Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

「死ぬ」と言う不思議

$
0
0
「死」とは何か?について小学生に質問したら、次のような答がくるのではないか?「命が終ること」、「命がなくなること」、「心臓が動かないこと」、「体が動かないこと」、「生きてないこと」、「息をしないこと」、「腐っていくこと」、「意識がないこと」、「一生が終ったこと」、まだまだ他にもあるだろうが、上に挙げたことはどれも正しく、どれも間違っていない。

では、「死とは何?」と聞かれたら自分はどう答えるか?沢山あるけど、ありふれた普通の答えではつまらないので、少し人に考えさせる意味でこう答える。「死とは目にみえないもの」。どういう事か分かる人もいるが、説明のいる人もいよう。分からぬことをさも分かったようにいう人はいるが、本当に分かったことなら誰にも分からせることもできるはずだ。

イメージ 1自分だけが分かっても、「分かった!」ことにはなるが、人に分からせることは、「分かった!」の実態も範囲も広まることになる。「死が目に見えない」といえば、目の前に人や動物や虫の死があれば、ちゃんと見えるではないか?「死が見えないってどういうこと?」と問われるかも知れない。確かに死は目に見える(ようだ)。けど、"ようだ"という括弧は何だ?
自分が言いたいのは、目の前にある何かの死は、それがピクリとも動かず、5分も10分も同じ状態であり、息もしていないようなら、それを死んでいると認識する。「虫の息」というが、虫は息(呼吸)をしない。なぜだ?考えたことがある人はおそらく少ないだろう。なぜ、呼吸をしないで生きていられるのか?いや、虫は息はしている。あまりに小さいので人間に聞こえないだけだ。

それを証拠に、人間や動物のそういう状態を、「虫の息」というではないか。これは、正しいようで正しくない。確かに、「虫の息」とは今にも絶命寸前状態の、耳を清まさねば聞こえない状態をいうが、もし、小さな虫が息をするなら、おそらくそういう感じであろうとの比喩で、虫は息をしない。では息(呼吸)をするとは、どういうことか?なぜ呼吸をしなければ生きていけないのか?

なぜ呼吸をしないで虫は生きていけるのか?呼吸は肺で行う。息をするとは酸素を取り込むこと。酸素が生命に必要であるからだ。息を吸うと空気の中に混じる酸素が、気管に入り、木の枝の先端のような細い気管支へと枝分かれして、最後に肺胞というところに入る。肺胞一個に気管支1本がつながり、肺胞に入った空気は肺胞内をとりまく毛細血管に入っていく。

呼吸とは字の如く、酸素を吸気とともに外界からとり入れ、二酸化炭素を呼気として外界に捨てること。これをガス交換といい、生命維持には絶対不可欠。呼吸は意識でなされるが、ほとんど無意識で行っている。X線撮影のときに、「ハイ、息を吸って~、息を止めて~」というように、意識で止めることは出来るが、もし技師が、「息を止めて~」のままだったら人は息をせずに死ぬのか?

そんな馬鹿な。そこまで従う必要はない。ところで人間は、どれだけの長さ息を止められるのか?普通息を吸うのは体の酸素が欠乏するからだが、欠乏する前に息を吸いたくなる。息を止めていると酸素が欠乏する前に、最初のうちは脳が不快感を起こしてイライラする。そしてついには許容範囲を超えてると判断、脳は強制的に横隔膜に呼吸再開の指令を出す。

イメージ 2

さすが「脳さん」、あんたは命を司る司令塔だよ。ところが、そういうた脳の指令に逆らい、くだらないギネスブックのために(というか、人間の限界の挑戦のために)息止め実験をやる人は後を絶たない。険しい登山をする人は「そこに山があるからだ」と果敢に挑戦するように、息止め行為をする者は、「そこに空気があるからだ」ということなのだろう。

一般人の息止め秒数は以下の通りだが、この記事を書いてる最中、自分も挑戦してみた。一回だけの挑戦で65秒であった。もう少し体調等を整えたら90秒くらいはいけそうな気がするが、酸欠でちょっと頭がクラっとしたが、それよりなにより、脳の横隔膜指令のストレスがすごい。「コラ、お前は何やってんだ?しょーもないことすな!」と怒り心頭の脳である。

イメージ 9

ちなみに現在記録されている世界記録は、「22分22秒」であるというが、「これは凄い!」。この人は、息止めに挑戦するに際し、新陳代謝を鈍らせるために5時間前から絶食、思いっきり純酸素を吸い込んで肺を満たしたという。が、これだけ長く息を止めていられる理由は、ヨガを組み合わせた独自の方法を体得しているからという。肺活量も一般人より20%多いそうだ。

先ほど酸欠で少しフラっと、といったが、生体反応的には息を止めると脳が活性化するといわれている。理由は、息止めすると脳は酸素が減少していると錯覚し、頚動脈が大きく開いて、多くの血液を脳に運ぶ。それによって酸素を含んだ血液が通常以上に脳にいきわたる、ということらしい。そういわれて見ると、息止めした後には脳の爽快感があるようだ。

イメージ 3「男女の窒息プレイはこれなのか?」と、言ったところで今日のお題目は「死」についてだが、上に提起した「虫はなぜ息をしないで生きていられるのか?」だが、実は虫は呼吸をしている。中学の「生物」の授業で習ったと思うが、昆虫の大部分は腹部に気門という穴があり、そこから空気を取り入れて呼吸を行っている(水生昆虫はエラで呼吸をしている)。
人間や小動物も含めて一般的に血液の中の赤血球が酸素を運ぶが、昆虫には酸素を運ぶ血球はなく、体中に張り巡らされた気管が体の隅々までに酸素を運んでいる。うまくできてるのよ、これを神が設計したと有神論者はいうが、これを上手く出来たものが、自然界で、何かの意図もなくできるはずがない。よって神の仕業以外に考えられないというスタンスのようだ。

自然の不思議、自然の合理は、人智を超えたものであるが、だからこそ花の色や形にしろ自然の産物と思うが、どうしても何者かの仕業にしたいらしい。全能の神、何でも創れる神の設計なら不思議でないのか?不思議ではないのだろう、その点はさすがの神である。自分などは、これだけ複雑で機能的で効率的な生命体を、神がどうして創れるのかと思ってしまう。

が、反面、人間が神を作りたがる理由も分からなくもない。本当にいるなら、「神よあんたはすごい人だ!」いや、人ではない、「神よあんたはすごい得体の知れぬ何かだ!」。人間の描く神の絵、神の姿、神のイメージは、人間の姿・形の域をでないが、人間は神の姿を人間以外に捉えられないものか?と思うが、神は自分に似せて人間を創ったというのだから似ていて当然。

という論理。それならそれ、聖書にある神の言葉はいかにも人間的である。全知全能の神は、これほど世俗的・人間的なのか?てなことを宗教者にいうと、「あなたは神のことを知らなさ過ぎる」という。「あんたこそ、神についての概念は書物で仕入れた受け売りだろう?」といえば、「信仰者は聖書がすべて、聖書を疑うなら信仰はなりたたない」らしい。

その人の規範になる信念のことを「バイブル」という言い方をするように、聖書はキリスト教の唯一無二の聖典である。が、キリスト教のみの聖典でもない。『旧約聖書』はユダヤ教、イスラム教の聖典でもある。『旧約聖書』には謎も多く、理解しがたいことも多い。最後の審判やメシアの出現をにわかに信じられぬ人であれ、『新約聖書』の言葉に心打たれる。

イメージ 4

キリストの慈愛に満ちた清冽な言動は、信仰に浴さぬ人々の心さえも洗う。信仰を否定はしないが、信仰を不要とする一抹の人間である。信仰には生のご利益も言われるが、むしろ死へのご利益が言われたりもする。死が損失であったとしても、人はその損失を受け入れることになる。であるなら、「損失」と思わない方がいいのか、「損失」ろ向き合うべきか?

人生には様々なリスクがある。日本語化した「risk」という言葉は、危険、恐れ、不確実性、未来的に損害の発生する可能性との意味。同じ「危険」の意でも、英語の「デンジャー(Danger)」が、「そこにある危険」全般を表すのに対し、「リスク(risk)」は「ある行動や選択を行った場合に発生しうる危険」のことを意味し、「自己責任により冒す危険」と言える。

人が寿命を持つことをリスクといわない。摂理であって、死のリスクの高いところに出かけるのとは違う。普通に生きても誰にも死は到来する。我々は人の死は見るけれど、自分の死を決して見る事はない。死後に、「屍から魂が離れて、自分の屍を見ている」という表現はあるが、現象の真偽はさだかでない。我々は、「誰それさんが死んだ」という言い方をする。

長年飼っていたペットでもいい。死んだというのは、「動かなくなった」ということをいう。ペットが目の前で、「動かなくなったから死んだ」と思うか、「死んだから動かない」と思うか、は人それぞれだ。もう餌をやることもないし、喜んで食べている姿を見ることもない。呼びかけても跳んでくることもない。生きているときと大違い、これが死ぬということだ。

イメージ 5

死んで動かなくなったペットを見ながら、「動かないとは何か?」を考えてみるに、息をしていないのも動かない。触れてみると心臓の鼓動もない。そういった目に見え、触れて感じることで、「死んだ」と認識するのであり、横たわる「死体」がそこにある。ペットの死体はみることができるが、果たして飼い主は「死」を見る事はできるのであろうか?「死」がペットの死体のどこにある?

それが自分の言う、「死は目に見えないもの」である。人の死、あるいはペットの死に遭遇し、死体に遭遇しても、死体は目にすることができても、「死」そのものを見る事はできない。目にできるのは、「現象としての死」であろう。現に自分が死んでも死を見ることも、体験すらもできない。愛玩したペットの死体は見えるが、愛くるしい心はどうなったのか?死んだ誰かの心は?

同じように自分の死の一切を自分は見ることができない。自分のことなのに自分の屍さえみることができない。もう、自分はいないのだし、自分はなくなったのだ。その「自分のなさ」すら考えることもできない。「ああ、この虚しさ、この淋しさ、これが恋なのか」という歌があるが、生きているから感じる虚しさであろう。おそらく死は虚しいはずだ。

しかし、それを感ずることもない。「ある」はすべて生あるものに存在し、「ない」はすべて死するものに存在する。生死の不思議さとは、端的にいえば「ある」と「ない」の差ではないだろうか。苦しさがある、悲しさがある。喜びも、苦痛も、楽しさも、すべて生きていることの産物だが、死ねば一切がない。つまり「死」は「無」である。では、「無」とは何だ?

イメージ 6

「無」とは何も無いことである。だとするなら、「死」が「無」であるなら、死は無いことになる。死とはいったいどこにあるのか?いや、「死=無」なら死はどこにも無い。なのになぜ人は死を怖がるのか。何も無い「死」を怖れる理由はなんであろう?おそらく、何も無いから怖い。何も無い事が怖いのではないのか?という事は、何かをしたい、何かを起こしたい。

それが人間であろう。何かを起こすことは何かのリスクがある。そのリスクでさえ、何かが起こるという喜びではないのか?起こることを怖がっているより、起こることは、まぎれもなく起こそうとしたこと。だから起こったのだ。ということは、何も起こらない「死」を怖がり、忌避していいことになる。死ぬことを怖れることは当たり前なんだと。自分の死も、他人の死も…。

人が死ぬのを怖れてあげたらいい。可愛そうだと思ってあげたらいい。いかなる理由で人が人を殺すなど、そんなことをすると罪と罰が怖いからではなく、人が死ぬのは哀しいだろう?自分が死ぬのが怖いように、人も死ぬのが怖いんだよ。自分は死にたくないなら人を殺すな。「お願いだから殺さないで…」哀願する女性を無慈悲に殺した男の事件が数件あった。

どうして逆の立場に自分を置かないのか?不意に殺されるより、これから死ぬであろうという境遇の恐怖心…。「殺さないで」、「話を聞いて」、これは『闇サイト殺人事件』の被害者の叫び。「殺さないで、誰にも言わないから」、これは同僚に監禁され、強姦・殺害された、『岡山元同僚殺人事件』の被害者。犯人で死刑が確定した住田紘一は、「命乞いにも心は動じませんでした」と公判で吐き捨てた。

イメージ 7

3日前の29日午前、神奈川県三浦市の港でビニールシートに包まれた人の遺体のが見つかった。女性の身元確認を進めるとともに捜査本部を設置し、殺人事件として捜査している。遺体は岸から20~30m ほどの海面に、ビニールシートに包まれ、ロープで縛られ重りがつけられてうた。警察の司法解剖の結果、女性は30代から40代くらいで、身長は170cmくらい。

司法解剖の結果、肺などに大量の水を吸い込んでおり、県警は生きたまま海に入れられた溺死と明らかにした。溺水とは水などの液体を気道に吸引して窒息することだが、これをされたら最初はパニックに陥り、息をとめようとするが、30秒から90秒くらい頑張るものの、やがて肺に水が入ってくると、「胸が引き裂かれて燃えるような感覚」を覚えるという。

酸素欠乏から徐々に無意識状態に陥り、終には心停止。人は残酷だ。恨みの度合いか、もしくは愛知、岡山の女性のように何の恨みもないのに、ヒドイ殺され方もされる。何のために生きてきたのだろう、こんな目にあうのなら。金品も強姦もいいが、せめて命くらいを助ける仏心はないのかと。生きたまま海…、この被害者の感じた恐怖を思うと、同じ目に合わせてやりたい。 

2002年にあった、「三島女子短大生焼殺事件」も、強姦後、生きたまま焼かれるという惨忍さで、筆舌に尽くし難い人間の犯行である。以前はこういう行為を、「鬼畜」と断罪したが、こんなにも数が増えると、「鬼畜」という言葉よりも、人間そのものが普通にこういうことを行うのかもしれない。犯人服部純也死刑囚(40)は、2012年8月3日、死刑を執行された。

イメージ 8


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>