Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

「貧乏は贅沢である」で書き終わる。

$
0
0
子どもを取り巻く教師と親とは敵対するものではないが、表層はともかく腹の底では敵対に似たものであるのを教師は知っている。が、教師は自分たちに敵対意識を持っていることを知らない親は多い。理由は簡単で、親は教師に対して発言を遠慮しないから。言葉を選んで遠まわしに言ったりするが、何を言わんとするかの本音は、如何に言葉を飾ろうとて見えるという。

教師がそういうのだから間違いない。ところが、教師は親に対してズバズバ本音を言わないし、かなり気を使った表現をするものだ。理由を比喩的にいえば保護者はお客様であるからだ。教師と突っ込んで話すとこの現実がよく分る。こんなんでいいのか?と思うがいいも悪いも現実である。現実に対義する言葉は「理想」である。「理想」を掲げて現実なのか、掲げなくて現実なのか?

イメージ 6

「それが現実というものよ」という言葉はしばし耳にするが、これは理想に破れたとき、あるいは理想の壁に立ち塞がれたときに出ることであろう。「理想の相手と結婚したが、現実は悲惨であった」。「理想を求めて努力したが現実は厳しかった」。などなど、こういう言葉を吐くことで、人は現実にひれ伏す。そもそも「理想」とは何?辞書を引けば簡単に出る。

1. 人が心に描き求め続ける、それ以上望むところのない完全なもの。そうあってほしいと思う最高の状態。

2. 理性によって考えうる最も完全な状態。また、実現したいと願う最善の目標あるいは状態。

とある。我々はそれらの意味を知って「理想」などといっているのか?どうやら多くの人間は漠然と言っているように思う。理想的な親子関係、理想的な夫婦、理想的な教師、理想的な父(母)、理想の国家、理想の政治家、理想の食生活、理想とする人生…、とかく理想とつけられるものはいくらでも用意できる。「理想のうんち」というのもネットに定められている。

「今日も元気だ!一本糞で!」というのがある。切れ目ない一本糞が、とぐろを巻いている状態を健康の証しというが、水分が多くて凛とした形をなさないもの、あるいは水分のすくないポツポツしたウサギのうんちはよくないらしい。理想のうんちというのは形状のみならず、腸内環境がよく、善玉菌が多く、この善玉菌がウィルスなどの病原菌に進入をガードしているのだ。

イメージ 1

人は一般的に三食の生活をするわけだから、毎日排泄が理想である。それもいきまず"ストーン!"と出るのがいい。黄色がかった色合いで、200~300グラムの重量があり、これはバナナ2~3本分の分量である。臭いはあってもそれほどキツクなく、水分含有率80%の練り状こそ理想のうんこである。うんこの語源は、自然に「う~ん」と出る声によるものだという。

もし、人間が「ああん」と言えば「あんこ」と言われたかもしれないが、イキむときは口を開けずに奥歯をくいしばって「う~ん」であろう。「ああん」は別の行為による女言葉だ。志村ケンはイキむときは「あい~ん」と言うらしい。いずれにしても、イキむのはよくないということだ。「うんこ」はイキむ声の「う~ん」に接尾語の「こ」が語源だが「うんち」は違う。

中国仏教では大小便を「吽」といい、大小便の溜まり場のことを「吽置」と呼んでいた。奈良時代に「吽」が日本へ入り、上流語として使われていた。なるほど、「うんち」は上流階級の言葉であったのだ。「糞」という字は、「米」に「異」と書く。米を食って異物になって出てくる、それが「糞」という字の成り行きと説明もあるが、これは正しくないとする説は以下。

「糞」は、「A=米の上にノが付いた番の上の部分」と、「B=華から草冠を除いた部分」と、「C=升から左上のノを除いた形」を合わせた会意文字。Aはちりの象形文字、Cは両手を意味する象形文字、Bは塵取りの象形文字。つまり、両手で塵取りを持ってちりを取る様子が元の意味で、「塵取りを推して汚物を除くさま」を表した字で、後に汚物、くそを表すようになったという。

イメージ 8

まるで「糞」という字を発明した人の説明のようだが、これが正しいといわれている。好き嫌いでいうなら子どもに説明して分りやすい金八先生流解釈の、米+異の方が個人的にはユニークで面白いし、この程度の嘘を教えてもまさか入試にはでないし、それなら和気藹々のコミュニケーションとしての「糞」の意味が面白い。正しいも大事、楽しいも大事だ。

しかるに徳川家康が三方が原の戦いで大敗を喫し、恐怖に慄いて馬上脱糞(だっぷん)したといわれているように、確かにこれは「糞(フン)」となっている。が、家康は「糞(フン)」ではないと言い張る。以下…、「武田軍の山県昌景の手勢約2万が、命からがら戦場から敗走する家康を追撃した。家康は恐怖のあまり馬上で脱糞してしまい、浜松城に逃げ帰った。

家康の脱糞に気付いた大久保忠世に大笑いされ、それに対して家康は真っ赤になって怒りだし、「それは腰の弁当の焼味噌だ」と苦し紛れの嘘をついたという。このやりとりと「落ち」の面白さから語り継がれたものと考えられているが、そのまんま史実とは難いかもしれぬ。人に「フン」というのは非礼でも「脱糞」という言葉使いは問題ないということだ。

イメージ 2

「糞も味噌も一緒にするな」という戒めの言葉があるが、天下の徳川家康とあろう物が糞を味噌といっては名が廃ろう。家康の生誕地三河に「八丁味噌」がある。米麹や麦麹を用いず原材大豆の全てを麹にした豆麹で作られる赤褐色の豆味噌である。名古屋圏では「味噌汁」といえば八丁味噌を用いた赤い汁が一般的であり、米味噌を用いた味噌汁は「白味噌汁」と区別する。

岡崎の矢作川地域で収穫される矢作大豆と、知多の成岩(ならわ - 半田市)や饗庭(あえば - 吉良町)で造られる塩を用いて、主に八丁村で作られていたことから、八丁味噌と呼ばれた。八丁村は岡崎城より西へ八丁離れていたことが村名の由来で、現在の愛知県岡崎市八帖にあたる。八丁味噌は「三河味噌」や「三州味噌」とも呼ばれ、江戸時代は江戸へも出荷された。

家康の名言に、「味噌は味噌臭きがよし」というのがある。武士が威張り腐って鼻持ちならないとの世評に対し、家康は家臣にこう諭した。「武士に武士くさいのと、味噌の味噌くさいのは使い物にならぬというのは、公家か商人が言い出したこと。武士は武士臭く、味噌は味噌臭いのがよい。武士は公家臭くても、出家臭くても、商工臭くてもならぬ。」

「味噌は生臭くもなく、こげ臭くもなく、ただ本来の味噌臭きをもってよし」。などの言葉は、さすがに味噌産地岡崎出身の家康である。あちらには「徳川家康の食べる味噌」という名産がある。味噌と言えば甘口味噌の総称である西京味噌がいい。魚を西京味噌で漬けたものはご飯と相性がいいが、中でも銀だらの西京漬けは逸品であり、好物の一つに挙げられる。

イメージ 3

理想のうんちが糞になり、はたまた糞が味噌の話になったが、「理想と現実」の話は人の生に切っても切れないことであろう。理想を持ち続けるか、現実の妥協に安住するか、は単に選択の問題であろうか?故事にいう言葉に、「名ばかりの英雄よりも、夢を語り続ける人形の方がましよ」とあるが、肩書きや地位や功名を自慢する人は多い。確かにこの言葉は多くに当てはまる。

「名ばかりの東大生よりも、東大に行きたいという幼稚園生の方がまし」と置きかえれる。つまり、成って使い物にならないなら、これから成ろうとする人間の方に期待がもてるといえなくもないし、ダメな大人より乳幼児の方が可能性がある。人は教育を必要とする生き物だが、いかなる動物であれ、本能習性とは別の教育を親から授かることはあろう。

そして、親から授かった教育はすべての動物に役立つものとなる。動物にもバカも利口もいるのだろうし、愚かな犬も賢明な犬もいるのだろうが、そういう知能の違いはあっても、愚かと賢さにそれほど目立った差を感じない。ところが人間はどうだ?人間の赤ん坊を愚かだと思う者はいない。赤ん坊は無知ではあるが、愚かではない。ならばなぜ愚かになるのか?

教育をされないからか?それもある。もう一つ決定的なのは、教育されることで愚かになることに気づかないのが親である。「教育とは、うぬぼれた無知からみじめな曖昧さへの道である」というマーク・トウェインの言葉を書いたが、「正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だ」とアインシュタインが言ったように、子どもをダメにするのが親である。

イメージ 4

子どもが好奇心を失い、損なうような教育を親が授けているからであろう。「子どもは好奇心の塊である」のは、巷言われる通りであるが、その目を潰す親がいると、アインシュタインもいっている。子どもは教育によって愚かになる。その典型が親殺しであろう。ただ、世間のいう「親を殺すなどなんという愚かな子」という、そういう愚かさとは自分は思わない。

犯罪に手を染め、人生に親殺しという汚名をつけることになったという愚かさである。殺したいほど憎い親を殺さないでやり過ごすのは正しい選択だが、こういう理性が教育で身につくかどうかは分らない。「我慢」は辛抱の一種だから、必ず身につけなければ人は生きてはいけない。それをどこで、どういう形で身につけるかだ。部活の辛さで身につけるものもいよう。

履歴書に部活動をやたと書くのが有利と言われた理由は、部活動から協調性や耐性を仕込まれたと見れるからで、確かにその一面はある。これらは親が躾けや教育で与えたものではなく、自ら自発的に意思的に身につけたものだ。自己教育力といっていい。自分で自分を律することは容易いようで難しい。言われたことはできるが、自分で率先してというのは難しいという。

学校に文句ばかりいう親がいるらしい。モンスターペアレントという名がつけられている。教師はそういう親を切実に感じているようだが、まさか本人の耳に入るような本音はおくびにも出さない。購入した商品に言いがかりをつけるユーザーをクレーマーというが、これも同種であろう。何でもカンでも他人のせいという人間に自律なる言葉はないようだ。

イメージ 5

子どもを勉強させるように仕向けるのも、本来は親の役目である。なぜなら、自分の子どもだからである。そういう当たり前に自分を律するという親がいない。昨今においていえるのは、自分を律することの大半は、外注に出されている。委ねられている。子どもに勉強させるようにするノウハウなんか考えることもなく、塾に行かせるのが手っ取り早いというように。

何でもカンでも受け皿が用意されていて、お金を出せばいいようになっている。自分は動物の親として、こういった横着な、人任せな、人間の親的な行為を嫌った。何で自分の子どもを人に委ねなければならぬのかは、いかにも動物的な思考である。人間は賢いし、だからズルくなる。金を出せば事足りるという時代であるようだ。同級生に資産家の親を持つ息子がいた。

「日曜大工にしろ、ちょっとした工作にしろ、自分でするよ」と言った時に、「何でだ?金を出せばやってもらえるだろうに?」と真顔で言われて驚いたことがある。彼にとっては、それが当たり前で、何でわざわざ自分がやらねばならぬかであった。彼は数年前に糖尿病の合併症で世を去った。命を長らえることができなかったのは、美食家であったからだろう。

命を粗末にするなどと、なんとも不憫な奴だと思った。それに変えて言えば、「貧乏は贅沢である」トンカチ、のこぎり持って体も動かす。燃料代をセーブするため、徒歩や自転車を多用する。また日常の粗食は健康にいいし、体にイイことばかりだ。繰り返す、「貧乏は贅沢である。」

イメージ 7



Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles