「家族って何?」といえば、家庭を構成する要員であろう。家に妻と小学生の子ども2人いる家庭の親が、「何人家族?」聞かれたら、「4人家族」というだろう。では数年経って上の子が大学に進学して一人暮らしをした場合も、「4人家族」と答えるのか?それとも「3人家族」というべきか?または、「家族は3人。長男は今家を出て一人暮らしをしてる」というべきか?
クイズの解答じゃあるまいし、こんなのどういったって構やしない。好きにいえばいいんだろう。wikiにはこうある。家族とは、居住を共にすることによってひとつのまとまりを形成した親族集団のこと。また、「産み、産まれる」かかわりの中から生じた親と子という絆、そうしたものによって繋がっている血縁集団を基礎とした小規模な共同体が、家族である。
同じ家屋に居住する血縁集団に限定して使う場合もあり、現代日本では直系親族を中心とする単家族のことを指す場合もある。では「家庭」とは?「家族」と「家庭」は違うのか?「家族」は人、「家庭」は場所(家族が生計する)としたらいい。家に庭がなくても家庭はあるし、部屋数10の豪邸であれ、1DKであれ、家庭は家庭だ。親が家出して子どもだけでも家族だし家庭だ。
先に紹介した映画『海街diary』の3姉妹同居家族は、現実にはあり得ない家庭だが、あり得ないというのは物理的にであって、否定的な意味ではない。ましてそこに腹違いの妹が同居するなどという、こんなことを考える原作者の怖れ多き感性に頭が下がる。創作家はなんにしても、一筋縄ではいかない人たちだ。マンガを読んで原作者の人となりに興味を抱くのもいい。
東大を主席で卒業して財務官僚になった人よりは、断然吉田秋生や、少し古いが鳥山明や、井上雄彦などの方に興味が沸く。彼(彼女)らの稼ぎもさるものながら、才能はどのように芽生えたのか?つい先日映画が公開され、大ヒット上映中の『進撃の巨人』の原作者諫山創も凄い。吉田秋生は履歴を明らかにせず、顔も非公開で見たこともないが、諫山創はwikiによると。
大分県日田市出身で1986年生まれの28歳。県立日田林工高等学校から専門学校九州デザイナー学院マンガ学科出身で、在学中に出版社へ持ち込んだ処女作品『進撃の巨人』が、講談社「マガジングランプリ(2006年)」で佳作を受賞。実家は由緒ある梅酒の生産農家で、漫画家になる事を大反対する父に反抗できない彼は、先ずは穏やかな作戦で家を出る。
お目当ては福岡の専門学校で、親には「家具や家電のデザインをするインダストリアルデザイナーになりたい」と嘘を言って入学し、親には内緒でマンガ科に転科した。漫画家志望の彼だったが、どうしても親には漫画家になるといえなかった。しかし、学校からの転科連絡は親元に通知が行った。諫山もその事は察知したが、自分からは言い出せず、親も黙していた。
高校の時から画いていた漫画も親には言わず、隠れてコソコソやる彼のナイーブな性格を親は容認していたのだろう。父は、「絶対になれっこないから、漫画家なんて目指すな」と釘を刺していた。その漫画が父に見つかったときは、「エロ本が見つかったより恥ずかしかった」(諫山)という。インタビュアーの中山秀征は、彼のあまりのナイーブさに驚いていた。
中山:「えー!なんで恥ずかしいの?夢を持ってやっていることだし、漫画を描くことが悪いことではないでしょ?」
諫山:「父に見つかったときは、全く何も言い返せずに、ただ恥ずかしくて硬直していました。漫画家にはなれない可能性が高いことをわかっていたので、最初から言わなければリスクを背負う必要はない。絵を描くことが好きだという以外は得意なことがない自分をこれ以上さげたくないという思いから、必死に隠していましたね。」
中山:「不言実行もカッコイイですよ!東京には、来る前に腹をくくって出てきたのか、来てから腹をくくったのか、どちらですか?」
諫山:「専門学校を卒業して、『腹をくくるために、自分を追い詰めるために東京に来た』感じです。自分を知っている人がいない、新しい場所に行きたかったというのもありました。」
中山:「ご両親は、何と言ってました?」
諫山:「喜んでいました。父は『安定した仕事をやれ』と言っていましたが、僕が知らない場所へ行き、さまざまな経験をすることは推奨していましたので。19歳のときにマガジングランプリで佳作をとって、初めて自分の口から『漫画家として生きていきたい』と両親に伝えられました。」
成功した人は何を言おうが、絵になってしまう。同じ思い、同じ境遇、同じ体験者もいるだろうが、社会の片隅に埋もれて陽の目を見なかった人の方が何と多きことか。成功者と非成功者を分かつものは、才能と言ってしまえばそれまでだが、夢は持ってはいても、諫山とて自信があったわけではない。自己を過信するほどの自信家が認められるとも限らない。
結局、才能とは他人が評価するものでしかない。本人も、親も、まさかこれほどに世間に認められるなど、思うはずがない。それにしても7月現在、累計部数5000万部を超える『進撃の巨人』を自分は知らない。今さら聞いてみたいわけでも、読みたいわけでもないが、社会現象として捉えている。気が向いたら映画館に行こうと思うが、おそらくテレビ放送待ちだな。
この手の濃い味付け物は縁遠くなるばかり。で、この記事を書きながら思ったのは、息子が何かをコッソリ隠してコソコソやっている。それが漫画であれ、なんであれ、親に言えなくて、それでも好きだから、やりたいことだから、隠れてやっている現状を、父はどうみるだろう?父といっても、父によっても違うが、諫山の父の良いところは、親に言えない子どもの気質を理解したこと。
それが男の「理」、男の「やさしさ」であろう。子どもの夢をおそらく強く否定しながら、それでも止めないのなら黙認する。実力行使しないところが、親の情であろう。この「黙認」という「許し」を世の親は、多かれ少なかれ必ずやっている。親自身がかつて子どもであって、だから子どもの気持ちが重々わ分かる。が、それでも親は現実的に目を向けさせようとする。
「夢をとことん追いなさい」と言うのがいいのか、「なれっこないんだから、夢をみるより現実に目をむけなさい」と言うのがいいのか、答えはない。ただし、反対しても止めないという姿には、親は共感するであろう。そこは共感すべきと思う。何から何までお膳立てをして、後は箸を持って食べるだけという境遇の子もいるが、その事自体が「悪」とはいえない。
非常に難しい選択だが、本人の自己責任を重視するなら、親は放って置くべきと思う。「転ばぬ先の杖」が親の気持ちであろうが、それは転ぶことが前提になっている。家族は肉親である。ましてや親子という関係は何であろう?どうあるべきか?それを思考するのが、実は哲学である。哲学とは人間について考えることである。生きているといろんなことが起こる。
個人的なことでいうなら、病気になったり、就職・転職や、人間関係や家庭の問題など、悩みの種は尽きない。社会的には、不景気であったり、原発事故、無差別殺人など。国家的には、外交問題で中国やロシアとの領有権争いがあったりと。これらの問題を考える時に、経済学者は当然にして経済面から考えて意見を言うし、政治学者は政治的価値観で、ものを言う。
倫理学者は道徳的価値の立場から専門意見を述べる。斯くもばらばらで「専門バカ的意見」なら、総合的に判断する人が必要になる。経済優先でいい訳がない問題、政治的に解決するにはなじまない問題もある。であるなら、さまざまな学問領域を網羅し、人としての立場から発言をするのが哲学者の役割となる。哲学は、科学を束ね総合する立場に位置する学問である。
個々の学問では答えられない「生と死」の問題、「生甲斐」とは?「愛について」、「幸福とは何?」、「美とは何?」などが一連の対象分野となる。自分には、「関係ないな」と思うかもしれない。が、世界中の人々が、その瞬間・瞬間をさまざまに判断を下しながら、各々生きているというなかで、間違った判断を続ければ、結果は因果応報もしくは、「適当な人生」となろう。
自分の人生を、「善き方向」に向け、より善い人生を生きる知恵を、偉大な先人から学んで行けるのが哲学の意義といえる。カエサルの、『ガリア戦記』の中に、ふいをつかれて劣勢になっていたローマ軍の小隊に、「もはやこれまで」の機運が高まりしその時、遠くにカエサルの赤いマントが翻るのが見えた。瞬間、すべての兵士に力が漲り、敵を蹴散らして勝利したとある。
このことが教えるのは、人間がいかに、モチベーションが大切かである。あるいは、リーダーの存在、ならびに資質の大切も分かろうというもの。人類は、ブッダから、アリストテレスから、「中庸」の大切さを学び、セネカから人生の時間の使い方を学び、カントやルソーやニーチェから、かけがえのない言葉を聞き、またキルケゴールからは、絶望からの脱出方法を学んだ。
現在直面する様々な問題に、哲学は本質的な、本当に正しい答えを与える可能性を持っていることを信じるのだ。我々は哲学のこのあたりに期待を持っている。「何か」 について疑問を持ち、思考する。思考し続ける。そしてその中にある共通性や普遍性を見出そうとする、これが人間が思索をする根源である。よって、いかなるモノも現象も、哲学の対象になり得る。
そもそも「哲学とは何か?」という疑問は、すでに哲学のはじまりであろう。家族の欺瞞を否定する本が売れているという。おそらく著者の思考する何タラが書かれてあるはずだ。どこにも家族があり、誰にも家庭があるなら、その程度のことは誰にも考えられることではないか?他人の考えに触れるのは大事だが、自身の考えがまとまらない前に読むのは、哲学的といえない。
「家族は信頼関係で成り立つ」と言うのは金科玉条の如く言われていた。であるなら、誰もがそれを求め、目指したのだろう。ところが、家族のどこが「信頼関係で結ばれている?」という疑問に突き当たる。「家族が信頼関係で成り立つ」というのは、「夫婦は信頼関係で成り立つ」、「親子は信頼関係で成り立つ」ことを言っている。ところで、「信頼」とは何?
こういう話を聞いた。娘の下着が派手になり、訝しさを感じた母が、娘の入浴中に財布の中に十万円を超える現金を見つける。普通の母ならどうするだろう?普通の母と言うのがオカシイし、ならばどうするのが正しいか。その前にこういう母親はいないか?「わたしは娘を信頼している。下着は派手になったけど、まかり間違って、エンコーなんかするような娘ではない。」
ここに「信頼」というのが出てくる。あるはずのない大金を勝手に財布から確かめたことを、もし娘が怒るならそのお金は正常ではない。自身が正常(正当に)得たお金なら、戸惑うことなく説明できるが、「財布を勝手に見ないでよ!」と話をそらすのは怪しい。それでも決め付けたりせず、「財布にお金たくさんあるけど、どうしたの?」とやんわり聞くべきだが…
「あんた、こんなに大金どうして持ってるのよ!オカシイんじゃない?」と、ヒステリックに言うのだけはよくないが、こういう決め付けた言い方をする親は多い。まあ、子どもは咄嗟に嘘をつくよ。どの母親にも経験あるだろうが、親と言うのは子どもの嘘を直感的に見破るものだ。が、嘘を詮索すると子どもを追い詰め、あげくは怒って閉じこもったりで上手く行かない。
大事なことは嘘を追い詰めることではなく、嘘と分かったときにどう対処するかだ。それが上記の怒らさないこと。怒らせたらこの件については触れることもできなくなる。さらによくないのは見て見ぬふり、ようするにうやむや。そういう親は、「親子は信頼が大事」とか、「子どもを信じるべき」とか、綺麗ごとを自分に言い聞かせる。あげく、「娘の方から言ってくるまで、信頼して待とう。」
こういうのは、「信頼」に名を借りた自己弁護であって、本当の信頼ではない。本当の信頼関係と言うのは、親子でなく、誰にでもいえることだが、自分が疑問に思った事は躊躇なく聞けること。さらには、その事に正直に相手が答えてくれるという確信である。本当の信頼と方便を勘違いしないこと。また、言葉だけではなく、子どもの変化を時系列で注視することも大事。
親の感受性の問題である。「うちの子に限って…」も、問えない、問いたくない、問うのが怖いという親が勝手に思い込む言葉が多い。再度言う。「信頼」とはそんな生半可な、綺麗ごとではないのよ。本当の信頼もないのに、信頼ゴッコで家族が寄り添わないのが、家族崩壊の現実である。親は心理学者でなければならない。なかなか難しい問題だが、それができる親が良い親だ。
自分が勝手に子どもを信頼してるから、子どもに信頼されていると思うアホな親。信頼すれば信頼されるなどと、おママゴトじゃないんだ。信頼は相互に築く。教師だから、師匠だから、学者だから、知識人だから、相談員だから、地位が高いから、間違ったことを言わない人…、だからキチンと話を聞くんじゃない。その人を信頼しているからではないか…