人は誰でも笑ったことがある。なぜ笑うのかについては、「嬉しいから」、「楽しいから」、「オモシロいから」の他に、「腹が立つから」、「悲しいから」と、そんな時も笑える。そんなバカな、腹が立って笑えるか?というだろうが、自分は腹が立って笑うことが多い。「悲しいときに笑う」という経験は記憶にないが、歌の歌詞には「涙を抑えて笑ってみよう」はある。
だから、そういう歌詞に影響されてか、悲しいときに笑おう、笑顔をみせようとする人はいるかもしれない。「泣いたカラスがもう笑う」という言葉があるが、これはもう赤ちゃんの得意芸である。赤ちゃんに限らず、欲しいものを買ってもらえなくて泣きわめいていた子どもが、それが手に入ったとたん泣きやんで笑顔を見せる場面を経験した親はいろだろう。
「なんというか、子どもは現金なもの」という言い方もされるが、子どもの素直さ、正直さを見せ付けられる。大人ならこうはいくまい。彼氏に約束をすっぽかされて泣き泣きしている彼女、彼氏から「ゴメ~ん」と詫びられて、心は暖まっているのだが、(ここですぐに許しては甘い女だと思われる)、(もう少しすねたら何か買ってもらえるかな?)などの邪悪な心がはたらく。
邪悪とまでは言い過ぎだろうが、大人が素直でないのは"駆け引き"を身につけたことによるからだ。子どもの純な気持ちをいたぶるかのように、「あら、泣いたカラスがもう笑ってる~」と大人は子どもを嘲笑するが、こういわれていい気持ちがしなかった記憶がある。自分の母親は底意地の悪い性格だから、人を傷つけるようなことを、無意識で言ったりする。
だから、この言葉はよくいわれたし、言われるたびにバカにされた気分になるし、また言われるのが嫌だから、素直な気持ちを押さえるようにした。子どもというのは自尊心が傷つかないよう、自己防衛心を少しづつ構築していくもので、それは親といえどもである。子どもを傷つけたりの言動をしないような暖かい性格の親ならいいが、抜き差しならない親もいる訳だ。
例えば、何かをしてもらったときに、その事を恩着せがましく言われたことはあるだろう。それも、何かの度にまるで虎の子でもとったように、何度も、何度も、くどくいわれたら、いい加減嫌になってくる。相手にそれが見えたら、何かをしてもらうことをあらかじめ拒否するようになる。これが自己防衛心である。無償の善意などとはとんでもない、まさに毒饅頭である。
人の善意がインチキであるほど醜いものはない。が、ハナっからそういう恩を売ろうとする人間はいる。そういう人間の差し出す毒饅頭を食わないことで、人間は自分の"卑しさ"の加減を磨いていくのだろう。自分の母親は、反面教師として考えると、善意で慈母観音のような母親にはない、さまざまな、多くの人間の醜さを提供してくれた。その点はいい教材であった。
吉田拓郎の『オヤジの唄』に、♪オヤジが人を疑うことを教えてくれた、という歌詞があるが、親は子どもに恋愛やセックスを教えることはできないが、うまい話には裏がある、毒がある、「人を簡単に信じてはいけないよ」みたいなことは教えてしかるべきだ。言葉でいくらいっても、その場、その場の状況は自己判断が必要だが、「人を疑え」を知ると知らぬとでは用意は違う。
それでも人は人に騙されるものだ。言葉が経験に及ばない事象は沢山ある。ただし、言葉を安易に信じるというのは、基本的に人間の欲であろう。「良心」というけど、「良心」も人によく思われたいという「欲」の部分が混在する。なぜなら、相手の立場からすれば、信じてもらえないより、信じてくれる人間の方が好感がもてるからだ。それが顕著なる人間が多い。
こちらが相手を信じないと怒り出すような人間もいるが、これはハッキリいって短絡的で無知というか一種のバカだと自分は見ている。つまり、信じない相手を怒りという態度に現してまで信じさせようとするのは、やってはいけないことだ。よく女性の人間関係でそういう話をよく聞かされた。つまり、女性は信じない相手に何とか論理を尽くして説明しようとしない。
感情を露にして、「あなたは私のいう事を信じないのね?だったらもういい!」などとやるわけだ。いわれた側は、自分が相手を信じないことが相手の気分を害したと、そういう罪悪感に陥る。女同士だけではない。こんな言い方をする女はいくらでもいた。分らせよう、信じてもらおうと誠意を尽くす女は嘘をつかない性格であるが、言葉を信じないから怒るのは、根っからの嘘つき女が多い。
そういう誠実・非誠実という見方でも相手を分別できる。「あなたは私のいう事を信じないのね?だったらもういい!」などとやられて、「ごめん、ごめん、そういうわけじゃないんだ。信じる。信じるから…」などと迎合するような男は、まず女の術中にはまるバカ男。自分はこう言われた時点で、一切取り合わないし無視する。表層言葉で男を簡単に信じ込ませようなど甘いわ。
そういう言葉をいうと険悪になるから、黙って取り合わない。相手が、言葉を押し付けるのは無理、感情的になっても効き目はないと学習するか否か、もし、学習しない女でないならこんな女と付き合う価値はない。男社会で、言葉の強引な押し付けで通用するはずがないし、男は納得しなければ動かないというのを知らない女は多い。それを知ることが「男学」である。
上のような女が感情的になったらすぐに詫びたり、謝ったりするような底の浅い男が好まれるなら、この世は終わりだろうな。女が強い社会が古代史からみても継続したためしがない。昨今は、女が強いといわれるのは、怒らすとうるさいから相手にしていない男もいるのではないかと思うが、脆弱マザコン男のような、本当に女を怖がっている男もいるんだろう。
それが東北大地震のときに、妻子をほっぽらかして自分だけ逃げる、助かろうとする男の実態である。日常の生活では夫を意のままに虐げておいて、いざというときにこの失態と呆れるなら女も女よ。男は普段から持ち上げて威張らしておくから自覚も湧こうというもの、自分勝手なことばかりの言動なら、男だって自分勝手にそそくさと逃げるだろう。女もそれくらい分れよ。
わが命を賭して妻子を…という責任感を持たせる普段の心がけが妻にあったか?そういう疑問も沸く。男の強さというのは、自らを厳しく律する強さであって、それは周囲から持てはやされる責任感として成り立つもの。生命的には男は弱いのだから、女が男を強くするといって過言でない。「頼もしいわ」、「男らしいわ」、「逞しいわ」といわれてその気になるのよ。
よく女の子は小さい時から、「女の子は考えがしっかりしてる、男より大人だ」などと言われるが、それもうなずける。しっかりしてないと本当に生きていけない、それくらいにだらしない男がいるのは事実。真に勇敢な男と言うのは、自分自身のことは最後に考えるものだ。愛という舞台に男を立たせて、バカらしい役を演じさせてはダメ。男を逞しくするのが女の役目。
「大抵の男は意気地なしね、いざとなると。」、これは漱石の『行人』の中の言葉。東北地震の後に"震災離婚"というのは増えたのは、果たして男だけの責任であろうか?人に罪を擦り付けていい子ぶる女の性質を加味して考えたらいい。一つだけ言えるのは、「妻子のために死ねる何かを見つけていなかった」と、このことは間違いない。当然、妻にも責任があろう。
漱石は「男はいざとなったときに意気地なし」というが、そうばかりとも言えない。いざ、という時の行動は平生の感謝や日常の要素が大きく関わるであろう。「笑いの効用」と題したが、笑いのある家庭に平和はある。「腹が立っても笑えるか?」といわれれば、上記したように笑える。己の腹立たしさを笑えばいい。何でこんなことで腹が立つのかと自らを笑うのだ。
「自分で怒りを抑えるには、他人の怒る姿を静かに観察することだ」と、古代ローマの哲学者セネカもいうように、怒りを抑えることで相手をしかと観察できる。現に、逆上して暴言を吐いてる奴は、こちらのことが見えていないし、相手のことを考えるゆとりすらない。これでは発する言葉もトンチンカンになるだろうし、だから感情的になった女とは話す気が起きない。
感情的になっていても、相手が男なら無視すればこちらの真意を汲み取るが、女は汲み取るどころか、こっちが相手にしていなくてもしつこい、うるさい。だから、家から出たり、その場を立ち去る男が多い。自分のことしか思考しないから、相手の真意を汲み取るなどできないのだ。人間とは何か?の大命題にはいろいろな考えや定義があるのは知っている。
が、人間も猿の仲間であるように、群れる動物である。交わりを求める動物だ。交わりに召された存在であるという定義にあげられよう。人間は一人では生きられないし、それができるのは仙人である。ふつうなら気が狂ってしまうといわれる。人間は絶えず対話をかわしながら生きている。言葉を有する人間にとって、会話は最も堅実なコミュニケーションであろう。
が、対話とは単に人と話すに限らない。人間は自己と対話をし、隣人とも対話をする。宗教者なら神との対話もすると言うだろう。自己との対話は、絶えず心の中に何かを思いめぐらし、自己に語りかけながら、ある時はそれが良心の声に、ある時はそれが悪魔の囁きに聞こえることもある。良心の声に救われ、悪魔の囁きに打ちのめされ、いずれにしてもそれが人間だ。
言葉で思考する人間と違って、言葉を持たない動物は本能で思考する。善も悪も本能によって決められる。人間は自己対話をするが、隣人対話をしない人多し。こんにちほど何かにつけて対話が必要な時代はない。対話の少ない時代には「阿吽の呼吸」といった。「目は口ほどに物を言う」と持てはやされた。それでは誤解も生むし、人間関係が円滑に行かない。
時代の様式が複雑になるにつれて対話の必要性が生まれた。のはいいが、どこか違う方向に進んでいる気がしないでもない。会話術、即ちコミュニケーションテクニックが体系化されている時代でもある。こう言われたら、こう返すのがいい。ああ言われたらどうするか?などが研究され、体系化されている時代である。言葉だけではない、何かにつけてマニュアル信仰の時代だ。
これも人間の叡智が生んだものだが、テクニック(技術)が向上することで、必然的に失われるものがあるのを気づいていない人が多し。それは何か?結婚式のスピーチにしろ、なにやらの挨拶文などは、これ見よがしの名文、名言に彩られてはいるが、どこかで聞いたような言葉ばかり。ここまで言えば分かるだろう。失われたものは「心」である。お体裁が心を失わせた。
背伸びをしてまで人からよく思われたい人間の心理を、「つま立つ者は立たず」と咎めたのは老子。「つま立つ」つまり、つま先で立つ=背伸びをする。言い換えれば、背伸びをしても、立てないしバランスを崩す。つま先で立ってもちゃんと立てるのはトウシューズを履くバレリーナである。「つま立つ者は立たず」とは、「分不相応の事をしても、立つ(成立)しない」という事。
物事が体系化し、要領ばかりが先行するから、分不相応の人間が輩出される。勉強ができないし、好きでもないのに有名大学に受かったと喜んでいる。なぜ喜ぶか?高名な教授陣から高度な学問をできるからではない。有名大学の学歴が得れたという喜びであろう。親も子も…。そういう時代だから、勉強なんかするはずが無い。それが日本の大学生は世界一勉強しないの現実。
そもそも大学に行く目的が違う。それが日本の現状だ。偏差値50を70にする技術(ノウハウ)を持っている塾や予備校は、バカでも入れる大学を見つけて、うはうは笑いが止まらない。人間は死ぬまで成長していかねばならない。塾を出たら塾はない。無理やりにでも勉強をさせてくれるところなどない、だからしない。昨日の自分より、明日の自分になれるのか?
自分のなるべく姿になるより、自分のなるべく自分に遠ざかっている人が多くないのか?そこに憂い、悩み、苦しみ、はたまた喜びはなければならない。他人と比較しての憂い、喜び、妬みなど何の意味も、何の必要もない。なのに、他人と比較することでしか自分を認識できないというのが、競争社会の申し子たちだ。こういう社会を日本人は作り上げ、今なお続いている。
「笑いの効用」とは、人を蔑み、笑い飛ばすことではないが、そうしない事には自分がよく見えないのだろうか?自分が笑われる前に先んじて他人を笑うことで、自分が笑われるのを回避する。いや、回避できると思っている。「先んずれば人を制す」という慣用句が、「笑われる前に笑え」という効用に使われている。「死ね」といわれて動揺する子どもたち。
「死ね」と言われたから「死にます」といって自殺した子どもたち。「死ねといってはいけません」とと真顔で注意する教師たち。これを過保護と笑ってはいけない時代である。「死ね」なんて言葉は近代に生まれた新しい言葉ではない。50年前、100年前、いやもっと前からあった。自分らが子どもの頃、「死ね」と言われたら逆にバカにしただろう。「お前はアホか!」と。
「人に『死ね』というならお前が先に死ねよ」と。人に死ねという奴がどんだけバカであるかを自ら公言してるようなものだが、今は違うのか?こんな脆弱な子どもがいるその原因は確実にある。昨日も記したように、「人は無知で生まれるがバカには生まれない」。親がバカにするのだろう。無理やり勉強させるから知恵が退化し、テストの点がよいバカに育てる。
知恵とは、物事を記憶する能力の対語ではないのか?創造は記憶の対語ではないのか?子どもに知恵を授けたいなら、教科書を丸暗記させるようなバカな勉強を強い、100点取ったら喜ぶような親にならないことだ。というと怒られそうだから、そういう親ではなかったと、自分のこととしておこう。親殺しをするような子を、問題のある子と指摘する世間であろう。
それは間違っていないのか?「問題の子ども」、「問題の人間」と考えるのではなく、「子どもの問題」、「人間の問題」と考えるべきだ。生まれつき「問題の人間」はいない。すべては「人間の問題」に収斂していく。事件の底流には必ずそれがある。「人間の問題」がある。「人間の問題」を考えることが、「問題の人間」を考えることでもある。
「笑いの効用」という表題ではなくなったな。「人間の問題」がよかったか?まあいい、タイトルなんか…。そういえば、お隣の山口県(防府市)には、天下の奇祭「笑い講」というのがある。可笑しくもないのに笑っているのが、見ていて可笑しい。