちされなければならない。そういう作業をしない人間を「感情的」という。論理的な人間は感情的でないと言うのは間違い。自分なんか、モロ感情的人間である。だけに感情を抑えて、抑えているだけだ。若い頃は瞬間湯沸かし器であったし、それは環境のせいであろう。
穏やかな生活、穏やかな日々が流れていた家庭ではなかった。唯一、父親だけが穏やかであるように見えた。母と自分は口を開けば戦争であるし、相手は猿と見定めていたから、口を聞かないようにしていたが、それでは面白くないからと、猿がちょっかい出してくる。妻が同じようなことをいっていた。「お母さんが子どもを怒らせるように、ように仕向けている。」
意地の悪い人間は、長谷川町子の「意地悪婆さん」のように、底意地の悪さが基本にあるのだろう。じっとしていてはつまらないから、誰かに意地悪して楽しむという、これも一種のストレス発散といえるかも。女と言い合いしてると、ワザと男を怒らせようと仕向ける女がいる。「張り倒されたいんか?」というと、「何よ、すぐに暴力名わけ?」と来る。
自分の方からけしかけておいて、いざとなったら"弱い女"を出してくる。これを腹黒いというんだろう。やるからには逃げずに責任もって挑めよと思うが、こういう女の性向は多分に読めるようにはなった。男とならまるで手加減しない男も、女にそれはできない。なぜだろう?本気になれないのは怖くないからだろうな。男の喧嘩は食うか食われるか、死ぬか生きるかでやる。
女の喧嘩は相手が基本非力だから、こっちが本気になれないのだろう。知人に手の早いのがいて、クルマの運転中に相手のクルマがちょっかい出したり、からかうと、追いかけていって張り倒す。それで何度も指を骨折した奴だが、夫婦喧嘩では妻の足をはらうくらいしかできないという。手はだせない、蹴りもいれられない、だから足をはらってコケさせるという。
それが正解だろう。ビンタを食らわすと一度だけならいいが、数回やると手の平が痛くなる。こっちが痛い思いをして何で叩かねばならないという経験はあるから、足払いは最善だろう。それでも、彼はだんだん妻の顔を見るのが嫌になり、家に帰らなくなった。そのためにゴルフを始め、練習場通よいで時間をもてあましたが、ついに昨年3月離婚した。
離婚寸前半年は双方にとって地獄の日々であったようだ。同居しながら、顔も見ない、言葉も交じわさないのがどれだけつらいことか想像に価する。恋愛期間中なら、気分がそぐわない、顔をみたくないなら、会わなければいいが、同じ屋根の下にいるなら行き場がない。憎悪心を抱いた二人が何より影響を与えるのが子ども。離婚した事で晴れ晴れの二人であった。
男の性格は口数すくなく、だから瞬間沸騰タイプだが、それが分かっているから平常心を大事にしている。クルマのディーラーでサービス業従事者ということもあってか、顧客のワガママをこらえることが仕事である。その分ストレスは多く、家庭にやすらぎを求めるしかない。女はとにかく口うるさい。それでも当初は男を立て、盛り上げようという努力はした。
が、基本的に男を幼稚に見えた部分はあったようだ。「男って子どもよね」というのを常々口にしていた。「子どもはあやすしかないだろ」と、これが女の男の正しい操縦術である。ところが、一度本気で叩きのめしたことがあり、以後、妻の心の支えはぷっつりと折れた。夫婦のことは断片的に聞いても10分の1も理解はできないものだが、いずれにしろ正解の離婚はある。
自殺した中川昭一代議士の父親中川一郎代議士も自殺だった。北海のヒグマといわれたいかつい風情に反して恐妻家であった。金丸信が、「女房が怖いとか、俺の言うことに従わないって愚痴をこぼすので、『そんな女房は思いきり殴りつけてやれ。そしたら亭主の言うことに従うようになる。心配するな!』と忠告してやった。実行していればこんなことには…
中川の自殺の報にふれたときの発言だが、公式発言だけに聞いた妻も腹も立ったろう。が、それほどの悪妻ならこの程度の雑言にたじろぐこともあるまい。自分の実家の同じ組内で2件の首吊り自殺があった。いずれも夫で、いずれも恐妻家であった。こんな妻に家中でデンと構えられた夫の心中というのか、首を吊るほどの苦しみであるらしい。男は弱いよ…
行き詰まった女性が人格批判や、取ってつけたような罵詈雑言を吐くのも同じこと。男はそんなみっともない事は避けるが、上位者は「生意気」という言葉で抑えようとする。「よくないね~、こんなんでは」と言っても、そうそう日本人が変わることはないだろう。だから、こうう人間と言い合わないこと、もしくは相手に不足を感じたら議論は止めること。
「これが損して得とれ」の法則である。議論を挑んでも受けてくれる上位者なら遠慮はいらない。そういう人たちは「勝ち負け」を問題にしないし、勝とうとに徹した議論はしない。勝った、勝ったで喜ぶような人間は底が浅いし、議論を挑むタイプではない。「アホ、バカ、死ね、ウザイ、ウンチ」は子どもの喧嘩だが、言葉を変えて同じ事をいうのがオトナである。
女性批判というより、論理を磨いて成長しろということだ。汚い言葉は武器にはならない。女の子同士が孤立しあわないように、対立を避けるために言い合いをしないでいた、そういうこともあろう。会話はするが、対話はしないのが女、男は会話より対話を好む習性がある。孤立を怖れない男は、「思いやり」を自己の利益本意としないところがある。
「思いやり」は純粋に利他的に働くこともあるが、日本人的な思いやりというのは、「勇気」と合致しない点において日本的美徳とされる向きがある。つまり老人に席を譲るような、さほど勇気の要らない(人によっては勇気もいるが)程度の思いやりであり、通路の邪魔をして周囲に迷惑をかける高校生に注意をするという、勇気の要る思いやりは出せない。
言い換えると、「都合のいい思いやり」であって、これを利己主義の変形といっている。「他人を傷つけないかわりに、自分も傷つかない」という公理が日本社会に澱んでいる。もちろん、宗教的バックグラウンドもあるが、こういう点などから日本人が変質していくのは大変であろう。変質すべきか否かは議論の別れるところでもある。そのためには絶対者が必要か。