Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

誰もが「子」も「親」も経験する

$
0
0
「人生の悲劇の第一幕は、親子になったことにはじまっている」

というのは本当なのか?まあ、すべての親子を対象とするのではなく、そういう親子もあろうと考えるべきだ。この言葉を知ったとき自分は子どもであった。当然ながら子どもの視点でその言葉を噛みしめたとき、どうしてこんな家に生まれてきたのだろうと「生」を呪った。よその母親はみんな女神のように見えた。「何であんなにやさしいのだろう…?」

羨ましかったことは沢山ある。①弁当のおかずが多い、②自分宛の手紙を勝手に開けたりしない(手紙がくる奴限定)、③洋服は欲しい物の値段を親に金をもらって自分で買いに行く(我が家は既製服なんか着たことない。全部母親の製作)、④兄弟・姉妹がいる(自分は一人っ子)、⑤日曜日に家族で出かける、⑥親が人前で子の悪口を言ったりしない、などなど。

イメージ 1

50年も前のことだが思い出すとこんな感じで、当時はもっとあったろう。もちろん、こういう不満は口に出して伝えたが、門前払いであった。言い返せなかったことも多かった。特に①などは、「兄弟の沢山いる家ならおかずもいろいろ作れるが、弁当一つにあれこれおかずを入れられない。小学校はまずい給食でうんざりで、中学から手弁当を楽しみにしていた。

ところが、毎日の弁当のおかずは魚肉ソーセージを炒めたものばかり。よくもまあ、毎日同じものばかり、何も考えもせずに入れるモノかと思うが、当時はそれが我が家の普通と思っていたのだから、飼い慣らされていたのだろう。他の奴は肉も卵焼きもゆで卵も入っていて、それは他人の家の普通だと思っていた。だからこういう言い方になる。

「みんなはおかずの種類が多いのに、何でうちは一品なんか?」これに対する母の答えは、「おかず食いは出世しない」。どこから仕入れてきたのかこの言葉、いわれて見るとそうなのかと思ってしまう。出生という言葉は子どもにとっても大事なことのように思われた。だからか、「おかず食いは出世しない」というのを、信じていたように思う。

本来なら、このような手抜き弁当なら、親に対する愛情は感じないものだが、小学高学年で絶縁を言い渡していることもあり、だからか親に、「○○して欲しい」という要求を言いかねる部分もあった。こっちが親のいう事は聞かないと宣言したのだから、親が自分のいう事を聞かないのも仕方がないと思っていたのだろう。バカな親と思っていた。

イメージ 2

親も腹に据えかねる子と思っていたのだろう。現実的にどっちもどっちであろうが、弁当のおかずを毎日同じもの一品、子ども宛の手紙を勝手に開く、この二点だけでも客観的に見てヒドイ親であろう。どうして子どもの栄養とかに頭がいかないのかと思うが、ようするにそういう人間なのだ。自分の面倒臭いが優先して、他にことがおろそかになる。

して、それを自己正当化するための何かを考えつくか、どこかから仕入れてきて勝手に思い込む。行動のすべてが、自分の快・不快であるとか、楽・面倒であるが規範にある。今の自分からみると、とんでもない人間だが、当時はそういう分析などできるはずもないし、すべての子どもにとっては自分の親が親というスタンダードになる。

母親は自分の何が足りないかを考えないかを考えない人で、それでいて「親を大事にしない極道息子」という当時の価値観を吐く。我々世代は親に手をあげるなどはとんでもないことだという価値観があったし、親は「絶対悪」的存在という風には思えなかった。「親孝行」、「親の恩」、「親に感謝」などの言葉が、これ見よがしに耳に入った時代である。

子どもにとって自分の生きる場、生活する場が家庭であるのはいうまでもない。家庭というのは子どもにとって、すべての動物の雛にとっての存在の証しである。巣なくしては生きていけない。が、人間の子どもには、「広場恐怖症」なる児童心理がある。「広場恐怖」とは、児童心理学の権威B・ウォルマンが著書、『子どもの恐怖』の中で以下の説明をしている。

イメージ 3

「親の寂しい気持ちが強く、自身の恐怖や不安を軽減させるために、子どもに傍にいることを要求することで、子どもが『広場恐怖症』を発症するおそれがある。子を自らの感情の拠り所とする親は、自分の寂寥感が子どもを縛っていることなど気づいてない。子どもにしがみつきながら、それを子どもへの愛情と錯覚したり、思い込んでいる場合が多い。」

これは母親の顕著な情動である。母親が少しでもそういう自身の感情から離れ、理性的に思考すれば、"自身の都合で子どもを利用している"に、気づくこともあろうが、そういう事を考えないところが女脳である。これが講じてくると、役割逆転が起こるようになる。親の役割は本来子どもを気づかうことなのに、逆に子どもが親を気づかうようになるのだ。

自分はこの現象を早い時期に坂口安後のエッセイで知った。「親は子どもに献身的にあれこれしていると思っているが、子どもの方がどれだけ親に対して気を使い、自己犠牲を強いられているか…」の一文だ。子どもは親に気など使ってはいけない、己の精神の成長に親の何かが障害になってはいけない。親は子どもに気を使わせてはいけない、という図式である。

親の使命は子に何の見返りも求めず、要求もせず、ただ与えることをもって愛情とすべきである。いわゆる「無償の愛」で、これが親の根源的なあり方だと知った。いや、知らされた。親子に限らず、恋人であれ、夫婦であれ、友人であれ、相手に精神的・肉体的負担を強いるというのを根源的な愛情とはいわない。もちろん、金銭的な負担も同様である。

イメージ 4

愛とは与えることのみが使命である。自分はこの考えは「美しい」事とは思わない。当たり前のことだと認識している。自分の身勝手はその分他人の迷惑になっているのだ。個々が自分の持ち場をキチンと守れば、人間は自分の苦しみだけを何とか処理していける。自分の都合、身勝手さで他人に迷惑をかけ、「申し訳ない」などという人間が多すぎる。

だから小保方のような女は大嫌いである。恩人を死に至らしめるばかりか、どれだけ周囲に迷惑をかけているにも関わらず、ちょっとしたマスコミの言葉に反応(するそぶりを見せて)被害者に納まろうとする。こういう女は多いし、被害者になる事で救われたいとする人間の最も卑劣なズルさである。人に迷惑をかける人間ほど、こういう性情が強い。

男として男にエールを送るなら、ダメな女とは関わらないことが生きて行くコツである。ダメにもいろいろあるが、向上心なく、欲まるだし、恥をしらない、言い訳ばかりで自己正当化の女。恥を知らない女は傷つくことないが、傷ついた素振りをするのが得意である。他人の目、という厳しさを知らないから現実に無頓着でナルシズムに酔い、感傷的になろうとする。

まるでママゴトのゴザの上の遊び感覚のようだ。周囲の誰かが、「そんなことしてたら将来困るよ」などと口酸っぱくいっても、その事を考えず、その場その場の感性で生きている。自分の周囲の誰かが、自分のおママゴトのために迷惑しているということが分らない。それはなぜかといえば、おママゴトをやっていて、迷惑する人などいないからである。

イメージ 5

いくつになってママゴトをする女はどうしようもない。だから関わるべきではない。小保方という女に関わった人の多くがそれなりの被害を被ったが、自分にいわせると関わった側の責任なのである。小保方氏には罪はない。ないというほどの人間だからであり、それを見抜けない責任を問うしかないのだから。つまり、世の中には悪人もドロボウもいるということ。

悪人に「悪人だな」と、ドロボウに「ドロボウ!」と言ってみたところで何になる。言えば悪人でなくなるのか?ドロボウでなくなるのか?面白いと思うのは、屋根をつたって逃げるドロボウを「ドロボー!待てー!」と言って追いかける場面を沢山見た。自分が経験したことはない、映画やテレビの世界。なぜ、「ドロボー!」と、言葉を発するのか?

「待てー!」という言葉を発するのか?「ドロボー!」と発するのは分らなくもない。そのように言って追いかければ、それを耳にした通行人の誰かが足をかけたり、取り押さえてくれるかもしれないからだが、逃げる相手に「待てー!」というのはどうだろう?言ったところで待つはずはない。アレは、「御用だ!御用!」と江戸時代の十手が発してると同じだな。

逃げるドロボーに、「待てー!」というだけカロリー消耗して損だと思うが、つい出てしまうんだろうし、「待てー!」と言いながら追いかける方が多少なりともサマになっている。外国映画などの逃走シーンを見てると余計な言葉を発さず、黙々と追いかけているが、こちらの方が合理的だ。テレビなど観ていて、「待てー!」と言いながら追いかけるシーンが可笑しい。

イメージ 6

「他のことは分らない」とつくづく思うし、それは正しい。なぜなら、他人は自分ではないからだ。が、それは真っ当すぎる答えだ。他人を理解することの難しさは、自分というものが災いしていることに気づくならいい。つまり、他人の行動は自分の理解し得る範囲内においてしか理解できないということ。だから男はm男の感性でしか女を理解できない。

女も同様、女の感性でしか男を理解できない。それを超えて、人間(ヒューマニズム)的な視点で思考しないと、理解は遠のくばかりだ。人間的視点で理解して善悪を見極めようとしても、「女は女なのよ」と言われたらどうするか?それがあまりに常軌を逸脱した行為であるのに、「女は女よ」と正当化されたら?「だから女はバカなんだよ」というしかない。

だから自分は、善悪正誤を正しく判断するときに「女だから…」などというなという。「男だから…」というなという。自身も言わないようにする。性の都合よく利用したり、性を正当化していてはで正しい答えはでない。だから、そのようにいうが、聞かない女は多い。聞いていないのに、聞いたフリをするのも多い。だから真の理解かの確認がいる。

本当に心のやさしい女を探せるのか?これが妻を娶る課題であった。控え目で謙虚な物言いをする女はゴマンといる。が、本当に控え目で謙虚ならいい。傲慢で自己中な女もいるし、そうならそうでいい。が、本当は傲慢で貪欲で甚だしく自分勝手であるのに、口先は控え目で謙虚というのも多い。そこを見抜くのが、女を前にした男の役割である。

イメージ 7

いや、能力と言った方がいいだろう。それほどに難しいからだが、慣れてしまえば何でもない。そういうネコカブリ女には共通点があるから、すぐに分るし、自分は騙されない自信がある。「女は雌キツネ」という言い方がある。その罠にかかった男は多く、かかってこそ男である。女の魅力は性としての魅力であり、男にない物を所有する魅力である。

筋骨隆々でゴツゴツ骨ばった肉体、太く低い声、毛むくじゃらなヒゲ面、洗濯板の上に干しブドウが乗っかってるような胸…、これらすべてを一手に備えている女性に男が興じるはずがない。貧乳であっても他でカバーする部分はあるから、さほど問題にならない。体型は見れば分るが、心のうちは見ることはできない。だから謙虚な女は女らしいとなる。

「私のような女」という言い方を口癖にする女性がいる。一見して謙虚に見えるが、謙虚を売りものにするのがズルイ女の手口であるから油断は禁物。基本的なことをいうなら、あまりこういう言葉を言う女は信用しない方がいい。しかと自分を見せていこうの前に、言葉によって自分を相手に思わせようとする意図がみえる。「言葉半分」としたものだ。

言になんか興味はない、行為で判断すればいいのよ。人間は言葉の生き物だから行為(行動)の前に来る言葉で惑わされてはいけない。が、相手は惑わさせようとする。例えば「私のような女」は、その言葉によって、一切の怠情の免罪符を得ようとする。「うちはバカだから」と同じこと。「バカならバカでなくなれよ」とこっちがいうと、宛てが外れた顔をする。

イメージ 8

「私のような女」と本気で思ってる女はそういう言葉を吐かないで沈黙するもの。そして、良くなろうと努力をするもの。男が本当に謙虚な女を求めるなら、口先で謙虚なことを言わない女と付き合うのがいい。傲慢で貪欲な女も謙虚なことを言わないだろうから、どちらかということになる。謙虚言葉の安売り女は、実は甘やかされて育った過保護女に多い。

理由は、そうして過保護に育つと、保護が災いして現実に直面した時に、自分の醜さに気づかされることがない。その上、自分の言った言葉に責任を取らされることもない。だから、平気でそういう言葉を連発できるのだ。あまりに謙虚なことを言ってる女は、無責任で甘えて育ち、過保護でズルいのが一般的であり、真に謙虚な人は騒がないし努力型である。

男も同じようなものだろう。謙虚を安売りする奴はニセ謙虚が多い。そういえば、親が子どもに「謙虚」という言い方をしないが、それはなぜか?本音で接すればいいからである。謙虚と言うのは本音ではなく、嘘とは言わないまでも作為である。親と子は正面から裸でぶつかればいい。謙虚など無用で、すべてを出し合い、作為に興じる関係でないほうがいい。





Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles