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「或阿呆の自殺」 ②

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人間は誰も自分がまずいことをしていたり、よくないことをしているのが分かっていても、人から否定的に指摘をされると不快になるものだ。約束を守らない人がいる。本人もそうであるのは分っている。そういう人間を約束事に敏感にさせるには、「君は約束を守る人だね」と言った方がいい。相手はそういう間違った解釈の方が、身に染みるもの。

そして相手の期待に本能的に応えようとする。本能に問いかけ、本能を目覚めさせるのが実は自然。意識的に人との約束を守らないよう生きたいと願う人間ならともかく、そういう人間はまずいない。約束を守らない理由が自分の何であるか、そこのところを本人が気づかなければダメだろう。相手を変えようと思うなら、肯定的に問いかけるのが効果的。

素直じゃない人に、「君は素直じゃないんだよ」と言ったところで、素直になるはずがない。子どもも人前で「いい子です、うちの子は…」と言えば、いい子になろうとする。物事を否定的に捉える親のせいで、子どもはその真似をしている。こういう親から影響を受けないよう、早いうちからへりくだらないこと。卑屈な性格にならないで済む。

親は子どもの性格を歪めてしまうので、常に自問自答しながら子どもに接する言葉を注意すべきである。誰でも簡単に親になれるが、よい親になるのは難しい。"よい親"の種類もいろいろあるが、子どもに何かを与えるというより、子どもを傷つけない親、心を歪めない親なら、それで充分及第点である。それくらい親は子を心を傷つけている。

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龍之介の生母フクは彼が生まれて7ヵ月して発狂したため、母の実家である芥川家に預けられた。龍之介の実父新原敏三は、牛乳の製造販売で成功したが、喧嘩早く気性の荒い男で、フクは夫とは真逆の極端に小心で内気な女だったという。母の一族には、他に精神異常者は出ていず、フク発狂の遠因は粗暴な夫との関係にあったかもしれない。

発狂後10年間狂人として生き続けたフクだが、煙管で叩かれたことから、「母に親しみを感じたこともない」というのも無理からぬこと。しかし、こんな言葉も残している。「あなた方のお母さんを慈しみ愛しなさい。でもその母への愛ゆえに、自分の意志を曲げてはいけない。そうすることが後に、あなた方のお母さんを幸せにすることなのだから。」

これは龍之介の遺書の中にある、「わが子等に」とした八項目の一つで、原文は「汝等の母を憐憫せよ。然れどもその憐憫の為に汝等の意志を抂ぐべからず。是亦却つて汝等をして後年汝等の母を幸福ならしむべし」となる。龍之介には我々世代にも馴染みのある三人の息子がいた。長男の比呂志、次男の多加志、三男の也寸志である。

比呂志は俳優であり演出家であり、数本の映画、テレビドラマに役が残っている。劇団「四季」の名付け親でもある。三男の也寸志は、作曲家で指揮者。父の遺品であるSPレコードを愛聴し、とりわけストラヴィンスキーに傾倒した。NHKの「N響アワー」ではメイン司会として、なかにし礼、木村尚三郎らとの会話が懐かしく思い出される。



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次男の多加志は、父親譲りの文才を最も嘱望されていたが、学徒出陣により22歳の若さにてビルマ戦線にて戦死した。2007年、彼の生前の同人誌が『星座になった人 芥川龍之介次男・多加志の青春』(新潮社)と題されて出版された。著者の天満ふさこ氏は、2008年に母校の広島女学院大学にて講演を行い、貴重な多加志の同人誌原本も展示された。

三人の息子のの実母となる文は龍之介の8歳年下であり、文と龍之介の馴れ初めは、龍之介の中学時代の親友に山本喜誉司という男を介してである。龍之介は山本家によく遊びに出かけた。その山本家には、他に一組の家族が住んでいた。海軍将校に嫁いだ喜誉司の姉が、夫に戦死されたため娘を連れて実家の山本家に戻ってきていたのである。

この海軍軍人の遺児が、龍之介の妻となる塚本文である。龍之介が山本家に遊びに出かけていた当時の文は、まだ小学生で龍之介は未来の妻を子供の頃から見知っていたことになる。少女に惹かれていた龍之介は大学を卒業する24才の時、彼は山本喜誉司宛てに以下の手紙を出している。龍之介らしい言外に計算を秘めた手紙である。

「僕のうちでは時々文さんの噂が出る。僕が貰うと丁度いいというのである。僕は全然とり合わない。何時でもいい加減な冗談にしてしまう。始めはほんとうにとり合わないでいられた。今はそうではない。其の予感というのは文さんを貰うことは不可能だという予感である。第一文子さんが不承知それから君の姉さん(文の母)が不承知、それから君が不承知、それから色んな人が皆不承知という予感である。

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僕は文さんの話が出ると冗談にしてしまう。此の後もそうするだろう。そして僕のうちの者が君の所へ何とか言ってゆくのを出来る限り阻止するだろう。或はその後は思いもよらない所から思いもよらない豚のような女を貰って、一生をカリカチュアにして哂ってしまうかもしれない。僕はさびしい。しかし僕は立っている者の歩まなくてはならないのを知っている。(中略)だから僕は歩む。歩んでそして死ぬ。僕はさびしい。

この話は成立しないだろうとの彼の予感は、精神病者の実母を意識してのことだったかもしれない。であるけれども、この手紙の効果はあったらしく、芥川家の希望は山本家と文に伝えられ、龍之介は直接文と交渉できるようになった。この年の8月に龍之介は、はじめて文子に手紙を出している。当時、文子は16才で、まだ女学生の身だった。

「文ちゃんを貰いたいと言うことを、僕が兄さんに話してから、何年になるでしょう。(こんな事を文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません。)貰いたい理由は、たった一つあるきりです。そうして、その理由は僕は、文ちゃんが好きだと言うことです。(中略)僕には、文ちゃん自身の口から、かざり気のない返事を聞きたいと思っています。繰り返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです。それだけでよければ、来て下さい。」

二人は結婚した。そうして3人の男の子の父親になった龍之介には、妻である文ちゃんとは別に4人の女がいた。謎の「月光の女」はともかく、「狂人の娘」秀しげ子。龍之介は文子と結婚した翌年の大正8年、「十日会」という作家の集まりでしげ子と顔を合わせている。秀しげ子は、高利貸しの父と芸者上がりの母に生まれ、劇場の電気技師の妻であった。

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歌人という看板を掛けているものの、実態は作家のあとを追い回す狂信的ファンであって、龍之介は当初、愁いを帯びたしげ子に惹かれ、彼女を「愁人」と呼んでいる。同時期龍之介は、「月光の女」とも交渉を開始する。「月光の女」は、何時会っても月の光の下にあるような感じというからに、龍之介好みの憂いを帯びた静かな女だったようである。

愁いを帯びた高雅な歌人だと思っていた秀しげ子は、実はとんでもない女だった。龍之介は秀しげ子と知り合った翌年に、一度だけ性交渉を持ったが、龍之介は彼女が弟子格にあたる南部修太郎や、友人の宇野浩二とも関係していることを知る。この厚顔無恥なヤリマン女が、龍之介との一度だけの関係で妊娠したと主張し始めた。さあ、大変だ!

イメージ 8龍之介が恐れていたのは、秀しげ子の夫から姦通罪での告訴であった。名の売れた作家や詩人に近づいてくる人妻は多く、彼女らと深い関係になって、窮地に追い込まれる文学者は後を絶たなかった。北原白秋は姦通罪で告訴されて入獄し、当時、龍之介と人気を二分していた有島武郎は、女性の夫から脅迫されて軽井沢の別荘で女と心中した。

龍之介曰く、秀しげ子は「狂人の娘」である。秀しげ子でほとほと懲り果てたのか、龍之介は女性からの誘惑には簡単に乗らないようになっていた。青根温泉に避暑に出かけたときに、彼はお藤という文学少女につきまとわれたが、「芥川龍之介窮したりといえども、まだ、お藤さんの誘惑にはのらんよ」と言って斥けたという実見談もある。

龍之介が「越し人」と呼んだ松村みね子は、歌人であり、アイルランド文学の翻訳者である。みね子は、龍之介が海軍機関学校の教官時代にファンレターをもらって知り合い、龍之介が病院に入院したときには見舞いに訪れたりしている。みね子と軽井沢で再会した彼は、彼女を自分と才力の上で格闘できる女として愛情を感じたが、人妻ゆえに深入りを避けた。

「青酸カリの女」は、龍之介の妻文の親友平松麻素子である。彼女は、「死にたがっていらっしゃるのですってね」と言って龍之介に近づいてきて、龍之介と心中の約束をするようになる。この約束は果たされずに終わったけれども、彼女は所持していた青酸カリの瓶を龍之介に渡し、「これさえあればお互いに力強いでしょう」と告げている。

1イメージ 9927年(昭和2年)7月24日、田端の自室で雨の降りしきる中、芥川龍之介は服毒自殺をし、社会に衝撃を与えた。そんな芥川最後の年は、慌ただしく幕を開ける。1月4日、龍之介の姉ヒサの家でボヤ騒ぎがあり、ヒサの夫西川豊は火災保険を狙った放火の嫌疑をかけられ、6日に鉄道自殺する。事件の処理に追われた龍之介には、8人もの扶養家族がいた。妻と3人の子供、養父母にフキ、ヒサの前夫の子。そこに西川の遺族が加わり、12人に膨れ上がる。

また、西川が抱えていた高利の借金が重くのしかかり、自らの病気どころではない龍之介は、猛烈な勢いで筆を走らせた。「僕は多忙中ムヤミに書いている。婦人公論12枚、改造60枚、文藝春秋3枚、演劇新潮5枚、我ながら窮すれば通ずと思っている。(知人への手紙)

4月、「文芸的な、余りに文芸的な」で谷崎潤一郎と文壇史に残る論争を繰り広げている。「小説は物語の面白さ」を主張する谷崎に対し、「物語の面白さ」が小説の質を決めるものではないと反論する芥川は、「話らしい話の無い」純粋な小説の名手として志賀直哉を称揚した。龍之介は死の前年、静養のため養父母の家を離れ、妻子を伴って鵠沼に移り住む。

「狂人の娘」しげ子は、妻子と静養中の龍之介を突然見舞いに来ることさえあった。「私の子、あなたに似ていない?」。彼女の言葉は龍之介の胸を引き裂き、滅びへの道を促進させたのか。遺稿『歯車』には悲痛な告白をする。「僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた1人に違いなかった」。「僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた」。

芥川龍之介がなぜ自殺を選んだかの理由については諸説あるが、芥川と親しかった小穴隆一は、「狂人の娘」が原因だろうと推測し、菊池寛は、「経済的な問題が原因では?」と、いかにも実業家である。さまざまな心労から大量の睡眠薬を服用しなければ眠れなくなり、その結果、持病の痔や胃病を悪化させ、生きる気力・体力をなくしてしまった。

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・死にたがっているよりも生きることに飽きているのです。

・彼は彼の一生を思い、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった。(或阿呆の一生)

・僕の意識しているのは僕の魂の一部分だけだ。僕の意識していない部分は、――僕の魂のアフリカはどこまでも茫々と広がっている。僕はそれを恐れているのだ。光の中には怪物は棲まない。しかし無辺の闇の中には何かがまだ眠っている。(闇中問答)

・僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?(歯車)

龍之介は気力と睡眠薬とで、辛うじて生を保っているに過ぎなかった。そして最後の力を振り絞って遺稿『歯車』を書き上げる。上記の言葉を残し、芥川龍之介は36年の生涯を閉じた。自殺直前の芥川について記した吉田精一著『芥川龍之介』によると、「その夜(昭和2年7月23日)、伯母の考へでは午後10時年頃、彼は伯母の枕許に来た。

「煙草をとりに来た」と云って。そして24日、伯母によれば午前1時か1時半頃、彼は又伯母の枕もとに来て一枚の短冊を渡していった。「伯母さんこれを明日のあ朝下島さんに渡して下さい。先生が来た時、僕がまだ寝てゐるかも知れないが、寝てゐる僕を起こさずに置いて、そのまままだ寝てゐるからと云って渡して下さい」。これが彼の最後の言葉となった。

龍之介の死後、文はこのように述べている。「私がもう少し現代的で、明朗に振るまっていましたならば、主人も楽しいことがあったのかも知れません。私たちの結婚生活は、わずか十年の短いものでしたが、その間私は、芥川を全く信頼してすごすことが出来ました。その信頼の念が、芥川の亡きのちの月日を生きる私の支えになったのです。」

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夫に女のいる事を夫人は気づいていただろう。他所に子供がいる、と言われたらと不安になった事もあったし、鵠沼の借家から一人で田端の家に帰った時、緊張の糸が切れて泣き出した事もあった。芥川は晩年に一度だけ夫人と赤ん坊の三男の三人で湯河原まで一泊旅行をした。心身共に疲れきった芥川は、帰りの電車でシートに横になり寝てしまう。

そんな龍之介に文は思い切って願い事を言ってみた。「奈良に連れて行って下さい」。芥川は少し間を置いて「贅沢言うな」と言った。夫人の無理な注文は、旅行の予定でも立てれば、少なくとも夫がその日までは生きる張りになってくれるのではないかと言う願いだったのだ。結婚前は、気恥ずかしいほど甘い恋文を彼女に送った龍之介である。

結婚後も若い文ちゃんに、もっと優しく出来なかったものか…。男女のことは他人に推し量れないが、人生は、この傷つきやすい作家には重荷だったのか。死の前日、芥川は近所に住む室生犀星を訪ねたが、犀星は雑誌の取材のため出かけて留守であった。犀星は「もし私が外出しなかったら芥川君の話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と、悔やんだ。

龍之介の死から8年、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設けた。芥川賞は日本で最も有名な文学賞として現在まで続いている。

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