アメリカでトムと言えば、日本では太郎に匹敵する名であろう。Tomはトーマス(Thomas)の英語・オランダ語での短縮形で、英語では Thom の綴りもある。類似の短縮形にトミー (Tommy)がある。トム・クルーズ、トム・ハンクス、トム・ワトソン、最近は缶コーヒーのCMに出づっぱりなトミー・リー・ジョーンズにトム・ソーヤ、トム・ドゥーリーなどが浮かぶ。
トム・ドゥーリーは南北戦争時代の実在の人物で、南軍に参加したトーマス・ドゥーラと言う。彼は心変わりした恋人を殺し、絞首刑になったときの歌である。兵士トーマス・ドゥーラは、フィアンセであったローラ・フォスターが、心変わりをした事に怒り彼女を殺すが、裁判で彼は、「ローラを殺してはいない、しかし自分は罰を受けるに値する」と死刑を望んだ。
トムは1868年に絞首刑になるが、この事件の真犯人はトムのもう一人の愛人だった女性、アン・メルトンの嫉妬によるものであったとも言われ、事件は多くの謎を残したまま忘れられ去られようとしたが、トムの処刑後、詩人トーマス・C・ランドがトム・ドゥーリの悲劇を歌にし、音楽フィールドで再び光が当てられた。血なまぐさい歌詞だが、多くの歌手によって歌われた。
トム・ソーヤといえばマーク・トウェイン、マーク・トウェインといえば、ディズニーランドの豪華客船でアメリカ河を遊覧するアトラクション「蒸気船マーク・トウェイン号」が浮かぶ。マークトウェイン号が進む川はアメリカ河といい、19世紀始めの頃のミシシッピ川がモデル。東京ディズニーランド開園時には、実際にミシシッピ川の水を1瓶運んできて、注いだそうだ。
ディズニーランドのシンボル「マーク・トウェイン号」の遊覧だが、それはウォルト・ディズニーがマーク・トウェインの『トムソーヤの冒険』の愛読者であったことによるという。「マーク・トウェイン」は作家になる前は船の船長だったらしい。マーク・トウェインの生まれはアメリカのミズーリ州という田舎町で、ウォルトも少年期をミズーリで過ごしている。
マーク・トウェインはアメリカを代表する作家で、『トム・ソーヤーの冒険』の他に、『王子と乞食』、『ハックルベリー・フィンの冒険』、『不思議な少年』などの小説があり、エッセイ、旅行記などもある。マーク・トウェインはまた、数々の名言を残しており、アメリカ国内や世界のあちこちでの講演やスピーチなどで、最も引用されていると言われている。
◎人類なんてこんなものだ…、ノアたちが箱舟に乗り遅れなかったことを、残念に思うことがよくある。
◎今から20年後、あなたはやったことよりも、やらなかったことに失望する。
◎ユーモアの源泉は歓びにあるのではなく、悲しみにある。天国にはユーモアはない。
◎アダムはリンゴが欲しかったから食べたのではない。禁じられていたから食べたのだ。
◎新しいものを考えついた人も、それが成功するまではただの変人にすぎない。
◎私の本は水だ。偉大な天才の本はぶどう酒だ。しかし、みんなは水を飲む。
◎教育とは、うぬぼれた無知からみじめな曖昧さへの道である。
◎友人たちが「若く見えるよ」と誉めだしたら、あなたが年をとったしるしだ。
◎私に批判的な人たちが私のことを何と言おうと、彼らが真実を語らない限りは気にしない。
彼の皮肉たっぷりな、辛辣な、的を得ている言葉は、読むだけで笑えるし、彼の言葉を知るだけで嫌な人生も味なものになる。「死んだら葬儀屋も悲しんでくれるくらい、一所懸命に生きろ!」 (Let us live so that when we come to die even the undertaker will be sorry.) という言葉は一瞬「?」で、すぐには意味が分らないかもしれないがこういう事。
一般に葬儀屋は人が死ねば喜ぶ職業であり、その前提で、葬儀屋さえも悲しんでくれるくらいに一生懸命に生きろ、という意味。そういえば、あのガンジーもこのように言っている。「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ」 (Live as if you were to die tomorrow,Learn as if you were to live forever.) 矛盾していて理解しづらいが実に深い意味を持つ。
「死」を意識した有名な言葉はたくさんあるが、スティーブ・ジョブスが2005年、スタンフォード大学のスピーチで述べた次の言葉。"If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?"(今日が人生最後の日だったら、今日やろうとしていることをやりたいか?)というのが直訳だが、「もし明日死ぬなら何をする?」と意訳される。
こういう死生観を持って生きるべきと思うが、それでも人間は有り余る時間を無駄にする。無駄が決して悪いことではないが、ある日突然、医師に寿命を宣告されたらどのように生きるだろうか?いかに想像したところで、実際にそういう憂き目にあわぬ限り人間は自堕落な生き物だ。確かに動物は生きることにのみ純粋である。生きて子孫を残して死ぬという意味で純粋だ。
「人間はそれでいいのか?」という問いは常に投げかけられている。さりとて、「何をする?」、「何ができる?」というものでもない。であるが故に、半年後に寿命を切られたとして人間が果たしてどのように生きるか、察しがつく。ジョブズは何を言いたかったのか?ガンジーは明日死ぬとしても、学びを捨てるなといった。共通するのは実利よりも意識についてである。
どうせ死ぬのだからやりたいことをやれ、と解釈も出来るし、いつか死ぬという意識があれば、何かを失うことを憂えるという落とし穴にはまらずに済む。持っている物を失いたくない、1億あっても2億にしたい、と飽くなき欲が人間の本質であろう。それを人間の弱さと言えないか?事業欲とは聞こえはいいが、儲けるばかりで従業員に厳しいブラック企業経営者もいる。
そんなにガツガツしないで、もっと従業員に優しく、温かい経営をしたらどうかと思うが、経営者の本質はやはり「欲」なのだろう。売り上げ世界一を目指すには1000円の月給で10000円分の労働を課して従業員をこき使う。ブラック企業といえば、「ワタミ」、ユニクロの「ファーストリテイリング」の名が上がるが、「ヤマダ電機」や100円均一の「大創産業」の名もあがる。
自分の心に従わない理由などはないし、偉業を成し遂げる人は共通して、「人はいつか死ぬ」という事実を明確に意識しているし、そうだからこそ、今を一生懸命に生きようとしているが、ガツガツ企業経営者には腹黒いのが多すぎる。ユニクロの柳井氏は、「自分の能力以上を求められる環境でなければ、成長は難しい」というように、昨今の成長振りは目を見張るものがある。
経営者の感覚でいえば、従業員に能力以上のものを要求するのは当然であろう。が、それでは人間の精神が病む人も出てくるだろう。人には能力の前に性能(性格)があり、性能以上の事を要求されると壊れるようになっている。壊れたら壊れたまでのこと、補充はいくらでもきくし、文句ばかりで仕事をしない人間はどうぞ辞めてもらって結構という考えのようだ。
企業経営者とは一線を画す哲学者は、人の刹那な人生について別の考えを持っているが、ニーチェはこのように言う。「死ぬのは決まっているのだから、朗らかにやっていこう。いつか終わるのだから、全力で向かっていこう。時間は限られているのだから、チャンスはいつも今だ。嘆きわめくことなんか、オペラの役者にまかせておけ」。物質的豊かな生活とは対極である。
柳井氏は従業員に自営業者になれという。自分の職業に徹して、第一人者になるためには細部に精通しているべきという。たとえ店長という職にあっても、店舗経営に必要な一切のことを勉強するためには半端な努力では済まない。しかし、それをマスターしないと、店舗をコントロールできないという。これが離職率50%のブラック企業の実態なのか。
徳島県の日亜化学工業勤務時代の1993年、世界で初めて高輝度青色発光ダイオードの商品化に成功し、世界を驚かせた。ノーベル賞に輝いた中村修二氏は、企業家柳井氏とは全くの正反対の、従業員的思考を述べている。「若い人になにより言いたいのは、まずは価値観を変えなさいである。"同じ会社にずっといるのが美徳"、"会社を辞めるのはよくない"これは間違いだ。
完全に間違っている考えがいまだに幅を利かせている。みんな知らず知らずのうちに経営者に洗脳されている。そこに気づかなきゃダメだ。会社を辞めるのが道徳にはんするなどと、冗談じゃない。会社を辞めることはとてもいいことなんです。なぜならその事が自分を進歩させるからです。会社を辞めてゼロからやり直すのは、面倒だし、しんどいし、苦労も多い。
だからこそ自分を磨ける。アメリカ人はしょっちゅう会社を替わります。常に能力の向上を考えているからです。日本のビジネスパーソンには夢がないといわれる。その多くは大学受験が芽を摘んでいること。大学に入っても夢がない、何をしていいか分らない、だから適当に遊んで、いざ卒業の段階になって自信がない。その結果、安定志向に走ってしまうという図式だ。
そもそも、大学に行けば何とかなるということ自体が間違っているし、それで大企業に就職して「大企業なんてつまらん」、「こんな仕事をするつもりじゃなかった」と気づく。人は自身の経験からさまざまな考えに到達するから、柳井氏と中村氏の考えが違うのは当然である。どちらの意見が正しいとも言えない。それぞれが自分の体験から主張しているだけだ。
どういう考えであっても実行するのは別の人間である。ただし、同じ柳井氏、同じ中村氏は二度と輩出されないだろう。仕事は会社のためにするのではなく、自分を伸ばすため、自分が楽しむためにこそあるのだろう。そのようになるためにはどうすればよいかは、自分で考えて実行するしかないのだ。成功者はあえて結論をいうが、それぞれの課程を踏んでいる。
結論に至っていない誰かには、とりあえず課程を踏むしかない。その都度起こったことに対処して行くしかない。人生が思うようにならなかったとき、多くの人はその責任を押し付けられる対象を探したくなる。それをして、慰めたいのは自己愛であろうし、自尊心であろう。そうでもせねば精神が持たない人もいる。失恋をしてもさっと新しい対象を見つける人もいる。
自分はまぎれもない後者であったし、その理由として、"くよくよしても何も得られない"、"何もいいことないじゃないか"、は当たり前に考えられたし、だから、くよくよしない方法を考えた。ボブディランに、"Don't think twice, it's all right."(=邦題「くよくよするな」)という曲があるが、もちろんこの歌の影響もある。"think twice"=考え直す、熟考する。
座って悩んだりしないでいいのさ
いずれにしても仕方なかったんだ
座って悩んでもどうにもならないよ
今の時点でわからないならね
いずれにしても仕方なかったんだ
座って悩んでもどうにもならないよ
今の時点でわからないならね
学歴志向型に注意として言っておきたいのは、学歴は過去形、学習は現在進行形であることだ。昨日のBSジャパン放送の「日経プラス10」は「東大合格者数ランキングから読み解く教育格差 傾向と対策」で、東大生の親の年収は「950万円以上」が過半数を占め、貧困状態の子どもは十分な教育は受けにくいため、成人してからも低所得層を抜け出せないまま次世代も困窮する。
これがいわゆる教育格差における「貧困の連鎖」といわれている。確かに、有名大学の学生には裕福な家庭の子どもが多い。そこから、「貧しい家に生まれると教育を受ける機会もなく、ニートや非正規になってしまう」とか、「金持ちの子どもだけが私立の進学校に進み、エリートになるのは不公平だ」などの批判が言われるが、頭のいい親から80%の確立で知能のよい子が生まれる。
これは統計学を元にした遺伝学的論拠として現時点で反証はないが、現実的には東京大学大学院教育学研究科・大学経営・政策研究センターで行った「高校生の進路についての調査」で、親の年収によって大学進学率に大きな格差があることが明らかになった。詳しい数字は省くが、上記した東大生の親の年収950万以上が過半数を占めているのは、紛れもない事実である。
これは憲法に謳う、「教育の機会均等」が幻想であることを示している。偏差値レースに参加するなら、高校から大学だけで1000万以上が必要なうえ、選抜の主戦場は中学受験に映りつつあるため、費用はさらに増す。2015年の東大合格者数上位20校を見ても、都立日比谷高校一校以外はすべて私立の中高一貫校である。確かに学費の個人負担は先進国の中で日本は最も多い。
つまり、教育も市場原理で動き、学歴は努力による結果ではなく、生来の属性で決まる社会にある。これでいいのか?教育格差の拡大は、ニッポンを教育後進国にするのではないのか?早々問題提起されていることだが、国家が取り組む問題であろう。教育といっても人間教育で楽しく人生を送ることもある。教育格差の暗闇の中で明るく希望を見つけていくのも人生だ。
子どもの学力が親の経済格差で決まるのはおかしいと思えども、それで個人の幸・不幸が決まるわけではないのだから。支配者階級になれば、苦労もストレスも多いのも事実であり、何の不足もないエリートの自殺がそれらを物語っている。成功の陽の目を夢見て嘘つついたり、捏造したりするのも、エリートの苦しさであり、性である。子どもの将来に不安を持たぬ方がいい。
不安を持ちすぎる親は、間違ったことをするかもしれない。誰もが極度の秀才になれるわけではないし、昨今はそこそこの秀才は要らない時代である。どんなエリートにも勝者と敗者という現実がある。だからか、万引きひとつした事のないようなエリートが大きな犯罪をおこしたりする。研究費を不正取得する学者も後を絶たない。小保方嬢のようなバカな学者も出てくる。
かつて日本の教育は一億総秀才を目指してきた部分がある。天才も作らず、際立ったバカも作らず、みんなが秀才を目標としてきた。うかうかしていると県立高校にも入れないし、行く高校もないかつての時代は遥かに遠のいた。今はもう、お客様のようにどこかの高校に入れるようになったし、周囲には不登校も増えているから、少々サボったところで目立たない。
「勉強ができさえすれば…」の時代から、「勉強ができても…」の時代になっている。大事なのは少々の秀才と、ズルをしないで一生懸命に働いてくれるような人間である。後者は人間教育(躾け)によって作られる。秀才にすることばかり考えて、勉強以外に興味を持たなかった親が、子どもが勉強に挫折したときには、ズルしないで一生懸命に働くような子の躾けをしてきたか?
これがこんにちの社会の問題点。どこの場所で働くにも、使い物にならない子どもが多いという現実は、躾をおろそかにした親の責任だろう。子にエリートを夢見る親の家庭から使い物にならない子ができる。確かに子どもを見ればその親が分かる。親を見れば子どもの想像がつく。すべての鍵を握っているのが親と言うのは、「親は子どもを映す鏡」と古人の言葉通りである。
これほどに子どもが親の影響を受けるという不思議。わがままな子の親は最も分りやすい。人間学とは何か?他人ひとに優しくすること。他人に好意を持つこと。他人の長所を認めること。他人を褒めること。先輩を尊敬すること。後輩を可愛がること。俊才を友人に持つこと。威張らないこと。口で言えば易しいが、実地に臨んでこれほどむつかしい学問はない。
それらを人間社会から学んでいく。本を読んで人生勉強しようとなんてのは虫が好すぎる。これらは実地臨んで、周囲に気を遣いながら、苦労をし、悩み、試行錯誤の結果、漸くやっとのことで身につく感覚なのであろう。熱心に本を読んで、他人に好かれるコツが分ろう筈はない。