自慢じゃないが「花オンチ」である。多少改善されたが知らない花ばかり。花には無縁なのは男の子だったこともあろうか。誰も花についての話をしない。それでも3月~4月の満開の桜、唱歌に歌われるチューリップ、田んぼに咲く蓮華や道端のたんぽぽ、遠足はいつもツツジの季節だった。それくらい知っとけば何も困らない。それほど男の子に花は無縁だっらし、花より団子に決まっている。
少女たちはしばしば花を摘んだ。彼女たちはシロツメクサの王冠や首飾りなどで身を飾り王女さまを気取っていたが、男の子には棒切れがあればよかった。剣を片手に王子さまというより、侍気取りだった。確かに花は美しい。自然が与える恵みだろう。人は花を求めるが、花は人を求めない。人は花を摘むが、花は人に摘まれたいのか?そういえばこんな歌の歌詞があった。タイトルは『花と小父さん』
花は人間に関心はなかろう。花はただ無心に咲くだけで、人間のことに何の頓着もない。花たちは自らを弁明もせず宣伝もしないし、精いっぱい咲いて見せているだけだが、『花と小父さん』は花の視点で人を見る。花を擬人化し、花から人を眺めているが、花がこんな風に人に想いを寄せるなら、花はいっそうかわいく感じられる。花言葉もたくさんあるが、「瓜のつるになすびはならぬ」という言葉が好きだ。
子は親に似るものとの意味だが、反面、平凡な親から非凡な子は生まれないの意味もある。なぜバラに棘がある?虫から身を守るほどの役目もなさそう。人に摘まれたくないわけでもなさそう。バラが有名になったのは人が好んで栽培したからだ。男は女にバラを贈るが、あれは女性がバラを好むからではない。「恋人に花輪を捧げることで男は獣性を脱したように思わせるため」であるらしい。
『美女と野獣』は映画にもなったが、1740年にフランスで書かれた異類婚姻譚(人間と違った種類の存在と人間とが結婚する説話の総称)である。日本では『鶴の恩返し』という童謡にもなった『鶴女房』が有名である。男は野獣なのか、それとも美女は野獣が好きなのか。花を歌った曲は多く、なかでも加藤和彦の『花のように』がいい。詩は北山修になる。"花のように終わった"と繰り返えされる最後は物悲しい。
やがて散るであろう花を贈るのは妙な慣習だ。恋の終りを予感させるように感じられる。贈る男も受けとる女も満面の喜びをたたえるが、いのち短き花を手にするときは少し悲しい表情をすべきでは?これは余計なことだろう。西洋の洋装花嫁はブーケを手にするが、これが日本に広まったのは先の大戦後だという。花(ブーケ)をもつから花嫁ではない。日本の花嫁は扇子をもっていた。
なのに花嫁と呼ばれたのはなぜだろう。調べてみるといくつかの語源があった。一つはその昔、結婚式に嫁を迎える際に男の家では女性が歩く為の花道を作った。その道を通って「嫁」が来ることから花嫁と呼ばれた。なんともゴージャスな伝えである。もう一つ、きらびやかで美しい様子を、「華やか」といい、「花やか」とも記述されることから、「花嫁」、「花婿」と呼ばれるようになったと伝えられている。
花束も花やかだが、心にもないお世辞を隠す代用とされる場合がある。祝賀会の花束や告別式の花輪など、すべてがそうとはいわぬが、あながちそうでないとはいえない。習慣とは不思議なもの。儀式に花を飾るのは外来文化で、仏教とキリスト教によってもたらされた。日本の土着文化である古神道は花を飾ることはない。そこにあるのは榊であり、神前には魚や野菜が供えられる。
昨今、挙式は派手な西洋式が主流。それでも神前挙式に拘る若者もいるが、神前に花束はいかにも不自然、やはり花とは無縁である。ウェディングドレスが女性には人気のようだ。純白のウィディングドレスに身を纏うは女の不純の現れか。西洋の風習とは表層飾りを大事にするが、ふと蓮の花に想いを寄せてみる。純白で清廉な蓮の花は、なんとも不潔で濁った泥沼から咲き出ている。
蓮の花の純粋性とは、泥沼の不純性への抵抗とされる。表層の飾りを重んじない東洋的精神の奥深さかも知れぬ。釈尊はあらゆる花の中で蓮をもっとも好んだという。というのは、あの純白な清潔さのためだけでなく、抵抗というそれ自体を愛したのか。花の歌は多く、人間と花は切れない関係にある。人は花をどれほど歌い、語り、賞でてきたのか。人間は花そのものになりたがっている。
人の舞踊をみて想うことは、あの執拗なまで繰り返さる輪舞というのは、己の姿を花に見立てているようだ。まさに人がそのまま花の状態である。舞踊とは人体が咲くことをあらわしているという。のっけに『花と小父さん』という曲について記したが、あの歌に漂う不思議感はやはり詩に由来する。主人公は伯父さんでも叔父さんでもない。小父さんとは、他人である年配男性を親しんでいう語句である。
この曲には知られざるエピソードがある。『涙くんさようなら』や『バラが咲いた』などのヒット曲で知られる浜口庫之助は、この曲をジャズシンガー時代の後輩植木等に書いた。『スーダラ節』の植木等がジャズシンガー?彼は歌手を目指して音楽界に飛び込んだ。が、当時の植木に抒情的でメルヘンチックなこの曲は合わない。そこで急遽同じ渡辺プロの新人歌手だった伊東きよ子に歌わせたという。