ひょんなことから「ミモザの日」というのを知った。花オンチの自分は数年前までミモザの花すら知らなかった。バラ、ユリ、チューリップ、桜、菊などの有名種を知るくらいだった。マーガレットは雑誌の名で、花の名であるのも知らなかった。レンゲやタンポポなどの野草は子どものアイテムとして知っていた。「キンモクセイのいいにおいがするね」とある女が言った。
「オレのキンもクセイか?」と言ったら、「なにバカなこと言ってんの?」とたしなめられた。その女は冗談やオヤジギャグをまったく聞かないし、相手にしないクソマジメ女。ピアニストで作曲でもあったフランツ・リストに、『パガニーニによる超絶技巧練習曲』というピアノ練習曲がある。バイオリニスト・パガニーニの曲をリストが抜粋、ピアノ用に編曲したもの。
有名な『ラ・カンパネラ』はその一曲。超絶技巧という名もスゴイが、上の女も超絶糞真面目であった。自分は下品でだらしない超絶愚行男だから、女は超絶糞真面目なのが好みである。別にギャグに愛想してくれなくてもいいし、それを物足りないとは思わないし、むしろ、「なにバカなこと言ってんの」と言われる方が、なぜかわからないけど、刺激的なのだ。
超絶愚行男を自負する自分がここに書いていることを、「くそまじめですね~」といわれることが多い。自分ではマジメなことを書いているなどと、ぜんぜん思っていないのだが、人にはそう見えるらしい。しかし、といっては何だが、猥褻犯は周囲も驚くクソマジメ男が多いのはなぜ?マジメは虚飾で本当は別の顔を持っている?あるいは抑圧の反動か?
いろいろな見方があろうが、マジメというのは周囲からみると目立たない存在であるのはその通り。エロいことも言わないからマジメと見られているが、それ自体が間違っていることを周囲が気づいてないだけだ。実際はド助平で変態エロ男なのに、それを隠しているからマジメに見えているに過ぎない。こういう奴がたまにシモネタを言うと、超キモチ悪かったりする。
言いなれてないからだろう。人間の本質なんて変わるものでもない。超絶真面目男は超絶助平の仮の姿である。それは女にも当てはまる。超絶真面目女はやはり、抑制のたまものだから、その反動はある。だから、自分は超絶真面目女が好きなのだ。女に憧憬が深い男は、軽い女に触手を伸ばさない。バーゲンセールの商品は、所詮はバーゲンの価値しかないのだ。
「類は友を呼ぶ」という図式に当て嵌めると、超絶愚行男と自負する自分の本質は、実はものの考え方が真面目なのかも知れない。真面目な人間と比較して見ると、自分は到底真面目ではないが、ではその真面目男のガチガチの思考や生き方に魅力があるか、羨ましいかというとそれはない。真面目だなと思うが、真面目だと思うだけで、そうありたいとは全く思わない。
だから超絶愚行の自分を愛している。愚行の定義が何かといえば真面目でないといっておこう。したがって超絶真面目女というのは、思考に柔軟性のない不器用さであって、常識的な行動を範とするが、得てしてそういう女は愚行男に憧れるものだ。これも"ないものねだり"の図式である。自分も女も、互いに"ないものねだり"をし、それが実は相性の良さといえるのかも…
「類は友を呼ぶ」というが、「類」は表層ではなく「本質」であろう。まったく異質のカップルに見えても、それはあくまで表面的であり、本質は他人には伺い知れぬものであったりする。ここは、「人は見かけによらぬもの」という故事に収斂しておくべきだ。とかく人は分らぬものよ。実際問題、自分が分からぬ存在であるなら、なおさら人は分らぬものである。
人と人は決して分かり合えない関係である。50年連れ添っても分らないものであろうし、そこまで分る必要もない。自分が欲でエゴイストの人間は、他人の無欲の行動ですら、私利私欲と受け取るし、他人のふしだらな行動を見ても、それ自体は卑小なる市民社会や人間社会に対する抵抗と捉える人だっている。その人が解釈する世界観は、その人の器量によって決まるのだ。
男心は男にしか分らないし、それでいいし、だからこそ性差である。だから自分はオカマが嫌いなのだ。中性人間がなにを言ったところで、信憑性はないし、そういう境界線をもたない信憑性のなさが好まれる今の時代背景か。敵か味方か、やるのかやらないのか、男か女か、ハッキリ色分けすべきが信頼に及ぶ。オカマには悪いが中途半端が好きでない。
男心は男に分ればいい、女心は女に分ればいい。もし男が女に対して孤独を感じず、女の中にいて孤立を感じないなら、男の器量は女と同じと自覚すべきである。オカマは何を自覚しているのか?おそらく性的無自覚であろう。ある時は女、ある時は男、こんなのは信用出来ん。テレビで観るにはいいが、友人にはいらん。オカマ心はオカマに分ればいいよ。
昔も今も偉大といわれる人は、常に孤独の影を宿している。それは、その人が自分を多くの人に理解してもらおうという気がないからであり、この人にだけ理解されれば良いと思う部分があったからだ。人間は誰も、自分自身にないものを理解はできない。誠実で真面目な男が憎悪の鬼になると犯罪を起こす。殺人以上にヒドイことはこの世にいくらでもあるのだ。
それを見かねて殺人をするのに、周囲は殺人以上のものはないと言う。殺人をする人にとって、殺人という行為は、実は人を殺す以上の事であったりする。それでも周囲は「殺すこともないだろう」という。自分がそれと同じ場にいたら、どうするかを深く、深く、深~く、思考しないで簡単に言う。確かに殺人という行為自体は、単純であり明快である。
それに至るプロセスは複雑極まりないものであったとしても、殺人の行為自体は種々様々な解釈をもたない。殺人はまぎれもない事実であり、殺人が行われたことを否定はできない。「殺人よりヒドイことはこの世にある」といったが、その意味は殺人という行為にどのような解釈も出来るからだ。が、どういう問題が殺人以上の罪であるかを具体性をもって決めることはできない。
そして司法が殺人以上の罪を認めることは、社会秩序の意味において問題である。「情状酌量」というのは、法治国家において、犯罪の中から人間的な道理を認めた温情であろう。こんにち共産主義の国家といえばどこなのか?ロシアはいまだ共産主義国家なのか?ちがうな。共産主義政権下の資本主義国家である。基本は中国と同じだが、中国と違って共産主義独裁ではない。
その点は中国より進歩的といった印象だ。共産主義国の憲法には、祖国への裏切りというのが最大の罪とされている(⇒国家反逆罪)。確かに祖国と個人の関係や、人民全体と個人の関係においては、国家反逆罪=死刑という国家的定めはできるが、個人対個人の関係において、果たして殺人以上の罪は定め難い。にもかかわらず、殺人以上のヒドイ仕打ちは多だ存在する。
法というものをどんなに完璧に作っても、人間関係の複雑さをカバーし得ない。法とはあくまで外に現れた客観的事実を重んじなければならないからだ。したがって、法的には無罪のまま、人間は殺人以上の事がやれてしまうのだ。子の親殺しは、子という弱者が凶器を持つことで起こる。それを世間の人は親殺しという。とんでもない子どもだと、無慈悲に叩きのめす。
親の立場で子どもを批判する前に、子の視点で親を眺めてみたらどうか?と、その主旨で親殺しの記事を書いた。親というのは、法的無罪であっても人間的有罪という行為をするものだが、近年は虐待に法的処罰が課せられる。人権意識が高まった現れで、良いことだと思っている。のっけにミモザのことを書いたが、新学期を向かえたある中学教師の苦悩のメール。
「母の植えたチューリップが風に揺られて笑っています。葉が出、茎が伸び、蕾をつけると、咲くのが心待ちとなり、咲いた朝には「さいたーさいたー♪」の歌を口ずさみたくなります。今年度は職場の仲間ががらりと入れ替わり、たくさんの仕事を引き受けるポジションになりました。慣れない仕事に言いようもない不安が渦巻き、毎朝吐きそうになりながら出勤するのです。」
に対し、こう返信した。「ふわふわ揺れる女性のようなミモザの黄色が好きです。3月8日は「ミモザの日」、世界の男が恋人や愛人や妻にミモザの花を贈る日。与えられた仕事をそつなくこなすのがプロフェッショナルです。そういう人が、頭ひとつ抜きん出ていくんです。何でもこなせる、「組織横断的な働き方」が求められる職種であり、お気楽にやりたい人に忙しいのは迷惑でしょうね。」
「ミモザの日ってあるんですか?フリージアやジャスミンと並んで好きな香りにミモザがあります。と言っても、本物はわからない^_^; アタックネオのミモザの香りはとてもいい香り、元気の出る香りです。やり甲斐はあります。任された喜びも…。なのに不安はなんなのでしょう…?気負い?プレッシャー?変な力が入っているようです。
ちゃんとできなかったらどうしようと、ただただ不安で…こなしていくしかないのですけど…先が見えないことが怖いんです。初めてのことにチャレンジってこういうことなのかな。hanshirouさんは不安な場面やプレッシャーをどう乗り越えていかれましたか?よければ憐れな子羊に示唆を与えてください。お願いします…」。と、慣れない仕事を与えられ、喜びと不安が混在しているようだ。
「不安やプレッシャーは克服すべきものですから、誰にでもあるし、あって当たり前です。なぜ、不安やプレッシャーが起こるのか?人間に自尊心があるからです。それらから解き放たれる言葉として、「バカになれ!」というのがあります。これは、自尊心を捨てろということです。自尊心や虚栄心を取り払うことで、人間は出来ないこともできてしまうものです。
大きな不安やプレッシャーに襲われるというのは、危機的状況でしょう。ですが、そういうときに人間は最も成長するし、その人の本質が見えるときでもあります。未知への不安は行為をする前に克服することはできませんが、成功という結果に拘ることなく、「今」を全力で頑張ればいいのです。そういう毎日を情熱をもって過ごせるかどうかにかかっています。
解決できそうなことは解決し、できそうにない事は、解消でストレスを溜めないこと。人生はそうすべきと思っています。これは、自分にのみ特化したものではなく、誰にでも当てはまることなので、人にはそのように進言しています。やさしいことばかりではないし、難しいことに直面した時、失敗や、先を考えず、"今を全力で行う"は、人生の道理かもしれません。」と返す。
「ありがとうございます。始業式での挨拶のヒントのお言葉でした。『今日は明日には思い出に変わるよ、今日これを頑張った!今日はこれが楽しかった!そんな思い出を積み重ねて過ごせば毎日が充実するし、必ず1年間で成長するよ!』、そんな風に言いました。子供に向けて言っているようで、実は自分に言いきかせていたんです。職場の先輩の励まし言葉は優しいようで他人事です。
最後の戸締まりをする、休みの日に鍵を開けて学校ににくる、非行の連絡に急行する…当たり前になりました。プライベートにゆとりはありませんが、"今を全力で頑張ること、情熱をもって過ごすこと"、それしかないですよね。苦しいときにこそ成長があるんですね。ポジティブに受け取ってみますが、今年のわたしは悪戦苦闘の日々に思われます。」
人が自分の悩みを人に話すとき、慰められたい気持ちもあるでしょうが、もっと前向きな言葉を必要とする人もいる。切実であればあるほどそうなのかも。そういう時に、こうしたらいいよと限定的な言葉より、誰にでも当てはまるような、普遍性のある道理のようなものがいいようです。特化した言葉は、相手の周囲の様子が分らないから無意味でしょう。
こういう場合にはこうすべきという答えは自分を中心にいう言葉が多い。性格も環境も違う人なら、物事の道理を理解させる方がいい。なぜ不安なのか、プレッシャーはなぜ起こるのか?答えは簡単、失敗を怖れるから。恥をかきたくないから、笑われたくないから、すべて自尊心・虚栄心の問題だ。教師は生徒より優れてなければならないという思い込み。本当にそう?
生徒は陰で教師バカにする生き物だが、そういう生徒に教師はどう優秀であるべきか?生徒が教師を優秀だと思えるものは何か?教師が優秀というのは教師の一人合点であって、生徒が求めているのは自分たちと同じ空気を吸っている人間であるかどうかでは?教師は優秀であるより同質であるかどうかを見ている気がする。自分たちもそうだった。
教師が優秀であるか否かなど、まったくといって思考の外で、目糞ほども考えたことなどなかったし、今の時代も変わらないだろう。ならば教師は(生徒に対して)優秀でなければならないと考えるのは愚かなことだ。教師ばかりではない。親だってそう、会社の上司だってそうではないのか?優秀か否かの視点で見るのは、同年齢の相手であったり…