Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

笑いで高揚

$
0
0

イメージ 1

「微笑」とは笑いなのか?辞書には「ほほえむこと」とある。「ほほえみ」とは声を立てずにこりと笑うこと。モナリザのあの顔は笑っていることになる。本当に笑っているのか?怒ってはいない。悲しんではいない。喜んではない。何が原因で微笑んでいるのかわからない。が、笑っている。アランの『幸福論』には「12.微笑」のなかでこう書かれている。

「不機嫌というものは、結果であると同じ程度に原因である。と私は言いたい。われわれの病気の大部分は、礼儀を忘れた結果であるとさえ考えたい。自分自身に対する人間のからだの暴行という意味である」。この言葉の意味を思索した人はいるだろう。いや、アランの『幸福論』を読んだ人は、書物から多くの言葉を思索したはずだ。それでこそ"読んだ"となる。

その結果、幸福になったのか?なことはない。アランは、パリの名門校などフランス各地の高校で哲学の一教師として生涯を貫いた人物。本名はエミール・シャルチエ。一高校教師でありながら社会的な事件に対して積極的に発言し、政治活動や講演活動にも参加。新聞への寄稿も精力的に行い、連載した文章は膨大な数に及ぶ。『幸福論』は幸福をテーマに編纂された書。

哲学書であるが、各章が短い文章で構成されているし、平易な言葉で書かれているからか、どこから読み始めても、「なるほど」と、自らの言動を振り返るきっかけになるような一行が含まれる。アランは「伝染」を重視しており、喜びも悲しみも、上機嫌も不機嫌も伝染するという。よって幸福とは、"上機嫌でいることがなにより大切"であるとアランは説く。

イメージ 2

「これこそみんなの心を豊かにするし、まずは贈る人の心を豊かにする(後略)」、「贈り合うことによって増えて行く宝である」と言っている。そして、たとえばレストランのボーイに、「ひとこと、親切なことばを、心からの感謝のことばを言ってごらん」などと書いている。アランの父親は獣医師であった。よって職業上、動物の観察をする機会が多かった。

動物は人間と同じ条件におかれ、人間と同じに体を虐使するのに、なぜか病気が少ないことを不思議がっていたという。アランはその疑問に次のような答えを出した。「動物には気分というもの――つまり、思惟によって維持される苛立ちとか疲れとか、倦怠とかがないからだ。人間は眠りたい時に眠れないと腹を立て、その苦悩のために返って眠れなくなる。

また別の場合には、最悪のことを心配して、不吉な空想をもって不安状態を高ぶらせ、ますます悪くしてしまう」。アランはあらゆる不機嫌、あらゆる身近の不幸を軽減するためには、それらの原因を探せ、知れといっている。不幸を取り払うのではなく、あくまで軽減ということだ。病気は自らが作り出すモノもあるし、想像上の病気は本当の病気と同じである。

乳飲み子は腹を立てて泣き喚くのではなく、泣き喚くことで腹を立てている。こんな大人がいたら、それは乳飲み子という他ない。思い出してみるといい。元兵庫県議会議員野々村竜太郎氏の「泣きギレ会見」だが、アレは一体なんだったのか?何であれほど泣き喚かねばならなかったのか?怒り感情と言うのは他人に対してだけでなく、自らに向けられることがある。

イメージ 3野々村氏の場合はまさにそれ、選挙民から見捨てられる不安に怯え、他人の反応をうかがいながらも、疑惑に対する何ら正当な抗弁ができず、結果的に質問とは無関係なことを勝手に叫びながら号泣していた。「誰も自分の言い分など聞いてくれない」、「誰も自分の気持ちを分ってくれない」、「誰も自分を認めてくれない」といった不満が「逆ギレ」を起こした。
しかも公人という立場上、怒りの矛先を選挙民にも周囲の誰にも向けられず、自分に向けてしまった。そういうお粗末極まりない事象である。彼は実際は泣いていなかったが、泣くに等しい情けない心情であったろうが、実は冷静で真面目人間だけに、本当に泣いたり怒ったりの演技ができない人である。自意識過剰の自己演技能力に長けた女なら見事に演じる。

自分に全面的に非があるような場合であっても、あのような場で晒されることに怒りを示し、暴力的に責められることに反発し、自分が強い立場であるような錯覚を抱いたり、この世は自分の思い通りになるというような思い込みもあってか、「怒ればなんとかなる」という逆ギレ対応や、「泣けばなんとかなる」といった小保方手法的ヒロインを見せたりする。

女は泣けば勝ったも同然というのを知っているから、ここぞというときは泣ける生き物である。古今、どれだけの男がその涙に騙されたことか…。女には男に分らぬ二面性があるが、それは怒りに対して露骨な逆ギレを見せる場合と、怒りに対して泣きの風物場面を見せる場合と、どちらも逆ギレであるが、後者はネコカブリ女、いい子ぶった女の手法として見られる。

女の涙は演技的スイッチもあるが、怒りが内に爆発した時の防御とも言える。維新の党を除名になった上西小百合議員は、そういう我が侭に育ったせいか、あの態度はいかに幼児期から親にたて突いていたかが伺える。彼女はあの場で自分が最も強い女であったことを露骨に表していた。ちょっとした誤報に対しては、鬼の首でも取ったような誇った態度をみせていた。

不祥事会見などで最もだいじなのは、冷静さと誠実さであろう。逆ギレなどはとんでもない。ちょっとした言葉じりを捉えてムキになったところで、自身の犯した罪が消えることはないのに、それをやるのが、女の喧嘩である。女の喧嘩は相手の言葉じりの取り合いであり、いかに相手を怒らせる汚い言葉を吐くかの応酬は、まるで漫才の掛け合いでしかない。

イメージ 4ハナから辞職するつもりの野々村県議はともかく、辞職の気などさらさらない上西議員の対応は世論が何を意識し、そういう世論に対してどう対応をするのが誠実か、最善かを(演出であれ)講じなければならなかったが、あれだけ地を出すというのは、危機管理広報アドバイザーを雇わなかったのだろう。せいぜい弁護士と打ち合わせした程度という感じであった。
我々が仕事や信用を失わないために、日々気をつけることは、他人の怒った姿を教訓にすることだろう。他人の怒った姿から学ぶことは多い。夫婦でも恋人でも他人と生活して感じることは、相手が不機嫌状態をこれ見よがしに見せつけること。自分に置き換えれば、不機嫌状態を相手に見せつけること。なぜそうなるのか?いや、なぜ(意図的に)そうするのか?

ここでは人間の性格が大きく現れる。不機嫌な態度=自身の怒り感情である。そういう不快感情を露骨に表すことで、相手に自主的反省を求めているのだ。なにか嫌なことがあったわけでもないのに、勝手に不機嫌になる人間もいる。そばに気を使う人間がいると、相手のそういう態度が気になって仕方がない。そういう人はまた、自分の何が行けなかったを考え込む。

こういう不快感情を露骨に表す人間は、甘えたガキである。子どもの頃からそうやって親に気を使わせることで発散していたのだろうが、恋人や配偶者は親ではないのだし、そんないちいち構ってられないのに、甘えん坊はそれが直らない。相手の露骨な不機嫌態度には、「さっきから見てると機嫌悪そうだが、こっちも気分悪いからちょっと場を離れさせてもらう」と言えばよい。

あるいは、「機嫌が悪いなら収まるまで散歩でもしてきたらどうだ?」と相手に促す。どちらでもよいが、こんなことは最初から我慢をせずに言った方がいい。でないと、相手はクセになってしまうだろうから。他人に気を使わせ、自主的な反省を求める素振りだろうが、原因がわからないまったく不可解な状態でこんなことをやるのは、実は男に多いと聞く。

自分も男だからやった事がある。が、それがバカげている、そんなことをやったところで実りはないと言うのが分る時期は来る。遅かれ速かれ来なきゃいけない。すぐにむくれる女がいた。自分の発言の何かが気に障ったようなときは、すぐにむくれて態度に出る。急に無口になる。そういう女も可愛くて、「あれ、急にむくれたけど、何が気に障ったんだ?」と聞く。

イメージ 5

「何でもない」とごまかすが、「いや、原因を追及して詫びるところは詫びなきゃいかんし、だから言ってよ」などというと、「○○言われた」などという。「そっか、悪気はないから気にせんでな、でもふくれた顔もかわいいね」などといえば、その場は収まる。やはり、一緒にいる相手の仕草や動向には、それはちょっとした事で起こるだけに、素早く気づくこと。

そうして素早く対応すること。女は男ほど陰険でないからほめれば収まるが、陰湿な男はほとほと女も苦労するんだろう。「ちょっとした事ですぐに機嫌が悪くなるから…」これは彼氏をもつ女の最も多い苦情であろう。要するに甘ちゃん男である。恋人なら、機嫌が思わしくない日は会うのを避けられるが、毎日同じ屋根の下に同居する夫婦は溜まったものじゃない。

3年経ち、5年経ち、二人の関係も慣れてくると甘ちゃん男への対応も一応年季が入ることになる。「無視する」、「放っておく」、「出かける」などの対応を身につけるのが一般的だが、男がそういう状態のときはセックスするように仕向けるという女がいた。なるほど、これも一計であろう。男は単純だからな…。スリコギを撫でてやれば収まったりする。

イメージ 6いずれにしても、不機嫌は幸せの元凶だ。「他人といると楽しい」これが人間の本来の姿である。「あなたはわたしを不幸にさせる存在」ではなく、「あなたはわたしを楽しませてくれる存在」。男はこうあるべきで、こうであれば必ずもてる。女は楽しい日常を望む生き物だからである。男がそうでないとは言えないが、べちゃくちゃ喋る女は煩わしい部分がある。

男は思索の時間も必要である。自分はそう言うところはあえて最初に言っておく。じっと一人にしておく時間が男には必要なのだと。それを見て、そういう状況を判断できる女は明晰である。大事なのは互いの気遣いであろう。気遣いは疲れるという人間には、気遣いの大切さが分らないのであって、気遣いなしでどういう生活になるかをやってみればいいのよ。

何ごとも逃げていては成長できないし、逃げないでいれば人は成長できる。物事を正面から取り組むことを避けることで、自身の神経的な自尊心を守ることはできるが、そんなことを続けているとだんだんと普通のことさえできなくなる。普通に働くとか、普通に家庭生活をするとか、そんなことさえも普通でなくなってしまう。避けようとさえすることになる。

アランは言う。「気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。否、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す」。「ほんとうを言えば、上機嫌など存在しないのだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである」。なるほど、というしかない。すべては自己超克であると。

感情や気分だけで生きていると、悲しみや嫌なことに遭遇したとき、不幸だという思いや怒りの感情にすぐに溺れ、流されてしまう。そういった感傷的な気持ちに流されず、「少し経てばこの気持ちは収まる」、「いまは辛いけど明日は明るくなる」と、意志の力で楽観主義に立つ。幸福を得るには、それが大事であると、これはアランの『幸福論』の重要なポイントだ。

『幸福論』の最後、「93.誓うべし」の冒頭はこうだ。「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意思によるものである」。思うだけではダメ、考えるだけではダメ、「我思うゆえに我あり」とデカルトは言ったが、あれは「あるもの」は意識しないと「ある」とはならない、という意味である。アランは実践を重視する。希望という思いは実践しなければ訪れない。

イメージ 7

デカルトの言葉は、「自己の存在」について考えるということが、そのまま「自己の存在証明」になっている。同じように、アランの『幸福論』は、読んで幸福になるのではなく、自分を発見するためにである。他人を通して自分をみる。他人から自分を教わる。それが自分を知る端的な方法だ。「人の振りみて我が振り直せ」というが、他人への批判、他人から戴く批判が自分を作。

他人の良い点を学んで身につけろというが、賢者ならそれも可能だ。いい所を真似るのは頭ではできても、実際は難しい。一日一善でさえ難しいように…。我々のような愚か者は、他人の不出来な部分を見て、「あんな人間にはなりたくないな」と批判した時点で、良い自分を目指していることになる。あとはそれを常に念頭において実践していくだけだ。

誰だって悲観的になりやすい。それは気分の問題であるし、自然に起こることだ。自然に生きることを奨励する自分だが、意思という人為でよいものが得られるならばそれも人間の知恵である。無理して自然に逆らってまで幸福を追求することもないし、取立て努力を要さずとも運よく転がってくる幸福もある。親の七光りで地位や資産を得た者も幸福である。

アランは言う。「どっちにころんでもいいという見物人の態度を決め込んで、ただドアを開いて幸福が入れるようにしているだけでは、入ってくるのは悲しみである」。別の訳はこうだ。「幸福の入るに任せて戸を開けておくだけで、公平な傍観者の態度に留まっているならば、入ってくるのは悲しみである」。与えられるより、積極的に動くことと言う。

イメージ 9

すぐには報いられずとも、求めることに意味がある。アランの『幸福論』は、「人は笑うから幸せなのだ」であるる。「笑う門には福きたる」というが、笑うと免疫力が上がるというのは以前から言われているが、アメリカのウェスタン・ニューイングランド大学の研究によれば、楽しい映画を観た後は唾液中の免疫グロブリンAという免疫物質が多くなっていた。

笑いによるさまざまな健康効果は、コメディ映画を観て笑うだけでもいい。楽しい映画を観るだけでなく、これから楽しいものが観られると期待をするだけでも、成長ホルモンやβ-エンドルフィンというホルモンが分泌される。成長ホルモンは子供にとっては成長を促すホルモンで、大人にとっては新陳代謝を促すなど若々しく健康な体を作るために重要なホルモン。

β-エンドルフィンはハッピーホルモンとも呼ばれ、気分を高揚させたり多幸感をもたらせてくれます。笑いは若返りやリラックス効果なども得られる。また、声をだして笑うだけでなく、笑顔を作るだけでも効果は絶大。作り笑いをするだけでもセロトニンが分泌されて、心が穏やかになるのです。谷岡ヤスジに『笑う角にバカ』というタイトルがあるが意味不明。

ヤスジの言い分によると、「『笑う角にバカ』は、『笑う門にバカ』と書くところを「角」と誤字ってしまったのだった。シカシ、今さら直すのもカッコ悪いので、三年間もトボケ切ってたのだった」。だそうだ。なるほど…、ならば「笑いの多い家庭はバカが多い」って意味か?お前が笑わせてるんだろが!?

イメージ 8



Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>