昨日も記事を書きながら小津安二郎の『一人息子』が頭を過ぎる。冒頭の言葉は芥川龍之介の『侏儒の言葉』から引用された。『侏儒の言葉』は芥川龍之介の箴言集であるが、「『侏儒の言葉』は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。」
という「侏儒の言葉の序」に始まり、「眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。(昭和改元の第二日)」という「或夜の感想」で終わる。「侏儒(しゅじゅ)」とは、①背丈が並み外れて低い人。こびと。②見識のない人を嘲っていう語。③俳優の異称。などの意がある。読んでみるといわゆる芥川らしい言葉満載であり、つい引き込まれて行く。
芥川は早い時期から、「論理の核としての思想のきらめく稜線だけを取り出してみせる」という技法に傾倒していた。と、コレは芥川自身の説明にある。芥川の箴言を読むに、坂口安吾が芥川の影響を受けているのがよくわかる。事実安吾は早くから芥川、谷崎潤一郎などを読み、アラン・ポー、ボードレール、チェーホフなどにも影響を受け、啄木や白秋の詩歌も愛読した。
安吾の「反抗的な落伍者」に対する強い畏敬の念は、これらから養われたのであろう。そういう自分も、影響を受けたか否かはさて、芥川の『地獄変』は体がぶるぶる震えた記憶がある。芥川の流れから発されている安吾の言葉は長く自身の体に刻まれている。芥川の自殺の真相は、「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安である」という有名な遺書の一節を読みとるしかない。
この言葉は芥川自身の彼の自殺の心理解明の糸口を与えてくれている。龍之介の実母は彼が11歳の時に他界しているが、煙管(キセル)で頭を叩かれたことなどから、「僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない」と述懐している。1898年(明治31年)、江東尋常小学校入学。府立第三中学校を卒業の際「多年成績優等者」の賞状を受け、第一高等学校第一部乙類に入学。
1910年(明治43年)に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、龍之介はその選に入る。頭のよい少年で成績優秀につき無試験で、第一高等学校第一部乙類に入学を許された。1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学。同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。23歳の夏、青山女学院を卒業した才色兼備の吉田弥生と交際をする。
このまま行けば結婚という段取りであったが、弥生に別の男性から縁談が舞い込む。龍之介はその時、どれだけ深く彼女を愛しているか気づく。弥生に求婚したい意思を養父母とフキ(実母の姉)に告げた途端、激しい反対にあう。相手の女性が「士族」でないことや、私生児だったこと、また、婚約者がいるのにプロポーズする龍之介の一途さなどが反対の原因であった。
龍之介の気持ちを汲んだフキは夜通し泣き、龍之介も泣き明かした。実母フクの姉フキは生涯独身を通し、龍之介を我が子のように面倒を見た。この恋は、龍之介があきらめる形で収束する。旧家の士族芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕え雑用、茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家系である。身分の違いが婚姻を許されない苦悩を龍之介は友人にこう打ち明けている。
・私は随分苦しい目にあって来ました。又現にあいつつあります。如何に血族の関係が稀薄なものであるか……如何に相互の理解が不可能であるか。
・イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない。周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。
失恋の悲しみを紛らせんと、龍之介は遊郭に足を踏み入れるが、官能は悲哀を消滅させられなかった。失恋直後に書いた『仙人』に次の一節がある。「何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか。」この問いは、終生、龍之介を縛るものだった。そんな矢先、芥川の人生を大きく変えたのは、文豪・夏目漱石との出会いであった。
漱石が弟子と面会する「木曜会」に参加するチャンスを得た龍之介は、漱石の学識と人格の虜になる。芥川は仲間と雑誌『新思潮』を刊行する。創刊号で漱石の注目を引いたのは、芥川の『鼻』である。漱石は弟子の芥川に、期待と愛情を込めた手紙を書くが、最大級の讃辞の羅列であった。漱石から望外の激賞を受けた芥川は、文壇デビューを大学卒業間近の25歳で果たす。
失恋の痛手を文人である漱石に癒され、開眼させられた。ところが…。出ようとする杭は打たれるのか、「中央公論」掲載の『手巾』は、的外れな批判にさらされた。「何を書こうとしたのか雑然として分かってこない」、「どこが面白いのか」など、好みに合わぬとばかりの恣意的な批評に、若き龍之介は傷つき動揺したが、反論はせず創作に集中する。卒業後、芥川は海軍機関学校の英語教授となる。漱石の悲報にふれるも27歳になった龍之介は、月給と原稿料で生活の見通しがつき、8歳年下の塚本文と結婚する。結婚前、頻繁に出された手紙には、「この頃ボクは文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛いい気がします(略)何よりも早くいっしょになって仲よく暮らしましょう。」などの記述がある。
しかし結婚生活は、思いのほか煩わしいものだった。「新婚当時の癖に生活より芸術の方がどの位つよく僕をグラスプ(心をつかむ)するかわからない」、と親友に宛てている。当時の芥川は、社交的で軽率な青年だった。新人作家の集まりで、既婚者の秀しげ子と出会う。初対面でなれなれしく話しかけ、翌日には人の心をそそる手紙を出し、自著も同封した(当時の雑誌記事)。
しげ子は当時、女性の少なかった文壇において、華やかな存在であった。そんなしげ子の魅力に芥川は一時期、翻弄され密会を重ねたが、しげ子は次第に女の本性を露わにし、龍之介にまとわりつくようになる。自宅まで押しかけることもしばしばあったという。創作の苦しみに加え、女性問題が龍之介を悩ませていた矢先、長男の誕生がさらに龍之介に追い討ちをかける。
当時、芥川家に同居していた養父母とフキの3人は、龍之介の孫を溺愛するばかりか、龍之介夫婦の子育てにも過剰に干渉した。世代の差から来る養育方針の違いはいかんともし難く、家庭の中における人間関係に疲弊した龍之介は、自伝的小説『或阿呆の一生』で、長男出生を次のように書いた。「何の為にこいつも生れてきたのだろう?この娑婆苦の充ち満ちた世界へ」。
28歳の時に毎日新聞の社員になった龍之介は、筆一本の生活に入っていたが、作品はマンネリ化し、長編小説への意欲も空回りしていた。1921年、30歳の時、海外視察員で中国に赴くが、帰国後は健康がすぐれず、腸カタルの下痢はひどく、神経衰弱も発症した。以後、これらの持病と格闘する。34歳の冬、龍之介が当時の作家の代表作を集めた、『近代日本文芸読本』が刊行される。
100人以上の作家に自ら手紙を書き、収録の承諾を得るのは、並大抵の作業ではない。2年にわたる努力の結晶であったが、仕事の性質上労力の割に収入は少ないものだった。にもかかわらず、「芥川は1人だけ儲けて、書斎を新築した」というデマが文壇に流れる。「われわれ貧乏作家の作品をかき集めて儲けるとはけしからん奴だ」という声が沸き起こった。
菊池寛は、この件について次のように証言している。「かうした妄説を芥川が、いかに気にしたか。芥川としては、やり切れない噂に達ひなかった。芥川は、堪らなかったと見え、「今後あの本の印税は全部文芸家協会に寄附するやうにしたい」と、私に云った。私は、そんなことを気にすることはない。文芸家協会に寄附などすれば却って、問題を大きくするやうなものだ。
そんなことは、全然無視するがいい。本ほ売れてゐないのだし、君としてあんな労力を払ってゐるのだもの、グズグズ云ふ奴には云はして置けばいゝと、私は口がすくなるほど、彼に云った」。1人でも多くの作家を掲載せんと苦心したにも関わらず、評価されるどころか当の作家たちから悪評を立てられた。善意が仇、というのは世情の常というが、龍之介は深く傷つく。
菊池寛に反対された龍之介は、「それなら今後入ってくる印税は関係作家全員に分配する」と言いだした。が、教科書類似の読本には、作品を無断で収録して印税も払わないのが当時の慣習であり、この案にも菊池は反対した。「彼はやっぱり最後に、三越の十円切手か何かを、各作家の許に洩れなく送ったらしい。私は、こんなにまで、こんなことを気にする芥川が悲しかった。
だが、彼の潔癖性は、こうせずにはいられなかったのだ」。菊池寛は、こう書いて芥川のことを悲しんでいるのだが、「こうせずにはいられなかった」のは彼の潔癖性のためだけだったとは思われない。彼は生活のため、身を守るためには、最後まで小心翼々と生きた。彼が「皆によく思われたい」と願ったのは、虚栄のためというよりは、矢張り生活のためだった。
こうした自分自身を、龍之介は「生活的宦官」と呼んで自嘲しているけれども、自嘲しながら彼はなお顧みて他を言うような発言を繰り返すのだ。と、小説家で文芸評論家の広津和郎は、彼の明敏な目でその辺を指摘する。この一件で神経衰弱が進み、睡眠薬の愛用を始めた龍之介は、薬の虜に突き進んで行く。知人宛ての書簡には以下ものように綴られている。
「オピアム(アヘン)を毎日服用致し居り、更に便秘すれば下剤をも用い居り、なお又その為に痔が起れば座薬を用い居ります。中々楽ではありません」と、記している。文子と結婚前には、「何よりも早く一緒になって仲良くくらしましょう。そうしてそれを楽しみに力強く生きましょう」と書き送っていた龍之介だったが、実際結婚してみると失望することの方が多かった。
(女人から芸術的刺激を得たい…)と、願っていた彼の願望に文子が応え得なかっことも不満の原因だった。結婚前、龍之介のところには文学少女や自称女流作家が頻繁に訪れたが、彼はこういう女たちを嫌悪し、文子がそれらとは全く逆な女であることを喜んでいたにもかかわらず、実際に文子と暮らすようになってみると、芸術を理解しない妻に不満を感じ始めたのだ。
ない物ねだりしたあげくに、ない物に不満を抱くなど、我が侭という以外の何もない。以後、龍之介は文子とは違った芸術を解する、中身の濃い女を求めるようになる。そして「狂人の娘」と彼が呼ぶ秀しげ子と出会うことになる。「或阿呆の一生」は、龍之介が本格的な自叙伝を書こうとして果たせず、とりあえず短い断章を寄せ集めて自伝に代えたものである。
その中には、「月光の女」、「狂人の娘」、「越し人」、「青酸カリの女」と称する妻以外の4人の女性が登場する。龍之介は女の名前を記していず、便宜上彼女らを上の俗称で呼ぶ。「月光の女」は7年間も肉体関係を持ち、龍之介の最愛の女だったようだ。にもかかわらず、相手の素性や人柄については全く触れず、ホテルの階段で偶然出会ったのが始まりと述べている。
「月光の女」とは誰なのか?芥川亡き後、友人の文士たちや研究者が色々議論を交わしたが、結局個人を特定は出来なかった。「月光の女」以外は素性が知れている。秀しげ子を現す「狂人の娘」などは踏み込んだ説明をしている。「越し人」と呼んだ松村みね子は、歌人として又アイルランド文学の翻訳者。「青酸カリの女」は、龍之介の妻文子の親友で秘書の平松麻素子。
して、「月光の女」だけは謎である。分らないなら知りたく思うのも人情というもの。「月光の女が」登場するセンテンスの幾つかは、秀しげ子のことで、幾つかは彼が昵懇にしていた芸者ではないかとも推測されている。七年の歳月を共に過ごしているとなると、文子夫人と結婚した三年後あたりから、この女性と深い仲になり、死の直前まで続いていたことになる。
女の印象や想い出は男にとってかけがえのないものだ。克明に覚えている女、さほどの女、覚えてすらいない女、それは付き合いの長短ではないし、説明できない要素をあえて言にするなら「個性」ということか。同じ「個性」といっても好みが左右し、好みでない女はよくないことを憶えている。反面、好みに添う女は、心に残る言葉の一つに至るまで憶えている。
誰でもそういう傾向はあるだろう。好きな歌については歌詞も記憶と言うより、体の一部になって忘れない。あの日、あの時の、女の言葉は異性であればキラリと輝くし、同性であれば背中を押すものであったり、力づけられたり、勇気の温床であったり…。それらが自分という個体を形づくっているのだろう。人間関係は「意味」のあるものでなければならない。
意味のない人間関係は、自分になにものも寄与しない。人は基本的に何かから影響を受けたいものではないか?変わりたい、自己変革をしたいと望んでいるのではないか?自分自身がそう思うからこそ、相手も変えようという意思が働く。つまり、相手を変えようと思う人間は、「その方が相手のためにもなる」と思っているのだろう。だから、人に面倒臭がることはない。
逆に、面倒くさい人間に対しては言葉少なに、あるいは社交辞令的になる。こちらから本音で接しようなどの気が起こらない。とはいっても、人を変えようなどはなかなか簡単ではないし、そもそも、「変えよう」などの気持ちで接するべきではない。人に何かを与えるためには、与えようとすることを気づかれないようにすべきだ。でなければ、相手は構えてしまう。
子どもに何かを与えようと思う親や教師は、呼びつけて何事が説教を垂れるのではなく、同じ輪の中に入って、一緒に遊びながら、気づかれないように相手に何かを与えていく、という教師や親が教育者と言えるかも知れない。「教育者」という言葉は好きではないから、「感染力のある人間」という言葉を頭に描いている。つまり、インフルエンザウィルスのような…
ときに、A型、ときにC型、ときにH(エッチ)型、I(愛)型…、さまざまに感染させていく。基本的に変わりたいと欲する人間は向上心が強いが、一般的に人は人から言われて変わるのが嫌だの仕草を見せる。自分は変わりたいのに、露骨に言われると反発する。だから、自然に、さりげなくがいい。一方的に相手を変えようなどすると、失敗するし、上手く行くはずもなし。