多くの人は、結婚が男女関係の最上の形であると思いたがるが、ピュアな観点から見れば決してそうではないということ。つまり、自分の意見は打算を排除したもの、さらには男女関係における自由な選択肢を提示するものだと念を押す。決まりを守って規則正しく物事を行うのが悪いとは思わぬが、規則というのは破ったら罰を下される。それが結婚に対する離婚。
大事なことは、「この人が必要だ」と思いながら暮らせること。ならばどういう形でも同じことだ。そうした純粋性からすると、結婚は打算の極みである。彼女の友人は他人事でもあり、友人としての無難な打算をいったまで。だから、周囲の意見に踊らされないようにするのが大変で、そのことは自分の意見も同様だ。ただし、自分はピュアな生き方を提示する。
一時期に比べて同棲というのは市民権を得ている昨今だ。踏み出すことに何を怖れることがあろう。事実婚という形態も自然な男女関係の在り方ではないか。比べて結婚というのは、形式であるがゆえに不自然な部分はあるが、法的な整備も含めて枠に嵌めなければ収まらない。勿論のこと結婚のメリットも多い。今後はさらに男女関係の選択肢は自由となろう。
保守的な人もそうした自由な流れに飲まれていくことになる。問題点はといえば、「自由」の対義語が「責任」となることで、その所在が曖昧になることだ。「同棲のメリット・デメリット」、「事実婚のメリット・デメリット」で検索すると書かれている。近年はネットが何でも教えてくれるが、そういうものを閲覧することで踏み出しにくくなる。
当然にして「結婚のメリット・デメリット」も、「おひとりのメリット・デメリット」もある。「独身を貫く覚悟」という表題で長々書いたのは、そういうことだ。書いても書いてもキリのないほどに問題あるのが、人の生き方の選択である。「離縁状」というのは夫が妻に行使できるもので、妻が夫に「離縁状」など出せなかった。それから見ても良い時代である。
唯一女性側が離縁を願う場合、駆け込み寺に駆け込む。女性がこの寺に駆け込んだ後、夫側と話し合い内済(示談)によき離縁する「内済離縁」と、夫側が承諾しない場合は、寺法により、女が足かけ三年、在寺禁足することで、強制的に離縁状を差し出させる「寺法離縁」による場合があった。「内済離縁」の場合は、結納金、嫁入り道具、子どもの処置など話し合う。
駆け込み寺は縁切寺ともいわれ、江戸時代には公認の縁切寺としては、相州鎌倉の東慶寺、上州勢田郡新田庄の満徳寺の二つのみだった。比べて昨今の熟年離婚とやらは、家族を家庭を守り通してようやく安住地に辿り着いた高度経済成長の企業戦士らの愛する女房たちが、いつの間にやら荷物を纏めて、「はい、さようなら」などの話は、笑い話ではなかろうに。
女は旅行好きなのが多く、男はゴロ寝好きが多い。男のことはよく分る。たとえば男は新しいもの好きだから、自分をワクワクさせるような目新しくも、一風変わったものがない限り、「つまらないな~」などと連呼しながらゴロゴロする。女のおしゃべり好きを心理学者はこう分析する。「女は生活上の不平や不満をしゃべりあうことで排出する自己保存のようなもの」。
女性は同調圧力が高いことも知られている。批判し合って角を立てては生きて行けないので相手に合わせようとし、それでいつの間にか、「NO!」をいいそびれて身動きできなくなってしまう。ところが独身女性には我が道を行くタイプが多く、その分心の強さが感じられる。ひとりものだからと他人から後ろ指さされたくない女性は、結婚、結婚、結婚に飛び込んでいく。
自分と他人をあまり比べないから、「隣の芝生は青い」というようには考えないのだろう。人間を不幸せにする大きな理由のひとつに、友人と自分をしじゅう比較することで、そうすればいやでも嫉妬心に苛まれる。妬む心は人をどんどん曇らせるが、他人と自分を比べない女性は、意外とこざっぱりしている。これまであった中で極めつけの独身女性はこんな感じ。
彼女は40代の後半だったが、これまで自分が結婚のチャンスを掴み得なかったのは自分の責任ではないとし、自分に男を惹きつける魅力がないのではないようなことをいう。機会がないチャンスがないというより、運命のようなものと考えていた。運命は逃げの口実でなく、美しい女性だから結婚するわけでも、ブサイクだから独身というわけでもないのは確かである。
「私は独身です」と屈託なく言う人は正直である。自分の現状をありのままに公言し、是認することを、「正直である」とするなら、自分自身に正直であることこそが不幸にならない確実な方法ではないだろうか。これは自分の考えだが、結婚の有無に限らず、自分自身に正直でいられる人は、心を安らかにする人である。正直とは無理をしない見栄を張らないこと。
だから、「40歳過ぎて結婚しなくても私は幸せであり、幸せに暮らしている」と、自分自身に言い聞かせる場合、これは本当に正直でなければならない。本当に正直でなければ幸せとはならないからだ。「隣の芝生は青い」などと思わず、人は人、自分は自分と心から正直に思える人は強い。だから自分の幸せをみつけられる。自分なんか典型的にそういうタイプである。
幸せかどうかは別にして何の不満もないし、好きな事をやって好きに生きている以上、不満の持ちようがない。「隣の芝生は青い」と考える人は、基本的に欲の心情が深いのではないか。自分に欲がないとはいわないが、欲を葬ることが良いと考えて実行しているのであって、生まれつき欲のない性格というわけではない。無用なものを排除するのが向上である。