「家族って何?」と聞いたら、「家にいる族」って言った奴がいた。彼曰く、「暴走する奴らを暴走族っていうじゃないか?」なるほど…。「他には?」、「転勤族とかいうよな」いうね~。「他には?」、「マサイ族だな」。これくらいの会話はシャレた奴なら普通にする。男との会話は、こういう遊び心があるから面白い。「太陽族」が出ると思ったら期待はずれだった。
「太陽族」とは石原慎太郎の芥川賞受賞作小説『太陽の季節』に登場する若者たちの、裕福な家庭に育ちながらも、無軌道な生活ぶりという彼らの風俗を言った。なぜ彼らはそうであったのか?「太陽族」現象とは何だったのか?小説『太陽の季節』は1955年(昭和30年)、『文學界』7月号に掲載され、第1回(1955年度)文學界新人賞を受賞、石原は当時23歳の大学生であった。
翌1956年(昭和31年)、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞。単行本は1956年(昭和31年)3月15日に新潮社より刊行された。「太陽族」なる言葉は小説にはなく、石原が芥川賞受賞を受けて『週刊東京』誌で行なわれた大宅壮一の対談で、大宅が「太陽族」の言葉を用いたことに始まる。慎太郎刈りにサングラス、アロハシャツの不良集団を指し、流行語にもなった。
映画は同年製作され、主役を演じた長門裕之、南田洋子が後に結婚するきっかけとなる。石原は同年に短編小説『狂った果実』を発表、こちらは慎太郎の弟石原裕次郎の実質的なデビュー作で、裕次郎はこの時のヒロイン北原三枝と結婚する。慎太郎は脚本も手がけたほか、キャストにも口を出す。それが『太陽の季節』で主演した長門裕之の実の弟津川雅彦であった。
ある結婚式で慎太郎がたまたま見かけた津川の印象が強く、「彼でなければ駄目だ」という慎太郎の強力な推しで出演が決定した。津川雅彦の芸名(本名は加藤雅彦)は、『太陽の季節』のメインキャラクター津川竜哉から石原慎太郎が命名した。芸能一家に生まれた津川だが、子役として数本の映画に出演していた程度で、『狂った果実』が銀幕デビューとなる。時に16歳であった。
「兄弟」という表題を、"不思議"としたのは、一人っ子の自分からすれば、兄弟いう存在自体がそもそも不思議であり、兄弟(姉妹)の実態については永遠に理解は得ないことなのだ。「兄弟ってなんだろう?」それを確かめる手段として、子どもをたくさん作って観察すればいいとの気持ちは強くあった。「子どもは一人でいい、二人で十分」などは毛頭ない。
長女が生まれ、年子(学年的に)で次女、2年後に長男、その3年後に三女、その間流産2回と、すべて生まれていれば6人となるが、これは数字の上でのことで、実際に生まれていれば現在の長男も三女も存在しなかったかも知れない。とりあえず3人が一つの目安で、三女ができたときは作った記憶(?)がなく、妻に報告をもらったときは、「はっ?」であった。いわゆる交通事故。
「お前はね~、隣のおっさんの子かも知れんよ。大体、記憶がないんだから…」と三女にはよく言った。子どもたちが織り成す兄弟風景は、面白くてじっくり観察していた。残念なのは喧嘩を見なかったことで、これは治安が良かったのだろう。ちょっとした言い合いはあったが、すぐにビデオカメラで撮影する父だった。姉は妹を、弟は姉を、また弟は妹を、妹は兄をどう見ているのか?
研究課題である兄弟の考察は、終ぞ分かる事はなかった。親から眺める兄弟は、どう見ても「子」でしかなかった。時たま、子どもの中に対等になるべく降りたり、割って入ったりした。これは、自分が長兄という気分で、おそらくそのフザケ加減、遊び心加減からして、子どもにとって親には見えなかったろう。その証拠に、自身が完璧に親を捨てていたからだ。
「年食った兄が突然現れた5人兄妹みたい…」そう感じた妻。とにかく、兄弟を実感するには、自分がそれになるしかないが、兄になったり、親になったり、というのではなく、基本的に上から押さえつけるような傲慢な親ではありたくなかった。が、客観的に自分が兄に見えたかどうか分らない。ある時は親、ある時は兄、またある時は、変なおじさんか。
親子も情もない、血みどろの「7並べ」は掛け金の高額さもあって、後で聞いたがお年玉を巻き上げられて長女は泣いていたという。それを見た祖母がコッソリふんだくられた分を渡していたと、これを聞いたのは10年以上も経ってからだ。泣くのは長女だけだった、次女や長男は泣きべそという強さがあったのか。とにかくファミリートランプだけはやる気がなかった。
最初は手を叩くところから始めたが、遠慮はしないから天井からハンマーが落ちてくる感じだったろう。親子だから、兄弟だから、ゲームにあって加減をすべきと言う発想はそもそもない。そんな馴れ合いは時間の無駄であり、遊ぶだからこそ真剣にやるべきとの持論である。家族といえども、個人主義を標榜し、ちんちくりんな共依存を父は求めるべきではない。
母親の事は自分には分らないから、母親の感性でやればいいし、女親を分らないからといって男親が口出しするのは今はよくないとする。ただ、子どもの前でこれ見よがしに「疲れた」、「しんどい」をいう妻を叱ったことがある。「子どものいないところで一人で言え」と。家族については「家族の不思議」と題して、思うところを書くつもりだが、とりあえず「兄弟の不思議」。
兄弟のいない自分は、4人兄弟の子どもの視点で「姉妹・弟」を書いても、やはり子の視点になる。兄弟愛というものの存在も分からぬままに、一人っ子は生きていくしかない。したがって、「兄弟の不思議」を書くにはどこぞの兄弟をセレクトするしかないが、見知らぬ他人は、彼ら自身が書いた情報に頼るしかない。それが石原慎太郎・裕次郎、長門裕之・津川雅彦とする。
石原慎太郎に『弟』という著書がある。誰かに借りて読んだが、あまり明かされなかった裕次郎の逸話、想い出話の類であった。「兄の手ではじめて明かされた石原裕次郎の生涯」ということで、裕次郎ファンによってミリオンセラーとなったのだろう。言うまでもない、作家・政治家の兄より日活の看板スター裕次郎の方が人気的には絶大である。そういう嫉妬は間違いなくある。
『弟』に対するレビューはさまざまあるが、このレビューは不思議な感じを抱いた。「自分にも「弟」がいるが…やはり病気がちであり、心配もあるが、なんかうっとしいというか‥年をとっても変わらないなにか‥愛情?憎しみ?よくいじめてしまったなあ、馬鹿にしたなあ、兄ずらしたなあ、でも幸せだったなあ」。書き手の言葉の意味は分かるが、想いの深度は分らない。
「兄弟は似るもの」、「いや、兄弟は似ない」、「まるで正反対の兄弟」、などと巷いわれるが、「兄弟」といっても一筋縄で定義できないのだろう。「石原慎太郎と石原裕次郎は本当に兄弟ですか?性格がこれほど似ても似つかない兄弟も珍しい。渡哲也と渡瀬恒彦の兄弟は似通った性格をしてると思うのですが、石原兄弟は性格が違いすぎでしょう?」と、指摘する人もいる。
裕次郎は1987年7月17日に世を去った。52歳の若さであった。血液型はA型、兄はAB型である。慎太郎に関してはテレビ露出も多く、対談などから人物像をある程度伺い知ることはできるが、裕次郎に関しては映画で観る彼のこと以外、知識になり得る情報がほとんどない。だから、上記の「性格がこれほど似ても似つかない兄弟」とは、どの程度分かっているのだろうか?
渡・渡瀬についても同様だ。あるいは若乃花・貴乃花においても違いは感じるが、どこのどういう価値観が違うかについては、相撲以外に分らない。若貴の違いは兄弟だからオーバーに言われるように思う。人と人は違って当たり前というなら、むしろ兄弟なら似通った部分を探すべきではないのか?違うことばかり強調するのは、兄弟は似て当然というのが前提となる。
ある人は慎太郎を、わがまま、乱暴、傲慢といい、裕次郎を礼儀正しい人という。別のある人は、『太陽の季節』は裕次郎の、「自由奔放な性格を羨んで書いた小説」という兄の言葉を添えている。慎太郎のこの発言は自分も承知している。一般的な兄弟の形は、弟は兄を羨んで育ち、兄は弟を羨んで育つのではないかと。したがって兄弟が争うのはいいのか悪いのか?
ある人は慎太郎を、わがまま、乱暴、傲慢といい、裕次郎を礼儀正しい人という。別のある人は、『太陽の季節』は裕次郎の、「自由奔放な性格を羨んで書いた小説」という兄の言葉を添えている。慎太郎のこの発言は自分も承知している。一般的な兄弟の形は、弟は兄を羨んで育ち、兄は弟を羨んで育つのではないかと。したがって兄弟が争うのはいいのか悪いのか?
特に同じことを職業にしたりの場合、他人とは違った思いに至るのは想像できる。兄(姉)がやっているのを見て始めたという弟(妹)は多く、どちらかというと弟(妹)の方が、大成することが多いのではないだろうか?正確な統計、情報はもち得ないが、兄(姉)を超えたいというパワーや情熱が弟(妹)に強くなる。兄(姉)は下を越えなければとムキになるのはカッコ悪いのかも。
兄はおっとり、弟はやんちゃという兄弟は多い。長男(長女)は大事に大切に育てるとの関連も言われている。確かに乳児期などで、最初の子がベッドで泣いていると母親はすぐにあやしに来るが、そこはまあ母親慣れしていない部分もあろう。2番目、3番目となると、その泣き声の状態で、ああらかた事情も、様子も分かる。だから最初の子の様に飛んで来ることはない。
その辺が乳児にどうインプットされるのか?これは生命科学及び乳児心理学の分野である。さまざまに異なる環境から、性格が作られていくのは間違いないとされる。同じ役者という業を選んだ長門裕之・津川雅彦について考えてみる。長門は2011年5月21日、77歳にて世を去った。父四代目澤村國太郎は、歌舞伎役者から映画俳優に転身した戦前の大スターである。
母マキノ智子も女優で、父の牧野省三は、日本最初の職業的映画監督であり、日本映画の基礎を築いた人物といわれた人。智子は省三の四女で、1歳年下の弟に映画監督のマキノ雅弘、2歳年下の弟に映画プロデューサーのマキノ光雄がいる。加東大介は長門の叔父にあたり、名女優の沢村貞子は叔母になる。1940年生まれの津川は長門の6歳下の弟で、二人兄弟であった。
そんな役者一族に生を受けた長門も津川も、役者になる事は天職であったろう。長門は1940年製作の映画『続清水港』、、沢村アキヲの芸名でデビューした。長門は1954年に日活に変わり、沢村アキヲから長門裕之に改名した。翌年『七つのボタン』で主役を演じるが、長門の名を日本中に知らしめたのが1956年公開の、『太陽の季節』。この映画で長門は大スターとなる。
津川は大映で加藤雅彦の本名で端役に出演していたが、石原の誘いもあって日活に移籍、1956年『狂った果実』で石原裕次郎の弟浦島春次役で颯爽デビューする。56年~58年で12本の映画に出演、津川は兄の長門を脅かす日活の看板スターになる勢いだった。家の中で露骨に津川に当り散らす長門を、津川はしばしば目にする。当時のことを津川はこう述べている。
「何といわれようと競争社会ですから、誰かが陽の目を浴びるようになれば、『この野郎』という嫉妬心は持ちますよ。兄貴のそういうところを見ながら、嫉妬がそれほどに人を苦しめるものなら、ボクは絶対に嫉妬はしないようにと心掛けました。とにかく当時のボクはどこに行っても、チヤホヤされるばかりで、役者ってのはこんなにいい商売なのかと思いました。」
津川のあまりの美形に嫉妬し、自分の容姿に悩むようになった長門は、ある日、叔母でもある女優の沢村貞子を尋ねる。臆面なく物事をハッキリという沢村は、このように長門を諭した。「あんたは雅彦と違って、顔で金の取れる役者じゃないんだから、とにかく芸を磨くしかない。将棋の木村名人はこう言った。『大才が怠けるより、小才が努力する方が勝つ』ってね。」
津川は長門と『狂った果実』一本のみ出演との約束を契っていたこともあり、それを反故にした津川に松竹移籍を迫った。津川は兄との約束を守るために松竹に転身すると、今度は長門が快進撃を始める。『にあんちゃん』で1959年度ブルーリボン賞に輝く。松竹に移った津川は出演作の不入りが続き、人気が低迷する。あげく「大根役者」という不名誉な称号まで得る。
そうして二人の仲を決定的に裂いた事件が起こる。川端康成の原作『古都』が松竹で映画化されることとなり、当初、津川が出演を予定されていた。津川は衣装合わせを終えていたが、日活からフリーになっていた長門が監督の中村登に売り込み、長門がこの役を盗る。津川は長門に激怒するも、「オレは今、フリーの一匹狼。悔しかったら自分の力で取り返せ!」と言われた。
津川は叔母の沢村に泣きをいれたが、「お前みたいな美男だけが取り得の役者は、人の四倍上手くないと世間は認めてくれないよ。脚本家も監督もみんな男なんだよ。男はねぇ、嫉妬深いし、女にちゃらちゃらモテる男にいい芝居なんかできないと思ってるんだよ。」以後、津川は二枚目役の看板をおろし、悪役や汚れ役に果敢に挑戦していき、兄長門を驚かせた。
長門は『古都』で1963年度毎日映画コンクール助演男優賞を取る。津川も演技に磨きをかけ、1982年度ブルーリボン賞に輝く。この時、長門は電話で津川を祝福し、初めて弟の演技を認めたという。津川はその後、1986年、88年、93年、95年、99年と日本アカデミー賞、1987年度毎日映画コンクール、キネマ旬報賞、報知映画賞、日本映画批評家大賞など多数の賞を取る。
津川は長い確執だった兄からの祝福の電話をかけがえのないものと心に刻んでいるという。およそ、兄弟でなければ言えないようなテレと、兄貴ならではの威張りと、弟に対する情愛が入り混じった、それは長い、なが~い雪解けの瞬間であった。あれほどの嫉妬や恨みや妬みや憎しみが、たった一本の電話で氷解する。肉親であるが故の辛さ、肉親であるが故の喜び。
「雅彦、おめでとう。でも、オレが取った時は26だ、それも主演男優賞。お前は42で助演男優賞がやっとだ。でもな、お前は42にもなって直も前に進んでる。やっと人様に認められるようになった。これは大変なことだよ」こんな兄貴の言葉でしたと津川は言う。「生まれて初めて兄貴に褒められました。」そして涙を浮かべながら、上ずった言葉でこのように兄を語った。
「結局、あの兄貴がいたからオレのエネルギーがあったんだ。ちょっとは恩を返せたのかなと。最後になって、確執ある人生だからエネルギーを生んだ。オレたちの人生は、最後になってやっと仲良くなれた、本音が言えた…。兄貴が患って以降、兄貴はずっと自分の目をみる。一時間、いやもっと…、少しも兄貴は目をそらさず、自分の目をみる。見舞いに行くとそれだけ…
兄貴はそれだけ自分を信頼してくれるようになったんだなと…」。嗚咽で聞き取りにくい言葉だが、津川は一生懸命に兄を語っていたな。兄弟の心情は自分には分らないが、兄弟はいいものであるらしい…、それだけは伝わってくる。そういう自分も、母との確執が生きるエネルギーになったのかも知れないな。それを恩というなら、それも恩であろう。