小津安二郎の『一人息子』の冒頭、「人生の悲劇の第一幕は、親子になったことにはじまっている」は芥川龍之介の『侏儒の言葉』。自分は一人息子である。だからか、小津の映画を自らに重ねて観た。小津は芥川の言葉に共感したのは映画を観れば分る。確かに映画は母子の悲劇を描いているが、「人生」は悲劇などと言ってられないほどに覆いかぶさってくる。
自分も一人息子であるがゆえのプレッシャーは一時期あった。母親の息子への思い入れを感じた時期でもある。「競書会」というのがあった。「競画会」もあった。日本人は「競う」ことが好きだったのか、書にしろ、絵にしろ、子どもを競わせた。小学生時の競書会のときは必ず母親が会場まで付添い、自分の背中の後ろから硯の墨を磨りながらプレッシャーをかけるのがお決まり。
言葉は覚えてないが、励ましではない。怒られているようだった。優しい口調の人でないだけに、口を開けばとげとげしい言葉が母親の特徴だった。競書会の作品は校舎の室外に張り出される。「特選」、「天」、「地」、「人」、「佳作」というランクで、特選は大体学年で5名内である。いつも常連が名を連ねていた。そりゃあそうだ。上手い奴は常に上手いのよ。
自分はいつも佳作であった。一度だけ「人」に入ったことがある。が、書いた後は必ずよくないところをなぞって修整するのがダメだったんだろう。子どもはそんなことがバレないと思い、毛書を絵のように修整してしまう。そんなのは大人が見れば一目で分るのに、なぞるのがよくないというのを知らない。習字は授業であるだけで、特選の奴らは書道教室に通っている。
佳作が定位置の自分に見かねた母から書道教室に通うよう命じられた。日曜日は遊ぶ日なのに、習字に行っても早く帰って遊びたい。終ったら駆けて帰ったものだ。ある日、教室の庭の池に墨を垂らすと面白いことになった。いわゆるマーブリングの科学実験をしていたのだが、池には錦鯉がいて、誰かがいいつけたのか、先生は飛んで来た。「家に帰れ!もう来なくていい!」
以来通わなくなった。母親は事情を知らず、「来るなと言われた」は言ってないし、ガンとして行こうとしない自分をどう思ったのかは不明。書道教室でも、ピアノ教室でも、学校でも、子どもが行かないのは必ず理由がある。親はそれを知らない生き物なのだ。「子の心、親知らず」であり、親は親で、「親の心、子知らず」であろう。年月は経ち、高校の習字の常勤講師がそいつだった。
憶えてはいないだろう、5~6年も前のことだが、面白い因果と思った。まあ、鯉の池に墨を垂らす方が悪いのだが、烈火のごとく怒らずとも、優しく注意すればよかったろうに。子どもは無知だが、大人もバカと自分は分析した。相手がどんな年上でも、バカと見下したらへりくだらない自分の、そういう性格はこういうところから芽生えたのであろうか?
自己正当化などではない。自分も悪いが、対処の方法を問題にすることが多い。感じたことは大事であり、成熟するにつけて冷静な視点が身について行く。池に墨を垂らす面白さは、墨が鯉に有害という事を知らないだけで、子どもというのはそういう物であって、イタズラ小僧を悪意の権化と見るのは甚だしく間違っている。あの時は純粋に面白さに見入っていた。
墨が鯉によくないと教えてくれるものは居ず、何年か後に自分で当時を思い出して発見したのだ。常識がないとか、気づくのが遅いとか、そういう問題よりも、子どものイタズラの原点は好奇心である。そのように考えると、思春期時期の小・中・高生が、性に芽生え、それを大人は「不純異性交遊」という名でくくって排斥しようとするが、そういう大人ってバカである。
本人たちは、プログラミングされた本能の命ずるままに自身に正直に生きているのだ。排斥する前に、大事なことを注意し、納得させなければならないのに、性の問題を言いづらいとばかりに蓋をして、不良よばわりする大人がバカでなければ何だ?子どもは勉強してればいいの親(大人)は、さらなるバカである。それが、「最初に自分を偽るとすべて無駄になる」の法則よ。
ヒステリー性格の人間こそ短絡的である。特徴は、実際の自分以上に自分を見せようとする、病的なエゴイズムとか、極度に打算的であるとかの性格だ。このヒステリー性格というのは、人間の性格のうちで最も好ましくないものを多く含んでいる。おそらく幼児的依存心の大人の現れかたであろうし、大人の子どもであると見ている。自己主張の根源は他人への対抗意識だ。
中一のときに他の小学校から来た奴と言い合いした。彼は太陽より大きい星(天体)はないと言う。自分は天体観測をしていたし、太陽より大きな星など腐るほどあるのを知っていたが、「ない」と言い張る相手に「ある」では説得にならない。が、自分はそうしか言えなかった。それで、翌日図鑑を学校に持ってきて見せて納得させた。悔しかったが、それが子どもなのだ。
相手は納得し、「お前はスゴイ」である。知っていて当たり前のことを、知らないやつがスゴイと言って自尊心を維持するのだが、スゴイことでも何でもない。彼とは中~高ずっと一緒だったが、その時の言い合いの感じは大人になっても変わることのない、謙虚さのない知ったかぶりの性格である。人の本質は変わらないという、いい見本として彼が浮かぶ。
すっぱいのに「甘いレモン」を主張する性格は、自分を実際以上に見せようとする他人への対抗意識である。他人の食べるブドウは甘いはずなのに、自分が甘いレモンを主張する以上、他人のブドウもすっぱいと言い張るし、他人の食べるブドウはすっぱいと主張したいのだ。「自分の食べるレモンはすっぱい、他人の食べるブドウは甘い」と、素直に認める人間であるべし。
こういう生き方を「自然」という。朝に夜が訪れ、また朝が来るように、こういう考えにならないと、どんなに努力しても、忍耐しても最初の時点で自分を偽っているから、幸福にはなれない。土台で嘘をつくと、後の努力は無駄に等しくなる。優秀な人を優秀と認め、バカは素直にバカと感じる。どちらもあえて口に出す必要もない。人をバカというのはよくないと無知者はいう。
バカをバカと認識できないで、賢者を賢者と認識できるのか?自分に嘘をつくのはよくない。認識して口にする必要ないし、バカだと見下す必要もない。ただし、バカにはバカとしての対処があればいい。賢い人だからとへりくだる必要もない。尊重磨ればいいだけで、尊重するのとへりくだるのはまったく別である。へりくだることで敬意を表したと見せたいだけだ。
先日記事で、「先生好きの日本人」と書いた。先生と呼ぼうが姓で呼ぼうが、尊敬が変わらぬなら同じことなのに、先生とへりくだる自分を相手に見せたいんだろう。呼ぶのは自由だが、他人に強制まですることもない。表題があるのだから戻る。『侏儒の言葉』にこういう記述アリ。「人生はマッチに似てゐる。重大に扱ふには莫迦々々しい。重大に扱はなければ危険である」
マッチとは時代を感じさせるが、「マッチ一本、火事の元」という標語に信憑性があった時代である。「焼肉焼いても、家焼くな」が現代的かどうかは別にして、芥川はマッチを「正」、「負」の両面から擦って見せている。また、「危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。」の言葉も芥川らしく、坂口安吾にも通じている。常識行動が危険思想とは何事か?と訝る人多し。
が、世にいう常識とは、それが正しかろうが誤っていようが、「常識」で片付ける。こんなに便利で底のない言葉はない。真理でもなければ、ただの便宜である。盲目的に常識に従い、しかも、それを行動に移すことは何と危険であろうことを言いたかったのだろう。常識と言って人を卑下するのは簡単だ。鯉のいる池に墨を落すのは、「常識が欠落している」とこれは違う。
では、そういう事をしない人間は、「常識が備わっているのか?」相手は10歳の子どもだろ?子どもに常識を問う方が飛躍している。いわゆる、「いい子」は常識が備わっているのではなく、何もしないで」いる子のことを言う。何もしないから問題も起こらない。しかし、科学の根幹は、「常識を疑え!」である。常識が人間を縛っているという考えが土台にある。
常識外れのものはとかく面白いものが多い。子どもが金色のリンゴを画いて責める大人は、大人の常識を子どもに求めている。金の卵を産む鶏もいるし、常識が頭にあってはこういう物語は生まれまい。もっともっと大人は子どもを知るべきだし、そのためには高い感受性を持って子どもに接しなければならない。大人の視点が正しくとも、正しいばかりの世の中は殺伐である。
若者は正しいだけを求めてない。ビートルズやエルビスの音楽は、当時の大人にとって正しくなかった。大音量でうるさいエレキは不良であった。確かに近所迷惑の一面はあったろう。長屋住まいの隣娘の弾く琴が下手くそで耳につくが、一生懸命やる姿が微笑ましいと、心をくばせる江戸時代の川柳。「ピアノ殺人」は現代の象徴だが、「琴殺人」はなかったろうな。
『侏儒の言葉』の初出は、大正12年の「文藝春秋」創刊号から自殺の2年前の3年間連載され、出版は遺稿として扱われた。納得させられる言葉の数々…。名言というより真理をついている。人の世を、人間の実態を、覗き穴から覗いてみるように、正直に、辛辣に表現することを課している自分だが、さすれど芥川の文学的表現には到底及ばない。
恋愛…恋愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。少くとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない。
結婚…結婚は性慾を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。
幼児…我我は一体何の為に幼い子供を愛するのか? その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない為である。
親子…古来如何に大勢の親はこう言う言葉を繰り返したであろう。――「わたしは畢竟失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」
自殺…万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。
地獄…人生は地獄よりも地獄的である。
自殺する人間は「なぜ?」であり、本人以外、正確な理由を知ることはできないが、いや、本人には自分の自殺の理由が本当ににわかっているといえるのか?そう考えられなくもないのでは?なぜなら、己がする己の行動を、よくわからぬままに無意識的にすることがある。自殺とて、己の行動である。なのに、自殺した人間に周囲は外野も含めて、理由を知ろうとする。
理由はあるはずと考える。しかし、死ぬ理由という明確なものが本当にあるのだろうか?死ななければならない絶対理由があるのだろうか?と、このように考えたらどうだろう。それでは気持ちが収まらないのか?人は別に死ぬ(ほどの)理由がなくても死ぬんだと…。大層な理由などなくても死ぬんだと…。確かに自殺など考えられない人にとって、死は特別である。
しかし、自殺する人にとって死は特別なことではないのかも知れない。「命を捨てるなんて、なんともったいない」と思うだろう?10年位前だったか、藤圭子(宇多田ヒカルの母)が、現金5000万円を所持しているのが空港当局者にみつかって、差し押さえられたことがあった。5000万円だろうが、1億円だろうが、自分のお金を持ち歩いてなぜ差し押さえられる?
素朴な疑問だが、差し押さえというのは没収であるからして、それがやれるアメリカという国もスゴイ。確かに現金5000万を持ち歩くというのは、アメリカでなくても異様だ。ギャンブルで稼いだのなら小切手にするか、預金してしまってもいいはずである。没収の理由は、「何やら出所の不審な金であった」と考えるのが一番妥当なような気がする。
それで、「麻薬などの売買に使用した可能性がある」として押収されたという。その藤がフジTVでこう激白した。私はこの5年間で世界中(カジノがある場所など)をファーストクラスで移動し、一流ホテルに宿泊していたから5億円くらい使っている。空港で差し押さえられた時は、ベガスのウインホテルから帰ってきたばかりで、またカジノに行くところだった。
「5千万円持っていたからといっても当たり前で、どうと言うことはない」。と、彼女はさらりという。どうしてこの話を持ち出したかと言えば、大金を普通に持ち歩き、5年で5億円使う人もいるということ。何ともったいないと我々は思うが、もったいなくないから使えるのだ。命もそれと一緒で、自殺するなど何ともったいないと思うが、命が惜しくない人にとっては何でもない。
アレコレ自殺の理由を詮索せずとも、数億のお金がもったいなくないように、命がもったいなくない人間もいる。藤圭子は2013年8月22日、東京・新宿のマンションの前で倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。遺書はなく、衣服の乱れや争った形跡がないことなどから、新宿警察署によって飛び降り自殺を図ったと断定された。
彼女は自身の持ち歌、「新宿の女」で余生を終えた。マスコミもいろいろ書き、著名な精神科医もアレコレ分析するが、庶民感覚とは言えない金の遣い方からしても、彼女が庶民感覚とは言えない命の捨て方と思えばどうという事はない。藤圭子以外においても、自殺した人間のことをアレコレ考えるよりも、命が惜しくなかったんだと考える方が妥当だ。
『命預けます』という藤圭子の歌がある。昭和45年の大ヒットだが、「命預けます」とはスゴイ歌詞である。「下駄を預ける」というのは、他人に下履き(靴)を預け、自分はもう自由に動けない。後は預けた人次第で自分は一切口を挟みませんよと…。『命預けます』も、「こんなろくでもないあたしでよいなら、あなたに命預ける」。が、藤圭子には、命を預ける誰かがいなかった。
命預けます
流れ流れて東京は夜の新宿花園で
やっと開いた花一つこんな女でよかったら
命預けます
命預けます
嘘もつきます生きるため酒も飲みます生きるため
すねるつもりはないけれどこんな女でよかったら
命預けます
嘘もつきます生きるため酒も飲みます生きるため
すねるつもりはないけれどこんな女でよかったら
命預けます
命預けます
雨の降る夜は雨になき風の吹く日は風に泣き
いつか涙も枯れはてたこんな女でよかったら
命預けます
雨の降る夜は雨になき風の吹く日は風に泣き
いつか涙も枯れはてたこんな女でよかったら
命預けます