『なぜ日本の大学生は、世界でいちばん勉強しないのか?』という本がある。興味はないから著者にも興味がないが、名前とプロフィールが記されているので書いておく。著者は辻太一朗というNPO法人「大学教育と就職活動のねじれを直し、大学生の就業力を向上させる会」代表である。最近のNPO法人にやたら長ったらしい名が目立つが、それはつける人の自由。
こういう本を著して誰が買うのだろう?まさか、大学生が、「これを読めば勉強するようになれるかな?」の思いで買うとは思えない。もし、大学生が買うとするなら、これを読んで自分が勉強しない自己正当化にするなら分かる。自己正当化でどうなるものでもないが、人間は弱いから仲間がいれば安心と言うことはあろうが、1575円もするからまず買わない。
日本の大学生がなぜ勉強しないかは簡単だろ?①勉強したくない奴が行く、②みんなが行くから行く、③学歴が欲しいから行く、④勉強しなくても卒業できるようになっている、⑤就職に利があるから、とまあ、素人考えだが、当たってないとも言えないだろ。これだけみても、大学に勉強しに行く動機でないのは分かるだろうし、これが日本の状況である。
だから、世界でいちばん勉強しない大学生なんだろう。企業はいい成績の生徒を取りたいのだろう(それが即ち勤勉という見方ができる)が、実は企業はそのようにはみていない。つまり、学生の質がすこぶる落ちている状況では、「質」の目安となる成績への信頼度が失われているからだ。学生たちも企業において成績の信頼度が薄らいでいるのを知っている。
そんな現状で企業はどのようにして学生の質を探り、選考しているのかといえば、成績は信頼できないとなると、応募者を多数募り、各社が独自の選考基準を設けるしかない。面接重視というが、面接に割ける力は限られている。よって早くから募集をかけて、エントリーシートや筆記試験で選考する。質が悪いなら少しでも質のよい学生を採りたい努力である。
1960年に8.2%だった大学進学率は、2005年に50%を超えた。バカでもチョンでも大学へ行く時代なら、学力はおろか、実業に必要なコミュニケーション能力、論理的思考力、問題解決力などの汎用的能力さえママならぬバカが大学生だから、企業も必死にならざるを得ない。知識といえばやたら詰め込むだけの知識が何の役に立つという考えもなくそれが勉強という実態。
知識を応用していかに正しくものを判断できるか、そういう「考える力」を育成し、身につけさせ、はたまたそれを厳正に評価できる授業がなされないようでは、日本の将来はないだろう。少子化になっても大学の数は減らせない、ならば大学は授業内容よりも、生徒を入れやすくするなど、経営面のことばかりが先行する。これはもはや大学教育の末期症状か。
いい学生が育たない環境ばかりが「負のスパイラル」としてどんどん広がっていく。こういう問題をどう解決する?どこが解決を担うべき?やはり、国家事業ではないだろうか。かつてアグネス・チャンという歌手がいた。今も存命だが歌手ではない。なかなかしっかりした考えと理念を持ち、有名な「アグネス論争」という言葉も生んだ。国籍は中国人である。
その彼女がこういう発言をしている。「日本の大学生が勉強をしないのは、大学の先生がそれを許しているからだと私は思います。私の経験上、アメリカやカナダの大学の先生は非常に厳しいです。講義に出席するのは当然のこと。たくさんの課題が出されるので、学生は予習・復習に多くの時間を費やさないと講義についていけず単位を取ることはできません。
その上、最低取得単位数のラインが厳しいため、勉強のモチベーションは否応無しに高まります。たとえばスタンフォード大学は、1学期に履修すべき単位数をクリアできなければ1年間停学、つまり大学に来てはいけないというルールがありました。私が日本の大学で教える時は、授業態度や出席数については厳格に指導しています。なぜなら私が大学からいただいている報酬は学費が元です。
アグネスは1955年イギリス領香港生まれ。72年来日、「ひなげしの花」で歌手デビュー。上智大学国際学部を経て、78年カナダ・トロント大学(社会児童心理学科)を卒業。92年米国・スタンフォード大学教育学部博士課程修了、教育学博士号(Ph.D.)取得。目白大学客員教授を務め、子育て、教育に関する講演も多数。現在の職業はエッセイスト。
「教育の基本は家庭にある」という信念のもと、教育改革、親子の意識改革について積極的に言及している。98年より日本ユニセフ協会大使としても活躍している。2009年4月1日、すべての人に開かれたインターネット動画番組「アグネス大学」開校。ということは学長さんである。大学生が勉強をしないのは、大学の先生がそれを許しているからという主張は正しい。
小・中・高教員のように教員免許を持つ教師を教育のプロというなら、大学教授や講師は研究者であるし、教えるスキルなんか身につけてない。今後は学生の質を上げるなら、指導方法を身につけるのも大事となろう。こんにちのような質の低下した学生が多い時代に教える技術の卓越した教師は、益々必要といわざるを得ない。質の低下とは、勉強の嫌いな大学生である。
学問をする大学に、なぜ勉強の嫌いな人間が行くのか?が、そもそも日本と言う国の不思議さであるが、誰も不思議と思わないところに日本と言う国の病理がある。親が子どもにレールを敷こうとするのが顕著な国。つまり、学歴社会の国である。コレがある限り、子どもは自由にならないし、夢を持つこともできない。「将来は大学に行くこと」が夢であるなら誰も責められない。
子どものころから先生や親から与えられたことを、その枠の範囲の中で憶え、反応し、さらにはそれらを要領よくこなす子どもが勝っている世界なのだ。こんなことを幼稚園に入る前からやり続けると、20代の前半など、大学に入って個性的な発展が望まれるときに、もはや何も出来ない人間になっている。コレが早期教育の弊害である。子どもが小4の時に中学受験を考えた。
自分は子どもを妄信的に塾に押し込んで、金銭的なバックアップをする代わりに塾に詰め込み教育を依頼するというのは教育と思っていない。自分で書店に行って中学受験の問題集を買って、自分でいろいろ眺めてみたのだが、ページを開くにつけてだんだん腹が立ってきた。例えば漢字にしろ、植木算にしろ、鶴亀算にしろ、何で今の時期にこんなことをさせる必要がある?
それが腹が立った原因だった。ところが、それをやらない限り難関中学には入れないというなら、難関中学はそういう問題がさっとできる子を望んでいることになる。私立中学がそれを求めているなら、そういう問題が解けるような訓練が必要で、それを受け持つのが塾である。この、当たり前と言う図式に疑問を持つ親はいないだろうが、自分は「くだらん」と思ったのだ。
いわゆる「早期教育」とはコレを言うのである。多少難しい表現となるがが、論理的・具体的にいうと、早期教育とは、胎児から小学校以前に行なわれる胎教を含む教育で、"出来るだけ早い時期から開始する"という志向性を持ち、知的な教育、主にIQを高めることを目的とし、働きかけに対する子どもの期待される反応を、強く期待して行われる教育といっていいだろう。
ただし、幼稚園や保育園や、いわゆるところのお稽古事やスポーツ教室は、学習的な早期教育の定義から外す(ピアノやバイオリンも早期教育というが…)。「早期教育」には様々な種類があり、日本で早期教育と言うと、主に「超早期教育」と「幼児=就学前教育」を指すのが一般的。「幼児教育」とは辞書的にいうと、文字どおり幼児を対象とする教育一般のことをいう。
具体的に、「満1歳から学齢に達し、小学校に就学するまでの幼児に対して行なわれる教育」のことで、広義には、幼児に対する家庭教育や、児童館などで行なわれる幼児を対象とする社会教育も含まれ、狭義には、保育園や幼稚園など幼児を教育することを目的として設立されている教育機関で行なわれる教育を指す。が、コレはあくまで制度的なものでしかない。
幼稚園や保育園で行われる幼児教育は、制度的教育の典型であり、定義としていうなら、それでは充分ではなく、人間性の発達(情操教育)の本性に根ざす広く深い基盤を持つもの全てを幼児教育と言うべきである。ピアノやバイオリン、絵画教室などのお稽古ごとは、情操教育の典型とされた。そもそも情操教育を簡単にいうと、「美しいものを、美しいと感じる心」であろう。
したがって、情操教育の対象は美しいもの奏でたり、見たり、画いたりであるべきだが、子どもを情操豊かな人間にするという目的が、熾烈な競争社会の中でだんだんと薄れていっているこんにちである。他人がどうでも、親がどういう子どもに育てたいかは親の価値観であるが、学歴社会が現実のものとして存在すれば、猿回しの猿に必死に芸を覚えさせたいのかも。
固定観念を捨てきれない親を持ったことで、子どもが自由を奪われていくようだが、親の価値観に添って生きて果たしてそれが子どもの人生か疑問である。小学~中学頃の自分は毎日飛んだり跳ねたり、高校はバンドを組んで楽しくて仕方がなかった。どんな子どももやがて現実が見えてくると何かに発奮するが、今の子どもは幼少期から親に現実を押し付けられている。
日本人妻を娶り、日本に永住を決めたあるドイツ人が、子どもに夢を持たせることの大切さを学校のPTAで主張したところ、「日本では、そんな夢多き子とか、そんな個性的な子だと、間違いなく逸脱者になりますよ!」と言われたという。逸脱者でいいのではないか?子どもが夢をなくし、現実の競争の中で勝ち進み、エリートという職についたとしてもだ…
味気もない、面白みもない、乾いた人間になるよりはずっとましだが、どうして親はそういう人間よりも、エリートに憧れるのだろう?おそらく、それが子どもにとっての最高の幸せという固定観念を捨てきれないのだろう。どんな子も根源的には、自分らしい生き方を望んでいるはずだろうし、自分しか出来ないこと、自分がやりたいことがなにかを探っているはずだ。
レールに乗せたい親の気持ちは分らなくもないが、それは本当に子どもの幸せを望むというより、周囲への対抗心や見栄である場合も多い。エリート階層にならなくても幸せは山ほど感じれるはずなのに、無理をし、無理をさせて、子どもの心を歪ませて行く親をみていると、小津安二郎の映画『一人息子』の「親子になったときから、悲劇が始まっている」の言葉が浮かぶ。
いくらいってみたところで憧れが強く、妬みも強い親には、ルソーのいう子どもの自由さ、自然さは分るまい。子どもが自然に健康的に振舞い、生きていくことを反対する親が、子どもの子ども時代を奪った責任を取れるのだろうか?生物学者で1987年にノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進マサチューセッツ工科大学教授の父親は、息子に勉学に金を惜しまなかったという。
塾のない時代に家庭教師をつけて勉学に励まさせた。利根川博士は、「自分がノーベル賞を取れたのは父が学問に対する金銭供与のお陰」との言葉を添えた。凄い父が凄い子を育てたように見えるが、いくら金をかけてもダメな子はダメだから、博士自身は学問向きの頭を持っていたようだ。利根川博士はいい父親に恵まれたが、利根川博士自身は、悲劇の親になってしまう。
事件は2011年10月26日に発覚した。「米マサチューセッツ工科大学(MIT)は26日、ノーベル医学・生理学賞を受賞した利根川進MIT教授(72)の息子で、MIT1年生の利根川智さん(18)がキャンパス敷地内の寮の自室で死亡しているのが見つかったと発表した。地元警察によると、「事件性はない」とし、引き続き死因などを調べている。
MIT大学新聞によると、智さんは1週間ほど姿が見えず、部屋周辺で異臭がしたため、大学警察が25日の午後5時ごろ部屋に入って遺体を見つけたようだ。ピアノが得意で、入賞歴もあるという彼は、今秋MITに入学したばかりだった。」公表されないがおそらく首を吊っての自殺か。利根川氏は日経の『私の履歴書』で、次男である智さんについて以下のように語っている。
「智はずば抜けて才能に恵まれた、ミステリアスなところのある子供でした。何をやっても見事にすんなり、すばらしくよくできてしまう。物理、数学、歴史をはじめとする学業一切はもちろん、チェロとピアノを演奏しましたが、ピアノのコンペティションで勝ってカーネギーホールで演奏するほど、音楽の才能にも恵まれていました。いつ見てもクールで余裕がある。
これほどすごい才能を持った子供は将来どうなるのだろうと、本当に楽しみにしていました。智は小さい頃からサイエンティストになると決めていて、3人の子供の中で唯一、私の知っている世界を目指していました。科学を志していた智は、残念ながらMIT一年生の時、誰にも何も告げずに、18歳で夭逝してしまいました。親にとって、これ以上の残酷はありません。
私も残りの人生それほど長くはありませんが、最後まで十字架を背負って生きて行かなくてはなりません。実は、私はあまりにも次から次へと幸運に恵まれてきましたので、以前から時々"大丈夫かな"という気がしていました。私は宗教を持たない人間ですが、やはり天は禍福を調整したのではないかと。もしそうなら、ノーベル賞その他の幸運はいらないから、智を返してほしい…
と心から思います。深い悲しみにくれる日々ですが、本当に短い間ではありましたが、あれほど魅力的な若者と過ごせたことを、感謝しなくてはならないのかと思うこともあります。」と、「息子を戻してくれるならノーベル賞もいらない」というくだりは氏にとって無念の極みであろう。彼が何を悩み、何を苦しんで死を選んだのかは、本人以外に知る由もない。
が、偉大すぎる親を持った子が、親のようになれない自分を悲観することはままある。周りが期待することのプレッシャーも相当のものがある。1つだけ言えることは、彼の人生は勉強だけで終わってしまったということか。父のように学問が好きで仕方のない人間は、学問をやる事が何より幸せであるが、勉強に生き甲斐を見出せない人間は、途方に暮れる。
もちろん偉大な親に罪はないが、「ノーベル賞はいらない」の利根川博士の言葉には、それとなく自分の偉大さを呪うようでもある。「一体、自分はいつまで勉強をしなきゃならないのか?」という息子の悲痛な叫びが聞こえてくるようだ。惜しい才能というより、なんとも惜しまれる命であろう。