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「人を殺す」と言う不思議

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我々は何かを行為するときに、その行為の善し悪しを判定するが何故だろう?そんなことにまで疑問をもって考えても答えは難しい。例えば、「善い行為をしたいからだ」と言っても、そればかりとはいえない。善し悪しを思考の末に「悪」と判定しても、その行為をするからだ。「善」を行う時はともかくとして、「悪」とわかって行為するとき、人の心はどうなのか?

「悪人」という言葉があるが、「悪人とは何か?」同じように、「善人とは何か?」。付け焼刃のマークシート方式の試験解答よりも、こういう問いに答える方が、人間の中身(論理性)を判断できる。もう一つ、感性をみるには、「感想文」がいいだろう。学生の夏休みの宿題の定番である、「読書感想文」だが、「何を書いていいのか分らない」という子どもがいる。

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どうしてそんなに構えるのだろう。目の前にある事が置かれているとするとき、「何をすればいい?」、「どうすればいい?」、それがわからない。というのは不幸なことと思うが、なんでそんな風に思うのか不思議である。そもそも読書感想文を、「どう書いたらいい?」、「何を書いたらいい?」という子ども自体、バカだと思う。バカというのは比喩である。

なぜかといえば、人には感性がある。感想文に限らず、行為や事象(自分の行為・他人の行為・あるいは自然に起こったことに限らず)に対しては必ず何かを感じるはずだ。だからそんな簡単なことを問うこと自体がオカシイ。と正論をぶってみたが、子どもは総じて作文の類を嫌うのはみな同じ。自分が思うにその理由とは、"無理やりやらされる"ということではないか?

それと、感想文にしろ、作文にしろ、「思った事を書けばいいだけだろ?」と教師は指導するが、こんなのは指導といわないただの世間話である。「感想文をどう書いていい?」と問われたら自分ならどう答えるだろうか?こんな風にいうかも知れない。「昨日、夕食を外に食べに行った。美味しかったけど、あまりに高くて予算をオーバーして、お金が足りなくなった」

さて、「このことをお前はどう思うか?それを書くのが感想文だ。今、言ったことから分らないこと、知りたいと思うこと、それらたくさん思うことがあるはずだ。書くという前に正しく知りたいことを知り、それで自分がどう思ったかを書く。予算オーバーして、お金が足りなくなったって、それってアホじゃん。バカじゃん、と思うだろう?実際そうだし、でも何故そうなったか?」

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それらを自分で考え、想像して書く。「昨日、夕食を外に食べに行った。美味しかったけど、あまりに高くて予算をオーバーして、お金が足りなくなった」。この言葉(文であっても)情報が極端に少ないし、これだけで満足して書こうとするような子では、書く感想文の中身もタカが知れてる。「どこの店に行った?」、「何人で行った?」、「そこでどんなものを注文した?」

「メニユーに値段は表示されていた?(寿司などは表示がない)」、「料金はいくらだった?」、「財布にいくら入っていた?」、「お金が足りなくてどうなった?カードは持っていたのか?」、「カッコワルイと思った?思わなかった?」という風に、どんどんと矢継ぎ早にいろいろ聞きたい(知りたい)と思うか、思わないか、それが感受性というものであろう。

感受性が高いか、低いか、それによって書かれたものの深さが変わってくる。つまり、そういう子であるかないかの差である。そうして親や教師や、教育者・躾に携わる者は、そういう子を目指すべきではないのか?と、これは持論だから押し付けではない。世の親は、算数や英語や理科の勉強が出来ればいいと思っているはずで、そんな所に思考が行かない。

自分がそこに行くのは、これまでの経験からどういう人間が素敵で魅力があるかを知っているからだ。生まれた子どもは人間に限らず、ネコやイヌの子どもでも好奇心が強く、目に入るもの、耳に聞こえるもの、臭い、味、あるいは触れて確かめたりの五感を駆使する。歴史年表や、滑車や化学式や形容動詞や漢字の書き取りや、それらが勉強という滑稽さ。

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「滑稽とまでいうか?」と友人はいうが、あくまで本質的なもの。普通の主婦がスーパーで買い物したり、そこらのおっさんがビール飲んで激論したり、それが社会であって、三角関数や微分・積分が社会に何の役に立つ?子どもの高い感受性を、どんどん奪い、蝕んでいくのがオトナであったりする。が、親も教師も勉強できる子を「いい子」と求めている。

そこが自分と大違い。「光るこども」はそんなんじゃない。「光るこども」は教科書に書いてある事を覚えていなくとも(つまり学校の成績は悪くても)、感性の輝きを示してくれる。「光る」とはそういう意味だ。人の上に立ち、人を使うのは頭の良さと思いがちだが、人は感性で使えるものかも…。頭の良さを生かしたいなら、人にアレコレ指示しないで済む研究者になればいい。

頭がいいからといえど人を使えない、指図すらできない人間はわんさといる。だから、企業人はそういう人間を上に据えると失敗する。ときめく感性の持ち主こそ、広い視野で的確な判断をすることが見られる。つまり、感性の中には人への気づかい、洞察がある。頭がよくて女が口説けるか?そういう男でも女の胸は触るが、感性のある男は女の胸の中を触る。

今こうしてブログ等を書いているのも、思考を落さないためだ。どんなことでも自分で思考したいからやっている。淋しいから、暇だから、孤独だから、人と触れ合いたいからではない。本質は何か?大事なことは本質を見極めようとする姿勢であろう。されど、本質を見極めるのは難しい。結局見抜けないかもしれない。が、その姿勢は思考をどんどん深くする。

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今の時代は、もう権威にぶら下がっていれば安泰という、そういう時代ではなくなっている。権威者であっても、うかうかしているとすぐに奈落の底に落とされるからだ。大事なことは、自分で考えること。自分で考えたものを自分で発信すること。そうして自分の考えを客観的に見、再度思考すること。そのために、ブログやツイッターなどは、最適なツールである。

不思議なことに、書いているときと書いたものを読むのはまるで違う。書いているときは熱く、読んでいるときは冷めている。自分の歌や楽器演奏を録音してプレイバックしてみると分かるが、歌っているとき、弾いているときと、聴くときはまるで違う。その違いがなにかと新鮮であったり、意外であったり、羞恥感情であったりする。主観も客観的に見ると、客観性と変貌する。

一歩踏み込んで思考する。さらにもう一歩踏み込んで、という作業はキリがないし、だから一つの表題で何度も何度も書きたくなる。それでも洗いざらいどころか、1%にも満たないものかと。踏み込んで違いを思考する場合には、様々な角度から考える必要がある。それプラス周囲は気にしないこと。周囲の雑音など気にしていたら、純粋に自分の思考ができない。

それがオリジナリティーというものだ。周囲の意見などと多数に組しているのが決していいとは思わない。大事なのは自らの思考であり、それがオリジナリティーである。何かを見極めようとするなら、とにかく能動的に動くことだ。他人の権威にぶら下がっている時代はとうに終っている。先ずは自分の頭で考える、そしてできたらそれを発信し、客観的に眺める。

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これって自分の考えなのか?立ち止まるのはしょっちゅうある。こんなことを考えていたんだなと、まるで少年期の日記を見ながら時々の自分の驚くように、人間の思考は絶え間ない連続性の中にある。いつ、なんどき、思考停止になるかは分らないが、それは人間の終わりであろう。が、そういう若者がいる。「これってどうするんです?」。こんな若者にはガッカリだ。

「自分で考えろ」しかいう事がない。が、そういわれた時点で情けない。社会が、世の中が自分で考えなくてもいいように、マニュアル化されたことの影響であろう。とにかく考えなくてもいいように答を用意され、人から教えてもらい、それらを多く頭に入れている。これが頭がいいとは笑止千万。柔軟性もないし、話が収束的で広がりがない。これは知識だけを独立して閉まわれているからだ。

考えるという事は歯止めのない事。木々をなぎ倒し、土台のある家までも流してしまう津波のようなパワーがある。人間にはパワーとロジックが求められるし、この両方がないと人を説得はできない。パワーはエネルギー、ロジックは分析力。すべての人間にいえることは、この世は人の世ではあるが、主に自分が作り出している世であるとの認識を持つことか。

であるから、深い物語を作ることもできる。昨今の企業形態から思うに、学歴社会も官僚社会も確実になくなる。なぜなら、それらが良く、正しく、機能していないとわかったからだ。最後に重視されるものは、人間の内面であり、想像力かも知れない。何でもいいから感動して生きてみることも大事だ。「腹がすいたから牛丼でも食うか」ではなく、「おお!牛丼ではないか!」。

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そういうところから、物語は面白くなる。「暇だから、暇つぶしに何かをやる」ではなく、「一生懸命にそれをやった方が価値がある」、「面白い!」、こういう発想でなきゃ世の中オモシロクないだろう。好きを極めた人ってすごいのよ。なにより楽しんだことの結果が見えている。遊び心が、「いい仕事」につながるんだろう。最初から、「いい仕事をしよう」ではダメだ。

その仕事に心を奪われる、そういうのが遊び心の真髄か。男にはそういった遊び心が備わっている。だから大成する人間には男が多い。彼らにはパワーもロジックも備わっている。「何かに打ち込むのが大事」と当たり前のようにいわれるが、打ち込んでいないから目移りする。さて、表題を忘れて書いていたが、書き始めはとりあえず表題に殉じて書いている。

行が増えると、「表題なんだったっけ?」となるのはいつものこと。だから、「表題」は好きでないが、「表題」は頭を整理してくれるものでもある。「人を殺すと言う不思議」が本日の表題だ。物事の善し悪しを考えることはもはや習慣・癖と言った方がいい。我々は、悪いとしたものを、「否定・批判」する。悪いと判定したことがすでに、「否定・批判」となっている場合もある。

イメージ 7人を殺すこと、殺そうとする人、殺した人は悪いとされる。理由は各自考えるとし、「善い」でないならいろいろあるだろう。が、人を殺すのは悪いことだが、殺したほうがいい、死ぬべきだと言う人もいる。これは生きていることが容認されない類の人である。人間の倫理観のなかで、殺人の善し悪しは、ケースバイケースになっている。自殺もそうだ。確かに他人が見て、「許容(理解)」できる自殺もある。犯罪としての殺人は、止めたくてもどこの国でも、殺人は自由に行われている。「何故だ?」。殺人は悪いことだと知り、罪でもあり、罰もある。自分の命を差し出す罰があるのに、何故殺人は行われるのか?それは「シンクロニティー」と関連する。「シンクロ」とは、「共時性」、「同時性」、「同時発生」。

「シンクロニティー(シンクロ)」は、ユングによって提唱された概念である。従来知られていた「因果性」の原理とは異なり、複数の出来事を離れた場所で、同時期に生起させる原理である。殺人とシンクロの関連をいう前に、もし、人間が意識的に思考を止めるとする。と、面白い「シンクロ」の連続が起こり出す。どういう事かを説明するのは難しいが、例えば…

嫌なやつがいるなら簡単に殺せてしまう。つまり、嫌な奴をこの世から葬りたいとする願いが「簡単に叶う」ということが起こる。「欲求」は「願望」とは違い、自身の、「思考深層部」と、「感情」が織り成す想念や概念のようなものが、そのまま具現化しているような感じであろう。で、具現化したものから受け取る、「感情」の反応を観察していくとどうなる?

ある「不足感」が抱く「欲求」という願いが叶っていたとしても、自身の全体としての「不足感」は解決されず、並行して同種の「欲求」を抱き続けねばならないよう、現実がシンクロによって変化する。シンクロは、「今」この瞬間の気持ちを持続させるように起こるゆえ、「不足感」が持続するように己の現実を作り、常にその願いを叶えてくれるのだ。

つまり殺人は「ネガティブ・シンクロニティー」が具現化して起こるもの。「ネガティブ」とは、怒り、恐れ、心配、恨み、妬み、悲しみなど、まだまだ沢山ある。また、ポジティブは、嬉しい、楽しい、幸せ、歓喜などの「愛の状態」である。人はこの、「愛」と「恐れ」を両極に持つ、二元性の生き物である。殺人は上記した「ポジティブ」感情から起こる。

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単に欲望からの物盗り殺人とて、「(お金のない)不安、心配」から、強奪後の「捕まる不安」から殺人に至る。「岡山元同僚殺人」の被害者が強姦後に、「誰にもいわないから、殺さないで」と発した言葉を信じなかったのは、二人の間には加害者と被害者以外の人間関係はなかったからか。信じてどうであったかは未知だが、多くのレイプ事件は泣き寝入りが多いのも現実。

2005年11月22日、広島市内で、当時小学一年生の木下あいりちゃん(7)が、下校途中に性的暴行を受けて殺害され、ガスコンロのダンボール箱に詰められ捨てられるという残虐非道な事件があった。後日、ペルー人のホセ・マヌエル・トレス・ヤギが逮捕された。ヤギ被告は、あいりちゃんの首を絞めて抵抗力を奪った後、膣に何度も指を差し込んだ。

膣口を裂き広げ、出血させるほどの手荒さで、膣の最奥部に位置する外子宮口の周囲にも多数の出血跡が残っていた。さらに、あいりちゃんが瀕死の状態になると、ヤギ被告は肛門にも指を突っ込み、肛門部から奥にかけて4ヵ所の裂傷を負わせた。ヤギ被告はこの間に射精、精液はあいりちゃんの肛門部やパンツに付着していた。あいりちゃんは陵辱されている最中に涙を流していた。

だが、肛門を弄ばれた後に心停止状態となり、こと切れた。6月26日に広島市内で記者会見を開いたあいりちゃんの父親はこう話した。「あいりは声を出すと殺されると思い、涙を出しながらも暴れなかった。何も悪いことをしていないから、暴行が終われば帰してもらえると思ったのでしょう。性的暴行は拷問に等しい。犯人は二度、命を奪ったのです」と。

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そして、酷い強姦の実態・事実を余すことなく報道して欲しいと懇願した。ヤギ被告は無期懲役となる。広島地裁の岩倉広修裁判長は、「計画性がなく衝動的な犯行で、前科も認められず、死刑にはなお疑念が残る」と死刑を回避の理由を述べた。「人の命を奪いし者、自身の命を差し出せ」を強く感じる事件である。女の子に生まれたばかりに、あいりちゃんは…



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