「自分が分からない」。というセリフはよく聞く。自分に照らし合わせてみて、この言葉を言った記憶はない。ということは、そんな風に思ったこともないのだろうが、「自分のことがよく分らない」という人間は、何が分らないのだろう?おそらく人間は自分について無知だと思うが、無知は無知なりになるべく自分に正直に生きてきたなら、それほど自分に困惑しないのでは?
それでも人前で自分を飾ったことはある。それを偽ったといえばそうだろう。誰の前でも飾るということもないが、特に自分が好意を寄せるヒトなど、その他にも自分をよく思われたいヒトの前で、人間は自分を飾るのが普通だと思う。あげく自分に正直になれなかったりする。自分も間違いなくそうであったが、いつごろからだろう、誰の前でも飾らず正直になれたのは…
30代後半か、あるいは40過ぎてか、ハッキリとした記憶はないが、今の自分に近い自分と付き合ってずいぶん時間が経つ。小学生の頃に顕著だったのは、「あいつが先に謝らないのなら、絶対に自分からは謝らない」というスタンスで、これを意地っ張りというのだろう。おそらく、どうでもいいようなことに遭遇し、つまらない意地を張っていたのではないのか。
子どもと言うのはそうしたものだ。意地を張るというのは素直ではないということか?「自分が悪いと思ったら素直に謝ろう」という標語は見たことあるし、教師もそれらしきことはよく言ってた。たしかにその通りだと思うが、ではもし、「自分が悪くない場合に謝らない」のはどうなのか?これは是認されることか?今はそんなことはない。悪くなくても謝ったりする。
どういう場合か?言葉悪く率直にいうと「相手がバカだと思った場合」が多い。これにはチャンとした理由がある。筋書きといってもいい。バカはくだらないことを押し付けてくるし、どうでもいいことを拘ったり、被害者ぶったりすることがある。相手が被害者意識を発揮したのなら、それで自分は加害者にされている。これはもう、開いた口が塞がらない。
よくあるのはそういう状況だ。このブログにも数度書いたが、「傷ついた」、「ひどいこというね」、「キツイ言葉だ」、「喧嘩売ってるんか?」、「上から目線過ぎる」、「何様なんだ?」などなど。これらはどれも、いわれてビックリ、もしくは、「やれやれ」である。「また、このパターンか」、「こんな言葉が出るようだともう話さない方がいい」そういう場合には謝って去る。
去らずとも口を閉ざす。人はそんなに簡単に被害者になれるのだ。ということは、簡単に加害者にさせられる。まさに「やれやれ」である。この、「やれやれ」感がすべてを物語っているように、この言葉(口には出さないから思い)しかない。「お前が悪い」、「あなたが悪い」のは別に構わんが、「悪いというならもう話すのは止める」となるのは相手への思いやり。
「お前の前からさっさと消えてやるよ」と、ケレン味見せず、さっさと退出する。相手もアッケに取られるほどに早業である。結局相手は、そのように被害者になって、相手に気を使わせたり、謝罪させたり、相手を責めることで自分を落ち着かせたいのだろうが、自分はそんな相手を幼稚と定めて、なだめたりしない性格だ。「拒」には迅速に対応する。
自分に言い訳をしないし、だから相手の思惑通りにはならない。悪いならさっさと消える方がお互いスッキリという考えだ。そうなって逆に相手が、「傷つけたならゴメン」などと言ったりする。お門違いもいいとこだが、相手も不思議なことを言うもんだ。普通は相手が傷ついたと意思表示されて、初めて言葉に問題があったと分かる。なのに相手は、「傷つけてごめん」などと言う。
こちらが、「傷ついた」と言わないにも関わらず。そんな風に言うことからして、この人たちはすぐに傷つくんだというのが分かる。だからすぐに、「傷ついた」などと言ってくる。そんなに傷つくんか?何かを言われて傷ついたなんてことは記憶にない。前にもいったが、「傷つく」などという言葉は自分の中にない。傷つきやすい人間とそうでない人間はいるのだろう、おそらく…。
一言でいうと、「性格が悪い」の最たる人間である。人を見下したり、バカにしたり、ハナであしらったりで満たされる人間を、「性悪」と定義する。性悪親はいる。性悪人間が親になるからだ。性悪親は断固排除すべきと思っている。なぜって、自分も親であるからだ。どういう生育境遇か分らないが、母はある意味親でよかった。遠慮なく最大限に反発できたからだ。
親子は遠慮がない。いや、遠慮すべきではない。どんなに恩着せがましいことを言われても、「権利」としては対等である。卑怯な親は、「義務」を善意(好意)と押し付けてくるが、そういう親はおそらく本気でそう思っているのだろう。子どもだって、そんなものを、「親の恩」などと思う必要はない。押し付けられないで自然に発生する「恩」ならいいではないか。
だから、「義務」を「恩」と強要する親に対してはバカに思えた。そんな子供騙しに引っかかるとでも思っているのか、子どもではあるが。そういう認識であったから、母親は正真正銘のバカ女だった。バカを偉いと勘違いする子はバカである。バカをバカと認識するのが正しいものの見方である。そこに遠慮は要らないと思うが、社会にではそうも行かない事多し。
端的にいうなら、バカな上司に使われる部下は悲惨である。バカが上司であるだけでも困ることなのに、逆らえないという体制が悲惨である。そういう場合にどうするかが、賢い人間の知恵である。社会にはそういった矛盾や理不尽が多く、そういう場合に頭を使って対処する人間が賢いのである。常々いうように、教科書や学問のように答えのない問題に答を出す。
的確・明晰な答を出すのが頭の良さである。そのように考えると、世間でいう賢いがバカであったり、バカが実は賢かったりする。それが本質であり、本質を見る目を養った人間の視点である。あとは、上手く対処できるかどうかだが、そのまえに「視点」を持つかどうかは問われる部分だ。人は「怒」についてはさほど誤らないがあ、「愛」については認識を誤る。
例えば自尊心の強い男がいたとする。プライドが高いは言わずもがな劣等感の裏返しであることを踏まえ、話を続ける。そんな男の前に一人の女が現れた。そうして男に言う。「あなたはハンサムで頭もいい、センスもいいし、運動神経も抜群ね」と褒めそやす。「あなたの成功はあなた自身の能力で、過去には同僚・先輩からも妬まれたでしょうね?」などと言う。
言われた男は、その女に好意を抱くであろう。熱愛するかもしれない。その女のためなら例え火の中、水の中(古い例えだが)も厭わないかもしれない。男は紛れもなくその女を愛していると思うであろう。「あろう」だから実体は違っている。彼が愛しているのはその女性ではない。実はその女性の口からが発する自分のイメージ、大切にしている自分の威信である。
おそらく男はそう指摘されるとこう反論するはずだ。「自分のことを褒めてくれたり、評価してくれる相手を好きになったり、愛するようになるのは当然じゃないか?」これらは無意識の領域であり、自分にも人にも真偽は分らない。彼の愛がその女性へのものか、自分への愛なのか、もしそれを見極めるとするなら、その愛が終焉を迎えてからであろう。
恋愛というのは、こういう風に思い込みと錯覚で成り立っており、だから愛は憎しみに変わるとまで言われたりする。これはその愛が、「自己愛」であったことの証明であろう。男が自分にチヤホヤしてくれる時はいいが、釣った魚に餌は無用とばかり、ばったり放って置かれると、チヤホヤ相手を探す女は多い。虚栄心の強い女は褒められるとデブでも木に登る。
ナルシストが失恋をしたときに普通以上に苦しむ理由は、失恋そのことの悲しみ以上に、自分が愛してやまない自己のイメージは傷ついたからである。ナルシストは恋によって、自身の虚栄心が満たされ、さらに虚栄心を増幅させる。だから、それを踏みにじられたことの反動が苦しみの大きさとなる。失恋によって対象喪失感以上に、自身のプライドが傷ついたのだ。
その事を本人が気づくことはない。失恋してもさっさと別の相手を見つける女は、自尊心など薄い女だが、失恋して立ち直るのに時間を要す女、恋愛に臆病になる女は、紛れもなく自尊心が傷ついたことで修復する時間がかなり必要としたのである。人を好きになる情よりも、人から傷つけられる怖さが二の足を踏むことになる。女の虚栄心は何かとプラスにならない。
芸能人女医の西川史子は離婚後に劣化がとやされているが、元ミス日本という肩書きもさることながら、プライドの強い彼女のショックは大きいようだし、傷ついた心を癒すのも至難であろう。かといって、人の尻馬に乗るタイプでもないし、小心でガラスのような神経から、男を尻目に傲慢な態度では、またも失敗するのが分かっている、そんな宙ぶらりんに見える。
バカな女なら環境に順応しやすいが、なまじ頭がいいばかりに身の振り方の苦悩が伺える。その意味で女はバカの方が得なのよ。生き方を変えるのは大切だが、なかなかそうもいかない。虚栄心さえ抜いてしまえば、我々の前には実にたくさんの生き方や可能性はあるが、自尊心の強い女は生き方を変えられず、自分に執着する。結局、自尊心で自分を縛っている。
虚栄心にしがみついている女は、他に自分の素敵なところ、気に入ってもらえる部分がある事にさえ気づかない。それらは自分を変えなければ出せないものであろう。変えれば「幸」になるかも知れないのに、変えなければ、「不幸」から逃れられない。自分で自分を不幸にするパターンがこれだ。自分のもっている何かに気づくだけでなく、それに自信を持つことも大事。
自分という存在の不思議さとは、自分が自分で自由にならない。自分が自分に釘を刺す、誰にもそんな自分がいる。自分を解放できない理由は、「自尊心」、「虚栄心」という厄介者のせいだ。捨てれば楽になるが、捨てたものでなければ分らない。捨てる勇気もない。「才能がある」、「頭がいい」、「家系がいい」、「学歴が高い」などが幸福の条件と考える人がいる。
離婚後西川は、「相手は年収4000万が絶対条件」は捨てたとアピールしたが、まだまだ捨てるものはあるはず。身軽になれば素敵な女なのに、自分で自分を不幸にしているような女に飛び込む男はいない。だったら女の側から飛び込ませればいいわけだが、それを邪魔するのが自尊心。人間は他人からどう思われるかで幸福などは決められないと知ること。
それが分かれば、他人によく思われるための虚栄心が不要であると分かる。ハッキリ言えることは、他人の評価で自分が不幸になる事はない。家柄、学歴、資産というような価値観をもっている人さえ選ばなければ、卑下されることもないし、くだらぬことが不幸の原因になることもない。そういう相手は人生に対する基本態度が間違っていると、見下げ、無視すればいい。
自分とは自分であるけれど、人から見た自分もその人にとっての自分であろう。自分のことは人に決めさせているし、人から見た自分の善し悪しが、人には好まれるという点で大事である。自分から眺める自分は、自己向上の理念を持っていれば、そこに到達するための切磋琢磨の自分である。主観的な自分、客体としての自分、どちらも別の用途として大事な自分である。
「自分が分らない」でいいのよ。分かったところで正しくない、思い込みかも知れない。大事なことは、自分(人間)は不思議な生き物として面倒見る。たまには自分に怒り、たまには自分を褒め、とにかく投げ出さないで自分に何かを教え、あるいは自分に教えられ、そんなバラエティーな自分を楽しむのがいい。「自分が好き」は、なんと素敵な言葉であろう。
傷つきやすい人に言う。お前はダイヤモンドかもしれない。ダイヤの原石の資格がある。何故って、ダイヤはこれでもか、これでもかと傷つけれて輝くのだから…。傷つけられて弱くなるのではなく、傷つけられた分、「強くなる!」と思えばいい。自己暗示は自分を変える。