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「幸福について」究極論 ①

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この年になっても分からないことだらけで、人間は無知と格闘する試練も人生だろう。分かろうとすることが試練というより、ある疑問や命題に対して多くの人間が異なる考えや意見を述べるなかから人間の奥深さを吟味する試練もある。それだけ異なる考え方があること自体が人間の試練ではないかと。例えば愛、例えば幸福、例えば生の目的、例えば自死の理由など。

何事も考えれば考えるほど答えは逃げていくばかり。分かったようなつもりでいるのはできるが、わかったような顔をして生きた若い頃が懐かしい。例えば幸福である。何が幸福かを様々に例えることはできるが、いろんな形の幸福があって、いろんな幸福を人は提示するなか、自分の幸福を定義するためにも実感するためにも、どういう人を幸福とするかを自らに問うこともあった。

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身体も丈夫で自由でお金もあって地位も名誉もあってと…こんなのは幸福というより欲という見方をするが、そうはいっても欲が満たされるのが幸福ではないのか?と問い直す。食べ物であれ、衣服であれ、異性であれ、自分が欲しいと思うものが現実に我がものになったとき、人は喜びを感じるだろう。そうした嬉しさに満たされたときの状態を「幸福」と感じるはずだ。

綺麗ごとなどいっても始まらないし、欲望の充実とは無関係に幸福が成り立つはずがないが、欲しいものを手に入れられ、欲が満たされるのが幸福と定義するのは間違っていると自分は考えている。その根拠も含めて、自分が「幸福だな」と感じる時の状態を、もっとハッキリと正確に考えようとすると、ちょっと面白いこと、さらには重要なことが思考の結果として現れる。

例えばお金が欲しくて欲しくてたまらない時期に、例えば宝くじとかに当選して運よく大金が手に入ったりすれば、それは幸福だろうが少し現実的でない。ならばこれはどうか?世界に名高い神戸牛や松坂牛の鉄板ステーキを食べたく、神戸牛専門店に行って数万円の神戸牛を食べるのは幸福だろうか?これも幸福だろう。と、いいたいがお金は自分で払うことになる。

それでも幸福だろう。が、神戸牛を食べたいという欲望の満足感は、「ああ、美味しかった」と食した後に現れるものだ。しかし、神戸牛を食べたいという欲望を満足させるべく幸福感というのは、食べつつあるその最中に感じるものではないか?食べた後に欲望は満たされるが、レシートをもちレジで30000円を支払う時、ガッカリはないにしろ、自分は勿体ないと思う。

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欲望は満たされたが完璧なる幸福ではない。つまり、食べてる時の幸福感は食べ終われば消えてしまう。だから、頻繁に食べには行かない。分かりやすい事例ろして記したが、いいたいことは、食べてる時と食べ終わった後の幸福感の違いである。それらから、「欲望の充実」が必ずしも幸福感とはいえない。欲望の代償としてお札が飛ぶのを自分は幸福とは感じない。

満たされない欲というのは必ずある。欲を満たすことが幸福とするなら、満たされないときは不幸ということか。欲望が満たすことが幸福の場合はあったとしても、幸福の定義付けはできない。これらから欲望の充足が幸福でないとし、真の幸福が何かを探すこととなった。一見、幸福に思えることも深く考えれば、矛盾や誤った幸福感に気付かされることになる。

それでも欲望の充実が幸福と思うのは自由、ならば欲望が満たされないときも幸福でいなければならない。まあ、人のことだから関知はしない。自分の幸福を模索すればいいことだ。若き日には「幸福な他人」がうじゃうじゃうたが、すべては羨望の的であり、若気の至りの過ちであった。「誰が幸福なのか?」を思考し、そこで出た答えは「幸福な人」は何と自分だった。

なぜそうなったか。「真に幸福な人とは何か?」の問いに、「幸福を自覚しない人こそ幸福である」という五賢人の一人の定義を発見したこと。他人が幸福を実感しているかいないか分からない。いる人は分かりやすいが、そうでない人は他人ゆえに分らない。ところが自分に当て嵌めると、自分が幸福を実感していないのはすぐに分かる。だから、自分は幸福なのだと。

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「幸福を自覚しない人こそ幸福である」というのが正しいかどうかわからないが、種々に考えた結果、選択としてそれを正しいとした。だから実感しない自分は幸福なのだと。愛が何か、幸福が何か、人生が何かがわからなくても怯むことはない。将来・未来が分からないからこそ生きてゆけるし、生の根拠とはこの謎であろう。夢を抱き、夢を砕かれさらにまた夢を抱き彷徨う。

これが人生と思えばそうそう挫けることもない。物事は考え方であり、自分で考えるから宗教なんかいらないし、ずっとそうして生きてきた。信仰は良い結果をもたらすとさんざんいわれもしたが、自分は自分を信じ、自分の責任で生きて行こうとする人間に宗教などは無用だった。人間の健康な精神というのは抵抗であり、宗教に対する抵抗感からより良い自分を求めた。

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