恋愛の末の結婚なら二人の理想を継続しなければならないが、結婚生活に入る時点で互いがそれぞれの希望や信念について話し合ったかどうかである。恋愛は互い価値観について意見を交換する絶好の機会である。お見合い結婚の場合でも、自分たちの理想や価値観について話さないこともない。恋愛、見合いに関わらず、話す者は話し話さぬ者は話さないということになる。
結婚生活に理想を抱くのは当然としてもお伽噺のような理想もある。まともな理想であっても、努力を怠ればも理想を叶えられない。「理想の相手に巡り合った」というのはしばしば耳にした。本人がいうのだからそうなのだろう。しかし、それが数年後、数十年後も継続しているとはいえない。幸せの絶頂時の言葉とはいっても、こんな羞恥な言葉は口が裂けてもいえない。
熱々カップルの末路をいろいろ見たが、人は「今」を語るもので熱々の時は熱々でよい。「あの夫婦が離婚したのか!」などはありがちなこと。人間は愛なしに生きられないと思う反面、憎しみの中に生きることもできる。しかし、愛もいらない、憎しみもいもいらない、そういう人は独身を貫くがよかろう。一生独身でいればあらゆる煩わしさから逃れられる。
「理想の相手」が空想である理由はこうだ。「理想の彼を得た」という花嫁は、一人の理想の男と結婚するつもりでいながら、実はその男の持つ理想と結婚したに他ならない。つまり彼女が愛するのは肉体のない理想である。理想や信念が血肉とならないのが若さであり、単なる抽象的な観念として浮動する場合が多く、恋愛という空想性がこれに拍車をかけている。
そうした夢見心地な女性ほど結婚に失望するが、彼女たちは口を揃へてこのようにいう。「理想の相手ではなかった」。結婚相手が理想ではなく、自身の描く理想と結婚しようとしたに過ぎない。理想の相手=自分の理想ということ。こういう場合の理想の相手とは、自分の理想を叶えてくれる男でなければならなかった。しかしながら、理想は男の側にもある。
男の理想が花嫁の理想と同じ、“自分の理想を叶えてくれる相手を理想とみなす”であれば、互いの理想はそこでぶつかり合う。片方だけが理想を持ち、片方がイエスマンならぶつかりはないが、どちらも「理想の相手」といっている。結婚の難しさは理想(価値観)のぶつかり合いとなろう。だから、自分は夫唱婦随を理想としたが、婦唱夫随でも同じこと。
夫唱婦随に対抗してか、「何でも二人で話し合って決めた方がいいんじゃない?わたしはそれを望む」という女がいた。夫婦は三人ではないので、二人の意見が違った場合に、多数決というわけにいかない。となると、片方が渋々引き下げるしかなく、これを民主的というが、知識と素養を基もなく、私情や欲にまみれて冷静な判断を欠いた相手と話すのは難儀でしかない。
それでも、「私を無視するの?」という食い下がる女がいる。何事かを任された場合、抜かりのないよう文献を漁るなどし、広い視点で考える。欲や見栄を排除し、何が正しいかを一途に考えるべきだが、「判断」とはそういうものだと思っている。「黙ってついてこい」志向の男には大きな責任が被さる。一見強引で頑固にみえるが、堅実で明晰な判断力が必要となる。
自分の妻は全権委任をしてくれたが、そういう相手と見定めたからでもある。話し合い希望の女はそれなりの相手を選べばいいが、自身も冷静な視点を持つのが前提となり、でなければ喧嘩が耐えない。理想の相手というのは、自分の理想を適えるためだけでなく、相手の理想に対して譲歩できるか否かの見定めがいる。女の感情に愚弄される男は少なくないが、それが男か?
私情も含む漠然とした観念は単なる思い込みの理想であり、的確な見定めを実行するには協力者が必要となる。傲慢で支配的な母を反面教師にした自分は、心やさしく気立ての良い女性を強く求めた。相手選びに苦吟し、結婚を望まぬ人もいるが結婚をママゴトと考えないのは聡明である。「何となく好き」というのも結婚の動機であるが、それで一切が解決することはない。
「真剣に相手を選ぶ」といえ何を真剣というのかであり、恋愛に理解は馴染まない。「理解」という分別よりも犠牲的精神に満ち満ちた美であり歓びであり、二つの生命が触れ合うことの悦びでもある。中途で離別したとしても、そのプロセスによって自分は生き、生かされてお、結果は結果として受け入れればいい。結婚もそうあればいいが、恋愛と違って現実が押し寄せる。
恋愛と結婚の違いについての議論は言い尽くされた感がある。明日の米を必要とするのが結婚であり、自分の気分がすぐれぬ時でさえ顔を突き合わせるのが結婚である。気分のいい時を選んであっていればいい恋愛とは似た部分はあってもまるで別物と考えた方が正解だろう。が、もっとも問題なのは、「これが結婚だ」という定義に添って結婚した男女かどうかということか。
それが恋愛の延長が結婚という考えになる。確かに恋愛の延長に結婚はあるが、恋愛の目的が結婚か?というのは自分的には違っている。一言でいうなら、(社会)制度としての結婚はあっても、恋愛に制度は似つかない。そこを混同するから、離婚は増えるのだろうし、結婚=制度という考えで嫁いだ女性は、制度に堪え、制度を守っただろう。但し、その善悪は別として…
つまり、制度としての結婚は当時の時世に大きく左右された。階級制度や男尊思想と結びついた男女差別体制の産物でこうした、「体制的な結婚」を拒否した先駆者の一人にフランスのボーボワールがいた。日本でも、「体制的な結婚」への抵抗が究極化したのが「男の家事の奴隷にはならない」という行き過ぎたフェミニズムで、そういう女性は生涯独身を選ぶことになる。