【「異性」という不思議 】なんて表題で書いたが、表題らしくない、表題とはまったく関係のないことを書いたという人もいよう。それは個々の主観だから、「我思う」のはどんな風に思ってもそれは問題ない。主観とは「自我」であり、よって主観なきひとは「自我」がないということになる。「自我はなくても痔があるよ」というのは、さえないオヤジギャグ。
自我を説明するのは結構難しく、こういう難しいことは考えるよりも知識として知る方が手っ取り早い。何でもいちいち考えるクセも大切だが、考えても分かりそうもない事ならすぐに調べて知識とした方がいい。自我は自己ではないし、自我は自己とは違う。自己の方が説明は楽だ。自己陶酔、自己紹介、自己流、自己満足、自己中などの言葉からでも意味を推察できる。
日常で使う「自我」は自己より少なく、「自我同一性」、「超自我」くらいが浮かぶ。「携帯で自我撮り写メって~」というメールをもらったことがあるが、正しくは「自画撮り」だ。漢字間違いなんか直す必要はない。指摘されれば直すが、漢字書き取りテストじゃあるまいし、言う側が意味を理解し、受け取り側も理解できたらそれでいいのがオトナの世界。
それが一番大事なことだが、時たま指摘をするとすごく恥ずかしそうにしたり、弁解したりする人もいる。な~んにもカッコ悪いことじゃないのに。それが分かった以降、他人の漢字間違いは指摘しないようにしている。別に「自我撮り」でも「自画撮り」でも変わりない。むしろ間違ってくれたおかげて、「そっか~、自画撮りだな」と、意識を新たにする恩恵となる。
だから、間違った漢字は相手にプラスになったと思ったらいいし、ただし腹で思って口には出さぬこと。せっかくの相手の指摘(善意)を無にするばかりか、嫌な気持ちにさせることになる。他人の主観にチャチ入れる奴も、漢字間違いを指摘する奴も、人から好かれない気質だろう。親切心のみで指摘してあげたいなら、言い方に気を使う必要がある。
なぜ気を使うかは、上のように自尊心を傷つけられたと思う人もいるからだ。自尊心を傷つけないように上手にいうことだ。若い頃に、親切心で指摘したら「お前はワシに物を教えようとするんか?」と言われてビックリしたことがあった。そこまで言うか(思うか)、なんと器の小さい人だといっぺんに嫌いになった。物事を悪意にとる人は、心が歪んでいる。
歪むような生い立ちがあり、それは親や周囲が作った環境だ。悪意はなくても悪意に取られることの対処をどうする?これが社会で人が学ぶべき大事なことの一つであろう。自分はこのことを相当学んだ。善意にいって、いきなり気分を悪くする、怒る人は多かったが、その時「なんと心の(器の)狭い奴だ」と、自分に言い聞かせていたこともあった。
若い頃はそうしか思わなかった。「悪気はないのに相手が勝手に怒るなど、知ったことか!」、「それでなんでこっちが謝らなきゃならないんだ?」と、このように思った人は多いだろうし、すぐに自己断罪して、「ごめん、気をわるくした?」と謝る人もいる。悪気がなくても、相手が立腹したなら"誤解を与えることを言った自分が悪い"というのは穏やかだ。
少年の心意気は、"自分が悪くないなら絶対に謝らない"というのも男らしい気概であろう。が、「火のないところに煙は立たない」というのはその通り。情緒が成熟し、つまらぬ維持を張るよりも"謝るのがいい"という考えになっていった。最初からすぐに謝るというスタンスよりも、こうした紆余曲折を経て、信念として謝罪が正しいとなったことに価値を感じている。
「何でも謝っておけばいい」というのとは雲泥の差であろう。人はオトナになる。若いころは誰でも無知だしバカである。バカであるから成熟があるのだろう。さて、「異性の不思議」という表題とし、それを含みとした雑多なことならいつまでも書けるし、今後も折りに触れて書くからいいが、異性についても、人間についても、一筋縄ではいかない生き物だ。
だから、何を書いても人間についての記述になる。異性も人間なら「表題」云々ということはない。「えっ?このタイトルでこの内容?」という文学や映画などいくらでもあり、タイトルの示す割合というか、それほど縛られてはいない作り手も多い。作者の題するタイトルを編集者が変えることも多い。一つの詩、一つの楽曲からいくつものタイトルがつけられる。
ベートーベンの有名な『月光の曲』も、ベートーベンはそのように聴かれるなど、夢にも思っていなかった。印象派には表題音楽が多く、ドビュッシーの『月の光』は、月夜の光をイメージして作ったように取れるが、ヴェルレーヌの詩集『艶なる宴』に収録されている詩「月の光」、フォーレの「月の光」に似た音形があることから、こちらの影響を受けたと思われる。
ベートーベンの『月光』に影響され、自分ならどういう『月光』を考えるだろうか、と思案して作ったりするように。それで出来上がったが『月光仮面』てなことではない。が、ショパンのピアノ協奏曲第一番は、小林亜星にかかると『北の宿から』になる。他にもある。ホルストの『惑星』より「天王星」はどう転んでも「たんたんたぬき」のキン時計である。
プロコフィエフの『ロメオとジュリエット』はいかにも「ゲゲゲの鬼太郎」。チャイコフスキー『交響曲第四番』は、誰が聴いても「亀田のあられ、おせんべい!」でしかない。まああれだ、似ていないものを探すのが至難であろうし、盗作・盗用問題はついて回るのは仕方がない。八神純子の『パープルタウン』も盗作とされ、原曲の外人の名がクレジットされている。
ジョージ・ハリスンの『マイ・スウィート・ロード』の発売五年後に訴訟となった。作曲者は概に死去していたが、作曲者の母親&楽曲管理者が起こした訴訟に対し、「何年も前に死んだ彼(作曲者)の会社を引き継いだ会計士たちが、金目当てに僕を訴えている」とハリスンはコメントしたものの敗訴、58万7000ドルの損害賠償を命じられ、支払いを実行した。
盗作のイマジネーションの線引きは難しいが、意図する意図しないに関わらず、長い小節の引用は盗作と認定される。これは仕方のない事だ。人間の口は嘘をつく。「原曲の存在は知らなかった。たまたま自分のイメージと合致しただけ」と言っても、真実かどうかは分らない。それなら楽曲そのものは嘘をつかないし、そこに現実として存在しているわけだから…
次なる女性の楽しみと浮かんだのは美容院。美容院といえば髪型。近頃はヘアスタイルといい、これも女性の楽しみだ。と同時に、男にとっても女性のヘアスタイルは楽しませてもらえる。「歌は世につれ」というが、「髪も世につれ」である。子どもの頃にセシルカットが流行った。1958年公開の映画『悲しみよこんにちは』で、女主人公セシールの髪形から流行。
『悲しみよこんにちは』はフランスの女流作家フランソワーズ・サガンの長編小説演じたのはジーン=セバーグで、そこからセシルカット。当然ながらこの映画は見ていない。4年前の1954年にはヘップバーンカットが流行る。いわずもがなオードリー・ヘップバーンの髪型である。1967年にはツイッギー来日旋風と同時に、彼女のツイッギーカットが大流行。
70年前半には南沙織、栗田ひろみ、麻丘めぐみなどのロングヘアが流行る。麻丘めぐみのそれはサイドのみ短く直角にカットし、お姫さまカットといわれた。70年代にはウルフカットが一世風靡。当時は男も長髪で、野口五郎、西城秀樹、沢田研二らがウルフカットにした。70年代後半にはキャンディーズの伊藤蘭がロングヘアに軽くパーマをかけて、トップを短くしたスタイル。
ロングではワンレン(ワンレングスカット)とともにボディコンがディスコブームのアイテム。ワンレンの派生系で、トサカのように前髪を立たせたり、芸能人代表は森高千里。ロングに細かいパーマをかけたソバージュは、80年代後半から90年代前半のバブル時代を象徴する髪型で今井美樹が長いことしていた。現代に生きるザ・キング・オブ・ソバージュは、葉加瀬太郎か。
蘭ちゃんカットは、80年代のアイドルヘアの先駆け的な髪型となる。そうして極めつけはなんと言っても聖子ちゃんカットであろう。前髪は眉を隠す程度、サイドとバックは肩下5〜10センチ程度のレイヤードをセンター分けにし、毛先をサイドは後ろ、バックは内側にゆるくカールさせる。当時自分は同じ聖子ちゃんカットの早見優と松本伊代の区別がつかなかった。
一応男にも名前のついた髪形はあった。先ずはGIカットで、アメリカ兵士が入隊の時にするカット。GIとは、Government Issue の略で、本来は官給品の意味だが、下士官・兵は衣服その他が官給であるところから、アメリカ兵の俗称となった。1950年代にロカビリーの幕開けと共に流行したダックテール。「アヒルの尻尾」を意味したリーゼント風の短髪である。
慎太郎刈りは、芥川賞受賞当時の石原慎太郎のヘアスタイルで、メディアに取り上げられ、写真や映像を通して瞬く間に日本中に広まった。小説から「太陽族」なる言葉も生まれ、登場人物の生き様やファッションとともに、若者の流行のひとつとなった。慎太郎の弟裕次郎もこの髪型で、どちらかというと裕次郎がカッコよくて流行ったのかも知れない。
ビートルズとともに流行ったのがマッシュルームカット。別名モップヘヤとも言われたが、眉毛の上で前髪を切りそろえ、全体をマッシュルームのように膨らませた形になることからこう呼ばれた。なお、現代に生き続ける、ザ・キング・オブ・マッシュルームカットは、雨上がり決死隊の蛍原徹。モップヘヤが雑巾なら、クールで清潔な髪型の代表がアイビーカット。
これは石津謙介が日本でアイビーファッションを流行させたことによる。ロングヘアの代表である狼カットは、ロッド・スチュワート、キース・リチャード、日本では長渕剛などが代表的だったが、マイク真木をはじめとするカレッジフォークのメンバー、ワイルド・ワンズの全員、加山雄三、田中邦衛など、アイビーファッション&アイビーカットの芸能人は多かった。
その他、サーファーカット、テクノポップが流行るとテクノカット、テクノカットよりも前髪部分が長く、ふぞろいにしたスタイルで、チェッカーズや吉川晃司らがやっていたチェッカーズカット。キャロルや横浜銀蠅などが愛用し、不良やヤンキーが好んだリーゼントカット。ソフトモヒカンは2002年の日韓ワールドカップでベッカムがこのヘアで登場し、流行らせた。
90年代に再び長髪が若者ファッションとして取り入れられる。これは江口洋介や木村拓哉の影響であろう。単純にロン毛と呼ばれた。ショートヘアではボッブ風と刈り上げの混在するツーブロックが流行る。吉田栄作のサラサラヘアなツーブロックはイケメンにマッチして人気だった。EXILEのATSUSHIが坊主に様々な模様の刈り込みを入れる髪型をバリアートという。
極めつけはスキンヘッド。髪を剃り上げたヘアスタイル、いわゆる丸坊主のこといい、これがヘアスタイルなのか?髪型といえるのか?そうともいえるし、そうとはいえない。薀蓄をいうなら、髪がたくさんあるにも関わらず、剃っているとするならヘアスタイル、毛がなくてツルはげなら、これは髪型とは申せまい。問答無用の「ハゲ」である。
それにしても頭頂部の毛がないからと言って、サイドや後頭中部or後頭下部の毛を頭頂部にもって来る髪型、アレは特には名はないが、付けるとしたらフェイクヘアか。ズラこそフェイクという人もいるが、分かるズラはフェイクでも、分らないズラもあるから、ズラ=フェイクの断定は誤り。1:9分けをフェイクとする理由は、誰が見ても頭頂部の髪でないからだ。
髪型(ヘアスタイル)の定義は、髪があるというのが大前提だから、ハゲはヘアスタイルを楽しめない。頭頂部の毛がない(いわゆるハゲ)をごまかすために、すべての毛を剃って、「どうだ、スキンヘッドだ。カッコいいだろ?」といわれても、「それってハゲを目立たなくするためにごまかしてるんでしょう?」というのは、おそらく失礼にあたるので言わぬがいい。
女性が胸パットを入れて、そ知らぬ顔をしていると分かれば、胸は触らないようにするのが紳士である。そういう女性が、そういうシュチエーションを受け入れようとするとき、必ずトイレにいってパットを取って来る。その時、小さくなった胸を見て、怪訝な顔をするのもよろしくない。これはズラの男の髪の毛をむしゃむしゃすると同じ御法度であろう。
近年はパットはブラの中に入っているか、ブラの生地が厚くて上げ底であったりと、時代も便利になったものだ。そういえばズラも最近は進化したのか、頭頂部の残り少ない毛髪の根元を縛ったりして増やすマープ増毛法とかあるらしい。ヘアスタイルとして認められるか否かはさておき、ブルース・ウィルスのようにスキンヘッドにするのが、お勧めだ。で、結論は以下。
男はどうして女を求めて さまよっているんだろう
女はどうして男を求めて 着飾っているんだろう
女はどうして男を求めて 着飾っているんだろう